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孫権

孫 権(そん けん)は、三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀。なおよく並べられる曹操・劉備とは(父孫堅が同世代なので)およそ1世代下にあたる。清代の『四庫全書』の記載によると、先祖は春秋時代の兵法家・孫武に遡るとされ、さらに浙江省杭州の富陽市南部に龍門古鎮という村があり、現在は観光地になっている。この村では9割の人の姓が「孫」で、孫権の末裔と自称している。この村の族譜では、革命家の客家の孫文も該当するというが、実際には孫権の祖父を初めとしてどのような家柄の生まれであったのか真偽の程は不明である。182年(光和5年)、孫堅が下邳の丞であった時に孫権は生まれた。184年(光和7年)、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、母の呉夫人と子供たちを九江郡寿春に残した。189年(中平6年)、廬江郡舒県に移住した。191年(初平2年)、孫堅が黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い)。葬式が終わった後、一時的に江都に移り住み、呉夫人はそのまま遺児を扶養した。194年(興平元年)、孫策は袁術の為に廬江を攻めていた、揚州牧の劉繇は袁術と孫策を恐れて対立の構えを取った。この時、孫策の家門はことごとく揚州に在ったため。朱治は人を曲阿に使わして呉氏および孫権と弟たちを迎えさせ、これを保護した(呉書朱治伝注『江表伝』)。翌年孫策が江東で事を起すと、孫権は常に随従した。孫権は始めて名が知られると父兄に等しくなった,計謀の毎に参同し、孫策は甚だ奇として自身は及ばないと考えた。196年(建安元年)、これを陽羨県長とした。奉義校尉を行した。呉郡に胡綜と朱然に学問を学んだ。199年(建安4年)、孫策の廬江太守劉勲の征伐に従った。劉勲を破ると、進んで沙羡(武漢市江夏区西郊)に黄祖を討った。 徐州広陵郡を攻めたが、広陵太守の陳登に大敗した。父の孫堅、兄の孫策を相次いで亡くし、200年(建安5年)、19歳で軍閥の後継者となる。当初は、山越の反乱が活発になったり、廬江太守の李術が離反したり、弟の孫翊が側近に殺されたり、従兄弟の孫暠が反乱を企てたり孫輔が曹操と内通したりと、政情不安定であったが、父や兄から引き継いだ家臣団をまとめあげると共に、積極的な人材登用を行い、政権を充実させた。208年(建安13年)には父の仇である黄祖を討ち取った。同年、曹操が大軍を率いて南下してくると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪びとを討伐せんとし、軍旗が南に向ったところ、劉琮はなんら抵抗も示さず降伏した。今度は水軍八十万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟をいたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった。豪族の集合体である孫氏軍閥の性質から、帰順派(張昭・秦松等)が多勢を占める中、孫権は抗戦派(周瑜・魯粛等)の意見、及び孫権に救援を求めるために魯粛に随行する形で劉備から派遣された諸葛亮の説得により開戦を決断した。孫権は刀を抜くと前に置かれた上奏文を載せるための案(つくえ)を斬りつけて、「お前たちの中に、これ以上、降伏すべしと申す者がおれば、この案(つくえ)と同じ運命になると思え」と言った。かくして孫権は劉備と同盟を結び、曹操と戦うこととなった。周瑜らは同年の赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより曹操の水軍を大いに破る。江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、不利を悟って撤退した。赤壁の戦いの前後に、孫権は10万の兵を率いて、百余日、合肥を攻撃したが、落とすことができずに撤退した。戦後、劉備は劉表の長子の劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合した。また、孫権は劉備とともに南郡を攻め取り獲得し、劉備の上奏で徐州刺史・行車騎将軍に就任した。その後、程なくして劉琦が死去したために劉備自ら荊州牧となった。孫権と劉備は京城で会見し、赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話し合った結果、劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることとし、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。210年(建安15年)、交州刺史の歩騭を派遣して、士燮を服属させ、呉巨を謀殺した。212年(建安17年)から翌年にかけて、曹操と濡須で交戦し、みずから出陣してこれを撃退した(濡須口の戦い)。214年(建安19年)、呂蒙・甘寧を率いて曹操領の皖城を降し、廬江太守の朱光と数万人の男女を捕らえた。孫権は合肥の戦いなどにあっては攻撃時は自ら陣頭に立ち、退却時には最後まで戦場に残って退却の指揮を執るなど勇猛果敢であったが、それが過ぎて軽率である場合もあり、命を落としかけたことも幾度かあった。劉備が益州刺史の劉璋を攻め降して益州を領有すると、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求した。しかし、劉備は涼州を手に入れてから荊州の全領地を返すとして履行をさらに延期した。業を煮やした孫権は3郡を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、呂蒙ら軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪ってしまった。劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになったが、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は孫権と和解し、長沙・桂陽を孫権に返還し、同盟友好関係が回復した。217年(建安22年)、曹操が濡須を攻撃したため、呂蒙を大将に任命して防がせた(濡須口の戦い)。山越も曹操に呼応して挙兵したが、賀斉と陸遜に命じて撃破した。曹操との戦線が膠着すると孫権は曹操に形式的に臣従を申し入れたため曹操軍は引き揚げた。劉備が益州と荊州の半分を支配して勢力を拡大する中、219年(建安24年)、荊州の守備を任されていた関羽は軍を率いて北上した。孫権は同時期に合肥を攻撃していたが、荊州が手薄になった隙をついて曹操の誘いに乗り、呂蒙に荊州を奪わせ、退路を失った関羽を捕らえて処刑した。荊州の奪取によって劉備と敵対した孫権は、死去した曹操の後を継いだ曹丕に接近した。後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認し、形だけ臣下の礼をとって呉王に封ぜられた。北方の安全を確保した孫権は、222年(黄初3年)、荊州奪還のために東進してきた劉備率いる蜀漢軍を夷陵の戦いで陸遜に迎え撃たせて打ち破り、荊州の領有を確実にした。孫権は劉備が白帝に留まっていると聞き、使者を派遣して和睦を請うた。劉備はこれを許可し宗瑋・費禕らを何度も派遣して答礼させた。これによって、三国の領域が確定した。蜀漢を破り和睦したため、魏と同盟する必要のなくなった孫権は、形式上臣従していた魏から離反し、黄武という独自の元号を使い始めた。この年が呉の建国の年とされる。失意の劉備が死去すると、諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けばたぶん異心を抱くだろうと深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整えさせた。こうして翌223年(黄武2年)、蜀漢と再び同盟した。以後、呉は蜀漢と結んで魏に対抗し、諸葛亮の北伐など蜀漢の動きに呼応してたびたび魏へ侵攻した。このように、孫権は巧みな外交によって勢力を拡大・維持した。222年から223年にかけて、呉は3方向から魏に攻められ苦戦したが、朱桓が曹仁を破り、疫病が流行したため、魏軍は退却した。224年(黄武3年)、魏は再び攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に偽の城壁を築いていたため、これに驚いた魏は戦わずして退却した。226年(黄武5年)、孫権は呂岱を派遣して、士徽の反乱を鎮圧し、交州の支配を強化した。同年、孫権・孫奐・鮮于丹は江夏を攻め、諸葛瑾は襄陽を攻め、孫奐・鮮于丹は高城を落としたが、諸葛瑾は司馬懿らに敗れ、孫権らは撤退した。228年(黄武7年)、周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い、大勝した(石亭の戦い)。229年には皇帝を称し、呉の初代皇帝(太祖)となるとともに、元号を黄龍と改めた。即位の翌年、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。夷州から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、衛温・諸葛直を処刑した。233年(嘉禾2年)3月、顧雍・陸遜・張昭ら重臣の諫止を聞かず、公孫淵の内通を真実と信じ、張彌・許晏・賀達らに九錫の礼物と策命書を携え兵1万を動員した。結果は家臣の予想通り、公孫淵は孫権が派遣した使者を斬り、恩賞を奪った上で魏に寝返ってしまった。激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、薛綜ら側近達の諫止により思いとどまった。234年(嘉禾3年)、蜀軍との同盟により、諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻めるが、満寵に苦戦し、曹叡の親征軍が来ると聞くと撤退した。この年から3年間、諸葛恪・陳表・顧承らを派遣して揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人徴兵した。236年(嘉禾5年)に五銖銭500枚、238年(嘉禾7年)に五銖銭1,000枚の価値を持つ貨幣を発行した。赤烏初年、佞臣とされる呂壱を側近として重用していたが、後に悪事が露見して処刑されている。239年(赤烏2年)、公孫淵が魏に対して挙兵し、孫権に援軍を求めると、援軍として羊瞆、孫怡を派遣し、魏の張持を破るも、公孫淵は魏に討たれた(遼隧の戦い)。241年(赤烏4年)に、朱然や諸葛瑾に命じて、大軍で魏を攻めたが、結局大きな戦果は得られなかった。(芍陂の役)243年に諸葛恪が魏を攻め、六安で謝順を破った。諸葛恪は、寿春攻略を願い出たが孫権は許可しなかった。244年に歩隲・朱然らが、蜀が魏と通じて、呉を攻めようとしていると言上したが、孫権は取り合わなかった。皇太子であった長男の孫登が33歳で病没すると。242年(赤烏五年)、3男の孫和に太子に立てられ、しかし孫権は当時寵愛していた4男の孫覇を孫和と同等の処遇としたため、立太子を期待する孫覇派と、廃太子を防ごうとする孫和派との対立を招いた。後継者をめぐる家臣たちの対立は泥沼化し。しばらくして孫和・孫霸が和穆していないとの声が孫権の耳に聞こえ、孫権は往来を禁断し、精学の時間を与えた。やがてそれに嫌気が差した孫権は末子の孫亮を寵愛し出す様になり、250年(赤烏13年)に結局両者を排して彼を太子に立てた。この10年に渡る対立は、家臣団の間に大きな亀裂を生んだほか、多くの家臣が処刑・自殺・追放に追い込まれ、呉という政権の求心力を大きく低下させた(二宮事件)。のちに孫権は、死の床で孫和の無実を悟り、彼の名誉を回復しようと考えたが、孫和を憎悪していた娘の孫魯班の讒言により思いとどまっている。251年(太元元年)、長江が氾濫し、城門まで水に浸かる被害が出て、孫権が視察すると、呂拠は大船をつなぎとめて被害が出るのを防ぐために尽力した。孫権はこれを喜び、呂拠を盪寇将軍とした。また、王表という神を信じて福を求めたりするなどの失敗が目立つようになった。252年(神鳳元年)、危篤になると、諸葛恪・孫弘・孫峻・滕胤・呂拠らに後事を託し、4月26日、孫権は死去し孫亮が皇帝となった。孫権の陵墓は、南京(建業)東の梅花山にある。異相で、あごが張って、口が大きく、瞳にはキラキラとした光があった(『江表伝』)。漢の劉琬いわく 「自分が孫氏の兄弟を観たところ、中弟の孝廉(孫権のこと)だけは形貌は奇偉で骨体は世のつねの人ではなく、大貴人の趣きがある。また天寿も最も長いだろう」。野史には「背は高いが胴長短足で、紫髯(赤ひげ)の持ち主だったと云われる」(『山陽公載記』)(『献帝春秋』)。孫権は将軍の時、「至尊」と呼称されている。小説『三国志演義』では碧眼を持つとも描かれ、「碧眼児」(蒼い目の童)と呼ばれる。度量が広く朗らか、優しいだけでなく決断力がある性格、男気を好み士を養う(性度弘朗,仁而多斷,好俠養士)(『江表伝』)。 言動がおどけていて、無茶苦茶な冗談を飛ばしてからかう性格(性既滑稽,嘲啁無方)。曹丕と鍾繇は「嫵媚」という形容を使い孫権の柔軟な物腰を評している。(『魏略』)孫権は呉県にいこうとして親しく乗馬し、庱亭で虎を射た。馬が虎に傷つけられたので孫権は双戟を投げたところ、虎は怯んだので、近侍の張世が戈で撃ってこれを獲えた。彼が持つ神鋒弩、射程は三里、三頭の馬を貫くことができる 。また張遼の言によると、武芸においては馬をよく操り、騎射が得意であったという。北宋の詩人である蘇軾の『江城子·密州出獵』には「親射虎,看孫郎」と歌われている。 武昌で「長安」なる巨大戦艦の進水式を行った際、孫権も船に乗っていたのだが、羅州まで向かう途中で風が激しく吹き、長江が大いに荒れた。万一を危惧した側近達は船長に樊口に向かうように命じたが、大いにはしゃいでいた孫権はそのまま羅州まで向かえと命令を出した。 見かねた側近の谷利が船長に刃を突きつけ「樊口へ向かえ。さもなくば斬る」と脅したため、結局樊口に停泊した。君命を無視された孫権は谷利に「利ちゃん、何故そんなに水を怖がるのだね」とぼやいたところ、谷利に「もし船が転覆したならば、国家の事業をどうされるのでございますか。ですので谷利は、あえて死をかけてお止めしたのでございます」と諭されている。また書を好み、隷書と草書と行書が巧みで、唐の張懐瓘の『書估』では、「奇材見拔,絕世難求」と評されている。呉への使者を務めた趙咨が魏の曹丕に尋ねられた際、「聡明、仁智、雄略」と評している。賈詡は、「孫権は虚実を識り、陸議が兵勢を見ており、険阻に拠って要衝を守り、江湖に舟をうかべ、皆にわかに謀るのは困難です。用兵の常道は、先ず勝った後に戦い、敵を量って将を論じるもので、それゆえ事を挙げても遺策は無いのです。臣がひそかに群臣を料るに、劉備や孫権に対応できるものはおりません」と評している。正史『三国志』撰者の陳寿は、「孫権は、身を低くし辱を忍び、才能ある者に仕事を任せ綿密に計略を練るなど、 越王句践と同様の非凡さを備えた、万人に優れ傑出した人物であった。さればこそ江南の地を自らの物とし、三国鼎立をなす呉国の基礎を作り上げる事が出来たのである。」と彼の功績を称えたが、一方で「讒言が人々の正しい行いを断ち切り、跡嗣ぎ(孫和)も廃され殺される事になった(至于讒説殄行,胤嗣廢斃)。子孫達に平安の策を遺して、慎み深く子孫の安全を図った者とは謂い難い(豈所謂貽厥孫謀以燕翼子者哉)。その後代が衰微し、やがて国が滅びる事になるのだが、その遠因が彼のこうした行いになかったとは言い切れない(其後葉陵遲,遂致覆國,未必不由此也)」と、彼の晩年の振る舞いを批判している。『異同雑語』の著者の孫盛は、「孫権が士を養うさまを見ると、心を傾けて思いをつくすことで、その死力を求めたのである(觀孫權之養士也,傾心竭思,以求其死力)」と評した。『弁亡論』の著者の陸機は、「太祖(孫権)は徳を以て成し、聡明睿達にして、懿度深遠であった。賢者を求めるに果てしもなく、民を幼子のように哀れみ慈しみ、人に接するに優れた徳を盡し、仁者に親しむ際は心の底から愛を尽くした。呂蒙を軍隊より抜擢し、潘濬を捕虜の中に見出した。誠信なる人物を推挙し、人が自分を欺くことなど憂えず、才能を量って適所に用い、それらの権力が自分を冒すなども憂うことは無かった。馬に乗り鞭を取っても身をかがめて敬いつつしむことで、陸公(陸遜)の威厳を重くし、近衛兵まで悉く委ねることによって、周瑜の軍を救った。宮殿は質素にし、食事も粗末にして、功臣への恩賞を豊かにし、心を開き人の話によく耳を傾けて、国家の大計を唱える者の意見を容れた。それだから魯粛は一度会っただけで自らを託し、士燮は險を冒して臣下となることを望んだのである。張公(張昭)の德を尊び、そうして狩の楽しみを減らし、諸葛瑾の言うことを尊んで、情欲の楽しみを割き、陸公の規(いましめ)に感じ入って刑罰に関する政治の煩しさを取り除き、劉基の議論を優れているとして「三爵之誓」を作り、身の置き所のないほど、おそれ慎んでいる子明(呂蒙)の病を見舞い、滋養のある物を分け与え、甘い物を減らして凌統の孤児を育て、天子の位に就き、意気上がり感激するにも、それを魯粛の功績に帰し、悪言など見向きもせずに子瑜(諸葛瑾)の忠節を信じた。こういう訳で忠臣達は競って其の謀を尽くし、志士は皆尽力することができたし、大計は遠略にして、固より区々たるに飽きぬものであった。だから百官は幾らかまとまってはいたが、庶務については未だ手が回らなかった」と評した。孫権は呉王に封建されると酒宴を開いて自ら酒を注いで回ったが、虞翻は酔い潰れた演技でやり過ごし、孫権が去るとすぐに居住まいを元の如く正した。孫権は大いに怒り、かつて曹操が孔融を処刑した例を引き合いに虞翻を斬ろうとしたが、大臣の劉基が理を尽くして諭した為に遂に虞翻を許した。後に酔いが醒めた孫権は自分の行いを大いに悔い、「以後は酒宴の場で自分が下した命は無効とする」と触れを下した(『虞翻伝』)。陸遜が曹休を破った際、孫権は大宴を開いた。酒に酔った孫権は陸遜に命じ、二人で共に舞を踊った。その時着ていた毛皮の衣を脱いで下賜した(『呉書』『太平要覧』)。213年正月,曹操は孫権の長江西岸の陣を攻撃して打ち破り部将の公孫陽を捕らえるなどしたが決定打には欠いた。孫権は自ら軽船に乗って来り、濡須口より曹操の軍営に入った。諸将は皆なこれは挑戦者だと考え、これを撃とうとした。曹操「これはきっと孫権が自ら我が軍の部伍を見ようとしたものだ、 軍中皆なに厳戒させ、弓弩を妄りに発させなかった。」孫権は行くこと五·六里で迴頭し、帰還には鼓吹を為した。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つならまさに孫権のようなのがいい」(生子當如孫仲謀)と周囲に語ったという。中国ではことわざとして、若い世代を称賛する時に使う。孫権が曹操への札簡で説くには 「春はまさに水が生ず。君は宜しく速やかに去るべし。」別の紙で言うには、「足下が死なねば私は安んずる事が出来ぬ。」曹操が諸将に語るには「孫権は私を欺かぬ」かくして軍を徹収して帰還した。 (『呉録』) そのほか、袁夫人、謝姫(孫覇の母)、仲姫(孫奮の母)、趙夫人(『三国志』には名が見えないが、九宮一算術で有名な趙達の妹で六朝期の画家とされる。刺繍が得意で「呉の三絶」との言葉を生んだ)といった名が見える。そのほか、劉纂と滕胤に嫁いだ娘がいる。

出典:wikipedia

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