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タイコンデロガ (空母)

タイコンデロガ (USS Ticonderoga, CV/CVA/CVS-14) は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦で、同級空母としては10番目に就役した。タイコンデロガはニューヨーク州北部にあるアメリカ独立戦争時の古戦場であり18世紀に作られた「タイコンデロガ要塞」が由来。イロコイの言葉で「二つの水に挟まれた場所」の意味がある。その名を持つ艦としては4隻目。現在その艦名はイージス艦タイコンデロガに引き継がれている。当初はハンコックの艦名で1943年2月1日にバージニア州ニューポートニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工された。1943年5月1日にタイコンデロガに改名され、1944年2月7日にステファニー・サラ・ペルによって進水する。1944年5月8日にノーフォーク海軍工廠で初代艦長ディキシー・キーファー大佐の指揮下就役する。1943年の対空火器改善計画に伴い飛行甲板前端に機銃座を増設するために船体を延長した長船体型の第一艦である。長船体型は「ロングハル-エセックス」あるいは「タイコンデロガ級」と呼ばれることもあるが、アメリカ海軍においては同じエセックス級であり、これらを区別していない。タイコンデロガは第89航空団を乗艦させると整調訓練のためおよそ二ヶ月をノーフォークで過ごす。6月26日に英領西インド諸島へ向けて出航する。航海の途中も航空作戦及び訓練を指揮しながら、スペインのトリニダードに6月30日到着する。続く15日にわたってタイコンデロガは乗組員及び搭載航空団への集中的な訓練を行う。7月16日に西インド諸島を出発し、22日にノーフォークに帰還する。8日後にタイコンデロガはパナマに向かった。9月4日にパナマ運河を通過し、サンディエゴに向かう。13日にサンディエゴに停泊し、給油、航空燃料補給、77機の艦載機と海兵隊航空団を搭載する。19日にハワイに向けて出航し、5日後に到着した。タイコンデロガはほぼ一ヶ月を真珠湾で留まり、輸送艦カリーナ ("USS Carina, AK-74") と共に艦載機用爆弾の洋上補給訓練を行った。それらの訓練後に昼夜の着艦及び対空防御訓練を10月18日まで行い、真珠湾を出港し西太平洋に向かう。短期間のエニウェトク停泊後、29日にウルシー環礁に到着する。ウルシーでは第6空母部隊の指揮官アーサー・W・ラドフォード少将が乗艦し、タイコンデロガはフレデリック・C・シャーマン少将指揮する第38.3任務部隊に加わる。タイコンデロガは第38機動部隊と共に1944年11月2日に出撃した。僚艦と合流すると部隊はレイテ攻略部隊の地上支援攻撃を再開した。タイコンデロガは5日の朝に最初の攻撃を開始する。部隊はルソン近くでの敵艦攻撃と対地上攻撃に二日を費やした。レイテ沖海戦など、フィリピンや台湾、沖縄の周辺海域で活動し、ミズーリと共に東京湾での日本の降伏文書調印式に立ち会った。1945年1月21日には台湾沖で零戦2機による体当たり攻撃(特攻)を受けている。大戦後は、ジェット機運用のための近代化改装工事を数回にわたって受けた後、主に東南アジアで活動し、ベトナム戦争にも参加した。1965年12月5日、同年11月からのベトナム沖での任務を終えて横須賀へ帰還する途中、北緯27度35分2秒・東経131度19分3秒(喜界島の南東約150キロ)で水素爆弾(B43・核出力1メガトン)1発を装着したA-4Eがエレベーターから海中に転落する事故が発生した。機体は乗員(ウェブスター大尉)ともに水没した。核攻撃アラートに就くために飛行甲板にあげる途中であった。現場の水深は約5,000メートルあり回収は不可能であるとされている。事故は1981年の国防総省の報告書で明らかにされたが、詳しい場所については1989年に明らかにされた。周辺海域の調査によれば放射能汚染は認められていない。また、1972年12月には、アポロ計画による最後の有人月面着陸を飾ったアポロ17号の回収母艦となり、サモア諸島沖の南太平洋上で三人の宇宙飛行士と司令船(カプセル)を回収した。タイコンデロガは第二次世界大戦での戦功で5つの従軍星章、3つの海軍部隊栄誉章、1つの部隊勲功章を、ベトナム戦争の戦功で12の従軍星章を受章した。

出典:wikipedia

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