依田 紀基(よだ のりもと、1966年2月11日 - )は日本の囲碁のプロ棋士。北海道岩見沢市出身。安藤武夫七段門下、九段。名人4期、碁聖6期、NHK杯優勝5回、世界棋戦で第1回三星火災杯世界オープン戦優勝など、タイトル獲得数35。棋道賞優秀棋士賞4回。左利き。1966年(昭和41年)2月11日北海道美唄市に生まれる。小学4年生の時に父の転勤で隣町の岩見沢市に移り住む。かなりの勉強嫌いで小学校での成績がほとんどオール1であり、「このままでは自分は生きていけないのではないか」と激しい不安を抱いていた。小学4年生の夏の終わりごろ父の誘いで碁会所に行く。入所してまもなくから毎週一級ずつ上がって瞬く間に初段になった。学校から帰るとそのまま碁会所に行き5,6時間打ち続ける生活を送り、半年でアマ三段、1年もしないうちにアマ五段・六段になっていった。小学5年生の時に上京。安藤武夫の内弟子になる。入った時に兄弟子が1人いたがすぐに独立したため最年長となる。日本棋院院生となりA1~F2の12クラスあるうちのD1クラスとなる。院生になって3年目、13歳の時に入段試験を受け12勝4敗で4位入段を果たす。1983年 17歳5カ月で新人王戦優勝。最年少記録を更新。(当時)。18歳になった時に独立。たちまち新宿歌舞伎町の麻雀屋に入り浸るようになる。1984年 18歳で名人戦リーグ入り。当時の最年少記録を更新。しかしこの頃になるとギャンブルと酒と女性に嵌まり、まったく碁の勉強をしなくなる。そのため碁を打つのが怖くなってしまう。そんな状況を救ってくれたのは上村邦夫九段の助言だった。その後依田は立て直していく。1988年 第4回日中スーパー囲碁に先鋒で出場し6人抜き1991年 NHK杯優勝。「囲碁クラブ」誌の企画で李昌鎬と五番勝負を行い3-1で勝利。1993年 テレビ囲碁アジア選手権戦優勝。九段。28歳で今度はバカラにのめりこむ。その生活を見直したのは、中村天風の著書を読んだことがきっかけだという。以降、天風の教えを自身の勝負観に盛り込んでいる。1996年 王立誠を3-1で退け、十段位初防衛。 第28期碁聖戦で、小林光一碁聖に挑戦、3-2で碁聖位を獲得。2000年 NHK杯優勝。テレビ囲碁アジア選手権戦優勝。第25期名人戦で、四連覇の趙治勲を4-0で破り、前年の雪辱を果たすとともに初の名人位に就く。以後四連覇。2004年 第17回世界囲碁選手権富士通杯準優勝。第59期本因坊戦で、挑戦者となるが、2-4で張栩本因坊に敗退。2006年第7回農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦の最終第3ステージにおいて、日本チームの主将として出場し、韓国副将の趙漢乗八段、中国主将の孔傑七段、韓国主将の李昌鎬九段の3人抜きし、日本チーム初優勝をもたらした。第31期碁聖戦で挑戦者張栩に0-3で敗れ、碁聖位を失い無冠になる。2007年 本因坊リーグを勝ち抜き、高尾紳路本因坊に挑戦するも1-4のスコアで敗退。2008年10月、第1回ワールドマインドスポーツゲームズ囲碁男子団体戦に山下敬吾、羽根直樹、河野臨、高尾紳路と日本代表チームを組み出場、銅メダルを獲得。2009年 棋聖戦で山下敬吾に挑戦するが、2-4で敗退。国際棋戦国内棋戦名人戦挑戦手合七番勝負で、依田3連勝の後の4局目、右辺白が連絡して白が優勢だが、白2(94手目)から中央白を捨てて打つ大胆な捨石によって勝利を確定した。本人によれば、碁の歴史を変えるほどの大発見である筋の根本原理である理論。筋場は石が2つ以上並んだ瞬間に存在し、「2つ以上石が並んだ、相手の石がない側の1路横」のことである。下の図でいえば、黒石周辺の赤丸の位置が「筋場」となる。この位置は黒から打てばアキ三角の愚形となり、白から打てば相手の強い石に貼り付いた働きのない手となる。自分は筋場に打たぬよう、相手を筋場に打たせるようにする手が「筋の良い手」ということになる。たとえば黒と白の石が対峙している時、黒から1と打って白2にノビさせる手は、基本的に悪手となる。黒は1の石が相手の筋場に行っているのに対し、白石は筋場に行っていないから、と説明される。下の図で、aの点は黒▲の石から見て「ダブル筋場」に当たっているので、どちらからも打ちたくない箇所となる。このため、白1のキリに対して黒aとツグのは極めて筋が悪く、黒bにアテて、白にaと筋場に打たせるのが良い手となる。他多数
出典:wikipedia
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