フランク・ヴェーデキント(Frank Wedekind、1864年7月24日 - 1918年3月9日)は、ドイツの劇作家。本名はベンジャミン・フランクリン・ヴェーデキント(Benjamin Franklin Wedekind)。ドイツ表現主義の先駆者、不条理演劇の先駆者として評価されている。代表作に『春のめざめ』『地霊』『パンドラの箱』など。ハノーファーで医師の父と女優の母のあいだに生まれる。父はかつてトルコ宮廷に仕え、三月革命後に国民議会の代議員を経験、その後アメリカに渡りサンフランシスコで15年間医業に携わっていた人物である。このため息子フランクはアメリカ国籍で、本名も父の敬愛するベンジャミン・フランクリンにちなんで名付けられたものであった。その父より20歳以上年下の母はアメリカで活動していたドイツ系スイス人の歌手で、フランクの音楽的才能はこの母に負っている。夫妻は息子が生まれた1864年にドイツに戻り、1872年にスイスの城館を買ってここに移り住んだ。アーラウの州学校などを経て、1884年にローザンヌの大学でドイツ文学およびフランス文学を学ぶ。しかし同年中に父の意向を受けてミュンヘンの大学に移り、ここで法学を勉強するが中途で打ち切った。作家活動に興味を持っていたが父の反対に会い、ジャーナリスト、調味料会社マギー(現在のネスレ)の宣伝部員と職を変えながらボヘミアン的生活を送る。この間にミュンヘンやチューリヒの文学サークルに出入りし、当時起こっていた自然主義文学に触れるが、自然主義とは早くから訣別する。特にこの頃に知り合った自然主義の劇作家ハウプトマンに対しては終生反感を持ち続けた。1888年、父が死んだことによって多額の遺産が入り、これによって作家生活の保証が得られる。1890年には代表作の一つ『春のめざめ』を完成するが、自然主義がもてはやされていた中でこの作品は受け入れられず、初演が行われるのは16年も後のことになった。1891年にパリに渡り、彫刻家ウィリー・グレトーアの秘書を務める。この仕事の関係で一時ロンドンにも渡った。パリではまたストリンドベリとも知り合っているが、ヴェーデキントはのちに彼の前妻との間に一子をもうけている。その後帰国して『地霊』(1896年)を書き上げるがこれも上演できず、一時はチューリヒを拠点として「コルネリウス・ミネハラ」という芸名の朗読家として活動した(主要演目はイプセンであった)。1896年よりミュンヘン発刊の風刺雑誌『ジンプリチシムス』に「ヒエロニムス」の筆名でさかんに寄稿。1898年、「イプセン劇場」に役者兼演出家として契約し、『地霊』を各地で上演。母方の祖父の名である「ハインリヒ・カンメラー」を芸名として自らシェーン博士を演じる。しかしこの間、『ジンプリチシムス』に寄稿した皇帝ヴィルヘルム2世に関する諷刺詩が不敬罪に問われたため一時チューリヒに逃亡、1899年に結局ドイツに戻り翌年まで要塞禁固刑に服する。この逃亡と服役との間に『カイト公爵』を書き上げた。服役後ミュンヘンに戻り、この地に文学者と交流、文学カバレット「十一人の死刑執行人」に参加し自作のバラッドをギターの弾き語りで披露する。またミュンヘンの劇場と契約し、1902年には『カイト公爵』を上演し自身でタイトルロールを演じる。1904年には『地霊』の続編『パンドラの箱』を完成させるが、猥褻文書として告訴され書物が押収される。しかし翌年よりニュルンベルクの親和劇場でヴェーデキント作品の連続上演が行われるなどして評価が進み始め、同年にはウィーンでもカール・クラウスの手によって『パンドラの箱』が上演されている。ここで出演したにヴェーデキントはルル役の演技としてはじめて満足し、ウィーンの女優ベルテ・マリー・デンクとの婚約を解消して翌年彼女と結婚、のちに彼女との間に二児をもうけた。以降の作品に『ヴェッターシュタイン城』『フランチスカ』など、第一次大戦中の晩年には『サムソン』『ビスマルク』『ヘラクレス』などの歴史大作を発表している。平和主義者であったヴェーデキントは大戦中も戦争にコミットする言説をおこなわず、必要最低限の愛国的発言をするにとどめた。1918年、虫垂炎再手術後に心臓衰弱と肺炎を起して死去した。ヴェーデキントの活動初期はドイツにおける自然主義文学の勃興期にあたり、彼も早くから自然主義に触れたが、すぐに自分の性質の相容れないことに気づき距離を置いた。特に早くに知り合い嫌悪を抱き続けた自然主義演劇の旗手ゲアハルト・ハウプトマンとは作風のうえでも対置される。ヴェーデキントは誇張された表現を用いることを辞さず、登場人物の劇的性格を時にグロテスクなまでに強調し、その台詞は意思疎通のためにでなく、しばしば意志の通じ合わないことを暴き出すために書かれている。『春のめざめ』では青年期の性の抑圧を、『地霊』『パンドラの箱』(ルル二部作)では既成道徳から自由な女ルルを描きブルジョワ社会の欺瞞を攻撃したが、このために上演の遅れや出版停止などの憂き目をみることにもなった。ヴェーデキントの活動はゲオルク・ビューヒナーから、のちの表現主義、現代演劇をつなぐ重要な位置にあり、特に後続の劇作家ベルトルト・ブレヒトは彼を敬愛し影響を受けている。ブレヒトは初期にヴェーデキントのバラッドの影響を受けた詩なども作っており、ヴェーデキントの死に際しては彼のバラッドをギターで弾き語りしながらレヒ河のほとりを歩きその死を悼んだという。『ルル二部作』はアルバン・ベルクのオペラ『ルル』の原作としても知られる。『春のめざめ』はスティーヴン・セイターによって2006年にロック・ミュージカル化され好評を得た(春のめざめ (ミュージカル)参照)。このほかヴェーデキントは1903年に、閉ざされた環境で過ごす少女たちを手記の形で描いた幻想的な中編小説『ミネハハ』を書いており、これは2004年にフランス・ベルギーで『エコール』(原題は"Innocence")として、2005年にイタリアにおいて『ミネハハ 秘密の森の少女たち』としてそれぞれ別個に映画化されている。
出典:wikipedia
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