水野 忠政(みずの ただまさ)は、戦国時代の武将・戦国大名。幼名は牛息丸、通称「藤七郎」で、初め「妙茂(ただもと)」を名乗ったとされる他、「右衛門大夫」および「下野守」を称した。娘に徳川家康の生母・於大の方(伝通院)がいる。明応2年(1493年)、水野清忠の次男として生まれる。幼名は牛息丸。はじめ尾張国の緒川城(愛知県東浦町)を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年(1533年)、三河国刈谷に新城(刈谷城)を築いた。織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、形原城主松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。天文12年(1543年)7月12日、死去。享年51。墓所は愛知県東浦町の乾坤院。法名は長江院殿大渓堅雄大居士。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)が掲げるのは次の9男6女である。記載の順に示す。「近守」および「信元」には、長子・次子の区別はない。寛政12年の「水野氏法名一覧」には、忠守が「長江院殿堅雄」(忠政)の三男となっている。ただし、ここでは「近守」を忠政の子としており、これを否定する「刈谷市史」の立場とは、その理由を異にする。「寛政譜」がその出自を示すのは次の2名である。「水野氏法名一覧」の中に次の2名が記されている。以上、冒頭の2名の妻と、その他「某」とされる者を含め、4名以上の女性が子供たちの母として存在していたことがわかる。
出典:wikipedia
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