尾張氏(おわりうじ)は、「尾張」を氏の名とする氏族。『日本書紀』巻第二の一書(第六第八)によると天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖神とし天忍人命から始まるとされる。本貫地は諸説あり不明。美濃・飛騨などに居住の後、乎止与命のときに尾張国造となる。倭武の時代には、熱田の南に拠点を移し、その後裔は熱田神宮大宮司を代々務めた。また同族に住吉大社(大阪市住吉区)の社家の津守氏、そして籠神社(京都府宮津市)の社家海部氏(国宝『海部氏系図』による)がある。記紀ではしばしば后妃を出した氏族とされる。遠祖である奥津余曾の妹、余曾多本毘売命(世襲足媛)は孝昭天皇の皇后となり、子は孝安天皇となっている。崇神天皇の妃を尾張大海媛とし、建稲種命の孫仲姫命を応神天皇の皇后とするなど皇統譜の古い時期に尾張氏と天皇が結びついている。また、建稲種命の子尾綱根命は応神朝に大臣として活躍し、その子意乎己は大雀朝(仁徳天皇)の大臣とされるなどヤマト王権の中でも大きな勢力を誇っていた。継体天皇の大和入りするまでの正妃は尾張連草香の娘、目子媛。第一子の勾大兄皇子は安閑天皇として、檜隈高田皇子は宣化天皇として即位。敏達天皇と皇后額田部皇女(推古天皇)の子に尾張皇子がいる。壬申の乱では海部氏に養育された大海人皇子へ私邸や資金を提供するなど全面的に支援し、天武天皇の誕生に格段の功績を上げている。持統天皇10(696年)年5月条に、尾張宿禰大隅が位階・功田を授けられる記事が見える。『続日本紀』天平宝字元(757年)年12月条によれば、この突然の恩賞授与の記事は、壬申の乱の功績によるものであるという。因幡国にも尾張姓を名乗る一族が存在した。この尾張氏は八上郡司を務める豪族で平安時代末期には一族のうち佐治氏、曳田氏が開発領主として成長した。このうちの佐治氏は鎌倉幕府御家人となり、和田合戦で活躍した佐治重貞は佐治郷地頭職に任じられたことが知られている。庶流に比べて尾張氏の本流については詳しく分っていない。
出典:wikipedia
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