葛城 襲津彦(かずらき の そつひこ/かづらき-/かつらぎ-/かずらぎ-、生没年不詳:4世紀末から5世紀前半頃と推定)は、記紀等に伝わる古代日本の人物。武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)の外祖父である。対朝鮮外交で活躍したとされる伝説上の人物であるが、『百済記』の類似名称の記載からモデル人物の強い実在性が指摘される。名称は、『日本書紀』では「葛城襲津彦」、『古事記』では「葛城長江曾都毘古(曽都毘古)」や「葛城之曾都毘古」と表記される。襲津彦のモデル人物は実在を仮定すれば4世紀末から5世紀前半頃の人物と推測されるが、その頃に氏・カバネは未成立であるため、「葛城」というウジ名のような冠称は記紀編纂時の氏姓制度の知識に基づいて付されたものになる。他文献では「ソツヒコ」が「曾頭日古」「曾豆比古」「曾都比古」とも表記されるほか、『紀氏家牒』逸文では「葛城長柄襲津彦宿禰」と表記される。また、『日本書紀』所引の『百済記』に壬午年(382年)の人物として見える「沙至比跪(さちひこ)」は、通説では襲津彦に比定される。系譜に関して『日本書紀』に記載はない。『古事記』孝元天皇段では、建内宿禰(武内宿禰)の子7男2女のうちの第八子として記載されている。記紀に母に関する記載はないが、『紀氏家牒』逸文では荒田彦(葛城国造)の女の葛比売とする。また『新撰姓氏録』では、右京皇別 玉手朝臣条等においていずれも武内宿禰の子とされている。子のうち、娘の磐之媛命(石之日売命)は仁徳天皇皇后となり、履中天皇・反正天皇・允恭天皇を産んでいる。また『日本書紀』では、襲津彦の子または孫に玉田宿禰(古事記なし)を、『古事記』では子に葦田宿禰(日本書紀では系譜言及なし)を挙げる。なお武内宿禰の系譜に関しては、武内宿禰が後世(7世紀後半頃か)に創出された人物と見られることや、稲荷山古墳出土鉄剣によれば人物称号は「ヒコ → スクネ → ワケ」と変遷するべきで襲津彦の位置が不自然であることから、原系譜では襲津彦が武内宿禰の位置にあったとする説がある。『日本書紀』では、神功皇后・応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代)に渡って襲津彦の事績が記されている。『古事記』では事績に関する記載はない。『万葉集』では、襲津彦に関連する次の1首が見える(強弓の典型例として伝説的武将の襲津彦を引き合いに出した歌)。墓の所在は不詳。奈良県南西部の葛城地方では、襲津彦と関連が推測される古墳として室宮山古墳(室大墓、奈良県御所市室)がある。同古墳は、葛城地方最大(全国第18位)規模の前方後円墳で、5世紀初頭頃の築造と推定される。出土品のうちでは、加耶(朝鮮半島南部)産の船形陶質土器が記紀の襲津彦伝承と対応するものとして注目されている。同古墳では武内宿禰の墓とする伝承も古くよりあったが、近年では築造時期から襲津彦の墓と推定する有力視されている。ただし、記紀における襲津彦の人物像のモデル人物は複数存在する可能性があるため、同古墳の被葬者と一対一に対応するものではない。『古事記』では、玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣らの祖とする。『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。また『先代旧事本紀』「国造本紀」穂国造条では、襲津彦命を生江臣の祖とする。『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。『古事記』では「葛城長江曾都毘古」の名で見えるほか、『紀氏家牒』逸文では大倭国葛城県長柄里(現・奈良県御所市名柄か)に住したので「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけたとあり、葛城地方の長柄(長江)地域との深い関係が指摘される。また襲津彦の子孫のうち、仁徳皇后の磐之媛命が履中・反正・允恭を産んだと見えるほか、襲津彦男子の葦田宿禰の娘の黒媛も履中の妃となった見えており、5世紀代における天皇家外戚としての葛城勢力の繁栄が推測されている。『日本書紀』では襲津彦に関する数々の朝鮮外交伝承が記されているが、『百済記』所載の「沙至比跪」の記載の存在から、実在モデル人物を基にソツヒコ伝承が構築されたとする説が有力視されている。一方、襲津彦という人物の実在性には慎重な立場から、あくまでも葛城勢力により創出された伝承上の人物に過ぎないとする説や、朝鮮に派遣された葛城地方首長層の軍事的活動を基に人物像が構築されたとする説もある。注釈出典
出典:wikipedia
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