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ダ埼玉

ダ埼玉(ダさいたま)は、「ダサい」と「埼玉県」を掛け合わせた造語である。この造語は1980年代初頭にタレントのタモリによって考案されたもので、埼玉県を「野暮ったい」「垢抜けない」ものと見做して揶揄することを目的とした。芸能界デビューから1980年代にかけてのタモリは攻撃的な言動の芸風で知られ、「表面的には明るく振る舞うが、内面に暗さを抱える人物」に対して「ネクラ」と対義語の「ネアカ」という表現、愛知県出身者の使用する名古屋弁に対して「エビフリャー」(エビフライの意)などの表現を好んで使うなど、自身の番組内でさまざまな人々や地域やジャンルを笑いの対象としていた。そのタモリが埼玉に関心を持ったのは、1981年(昭和56年)2月26日に放送された『タモリのオールナイトニッポン』の「思想のない歌」コーナーの中でさいたまんぞうの『なぜか埼玉』というコミックソングを取り上げた時からといわれている。当初、この歌は売り上げが芳しくなかったが、2月26日付けの放送が全国オンエアされると聴取者の間で抑揚のない歌い方とメロディが評判となり、さいたはメジャーデビューに至った。その後、当時の若者の間で流行していた竹の子族という風俗の愛好者に埼玉県や千葉県出身者が多いことが調査結果により明らかになると、タモリはこうした若者達がもんぺ風の衣装など世間一般には「垢抜けない」と見做される服装あるいは奇抜な服装を身に付けていたことから「ダサい」と評するようになり、1982年(昭和57年)10月4日からフジテレビ系列で放送開始された『森田一義アワー 笑っていいとも!』の中で「ダ埼玉」という言葉を頻繁に使用し、当時の流行語となった。1980年代当時、タモリは『オールナイトニッポン』の番組内に「お国批判にしひがし」というコーナーを設け聴取者から笑いのネタを募ると、自身の出身地である福岡県を皮切りに、愛知県や埼玉県に限定せず全国各地を笑いの対象として揶揄していた。新語ウォッチャーのもりひろしは「タモリがひそかに発信したのは『言葉』ではなく『着眼点』だったように思う。彼が媒介となって地域コンプレックスをあぶり出し、言葉やアイデアの面白さを増幅させた」と評しているが、埼玉に関しては造語の発信だけでなく、『笑っていいとも!』の番組内において「昨今の風潮を子供が気にしているので、当事者自身の言葉で否定してほしい」と訴える視聴者の主婦からの投書を「…ええ、真実を隠すことになりますので、嘘は言えませーん」と撥ねつけ笑いものにするパフォーマンスを行ったことや(『笑っていいとも!』1983年2月10日放送分)、タモリとは言明されていない「あるタレント」がテレビ視聴者に対して後進的なイメージを植え付けるため、前時代的な「下肥え担ぎ」のパフォーマンスを行ったことが記録として残されている。また、『笑っていいとも!増刊号』の編集長を務めていた雑誌編集者の嵐山光三郎は1987年(昭和62年)に出版した自著の中で、埼玉だけでなく茨城県や千葉県といった東京近郊を一括りにし、「渋谷、原宿あたりをブルンブルン走っている暴走族や、六本木で取材のテレビカメラの前で競ってピースマークをしている」いわゆる不良少年や、「土地の値上がりや親から受け継いだ資産で、難なくサラリーマン東京人の収入を上回り元気になった」青年層に批判の目を向けた。埼玉県では問題を深刻に捉え、1983年(昭和58年)6月に埼玉県庁内にイメージアップのための調査研究グループを設立、県発行の広報誌『県民だより』昭和58年9月号において問題をテーマにした紙上討論会を開き、埼玉県知事の畑和、埼玉大学名誉教授の小野文雄、タレントの所ジョージのコメントや読者からの投書を掲載した。この中で、畑は埼玉を軽く見る風潮について「東京との比較」、小野は「江戸時代から江戸を中心とした幕府の支配体制に組み込まれ、明治時代以降も県内に中心となる都市を持たなかったこと」を理由の一つに挙げた。一方、所は「東京を仕事の場、埼玉を生活の場と割り切る」とした上で、「もっと東京指向であって良い」と主張した。一連の動向を知ったタモリは更に関心を持ち、『笑っていいとも!』の生放送中に埼玉県庁に電話取材を試みると、埼玉県議会の議題に取り上げられる事態へと発展した。1984年3月13日付けの『埼玉新聞』は自由民主党選出議員の片貝光次と畑知事との間で質疑応答が行われた際、畑知事のアピールに議会が沸き立ったと報じた。また、同年4月に調査研究グループによる報告書『埼玉の魅力―イメージアップをめざして』が出版された際、研究グループのリーダーは「タモリが教わることはあっても、こちらが学ぶことはありません」と回答したと言われているが、当の埼玉県民はタモリの言動を「一種のユーモア」として楽しむ者、言葉通りに受け取り反応する者、それを冷笑する者などに分かれた。一方、『県民だより』昭和58年9月号に掲載された読者からの一部報告例や、1984年3月13日付けの『埼玉新聞』の報道にあるように、「ダ埼玉」という言葉や埼玉県を揶揄する風潮は1980年代を通じて全国に波及した。紙上討論会にコメントを掲載した所沢市出身の所は1984年(昭和59年)頃、自身の出演番組内で埼玉県を揶揄するジョークを繰り返し、マイナスイメージの定着に一役買う結果となった。こうした風潮は2000年代頃まで続き、東京への良好なアクセスと住環境あるいは県内の独自性や著名な人物の存在などといった地域特性を無視し、否定的な評価を受ける機会が多かったと言われる。1992年(平成4年)6月、元参議院議長の土屋義彦が埼玉県知事に就任した。土屋はかねてから県民の東京に対する依存意識の根深さ、県を揶揄する風潮、経済企画庁が発表する「豊かさ指標」による低評価、前例踏襲的で柔軟性を欠いた県政に疑問を感じていたといい、マイナスイメージからの脱却を掲げ、同年11月14日の県民の日に合わせて「彩の国」という県の愛称を制定した。なお、土屋は1997年(平成9年)に出版した自著の中で、幕末の思想家・吉田松陰の残した「国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり」という言葉を引用し、次のような主張をしている。土屋は従来の箱物行政にも疑問を感じていたといい、畑知事時代に計画された一部事業計画を白紙化する一方で、バブル色の強い「埼玉コロシアム」「埼玉メッセ」を柱とした「埼玉中枢都市構想」については県の自立性を高める好機と捉え、経済状況や防災面に即した計画案「さいたま新都心中枢・中核施設基本整備計画」に修正、彩の国さいたま芸術劇場については芸術文化活動への助成を重視する施策を行った。また、県のシンボルとして、浦和レッズのホームスタジアムで2002 FIFAワールドカップの試合開催地となる国内最大級のサッカー専用スタジアム・埼玉スタジアム2002の建設、さきたま古墳公園の整備、入間郡越生町の「さくらの郷」計画を三つの柱とした施設整備を進めたほか、さいたまスーパーアリーナの開館記念事業としてバスケットボールのスーパードリームゲーム2000の開催、2001年のバスケットボール・ヤングメン世界選手権や2006年バスケットボール世界選手権決勝ラウンドの開催地誘致に成功するなど、「彩の国キャンペーン」に留まらず埼玉の積極的なイメージ改善を行った。このほか実現はならなかったものの、2002 FIFAワールドカップ決勝戦招致の先頭に立ち神奈川県横浜市との間で招致合戦を展開し、東京タワーに代わる新電波塔建設計画(新東京タワー)をさいたま新都心に誘致する政策を行った。土屋知事の任期中の積極的なイメージアップ政策により、1980年代のように「ダ埼玉」と評されることは少なくなったが、土屋の後任として知事となった上田清司の下でも埼玉ブランドの積極的な配信が行われるなど、イメージアップ政策は継続して採り行われている。かつて武蔵国を含む関東地方の武士団は中小規模ながら独立意識が強く、互いに同族同盟関係を結び外部の有力武士団に対抗し独自の勢力圏を形成した。平安時代末期には中小武士団の中から相模国の三浦氏や土肥氏、武蔵国の畠山氏や比企氏、下総国の千葉氏などの有力者が生まれると源頼朝を担ぎ出した上での武家政権樹立の原動力となった。一方、鎌倉時代に幕府が置かれた鎌倉では京都風の文化が営まれたが関東全域に波及するには至らず、室町時代には幕府から公方や管領が派遣されて関東地方の統治を行ったが指導力は低く、武士団は独自性を堅持していた。戦国時代に入り中世の武士団の流れを汲む武将の中から戦国大名へと成長する者は少なく、新興の後北条氏が相模国を皮切りに武蔵国を含む南関東地方を支配下に置き、北関東地方へ勢力を拡大させようとしていた。これに対し埼玉県に相当する地域の武将の中で太田氏は後北条氏に従属する勢力と、他の有力武将の支援を受け旧領回復の機会を狙う勢力とに内部分裂、成田氏は後北条氏と関東管領・上杉氏との間で対立抗争が展開される中で最終的に前者に従属したが、一方で他国衆という立場ながら後北条一門並の待遇を受け、その勢力下において最大規模の領国支配が認められた。豊臣秀吉による小田原征伐後、秀吉の命により関東地方に徳川家康が移封された。家康は各地域に徳川譜代の家臣を配置し、領内において独自の支配を容認したが、譜代の家臣達は徳川家に対する中央集権的意識を強く持ち合わせていたことから独自性は生まれにくくなり、そうした気風は住民の間にも浸透し「江戸を中心とした関東人気質」が形成された。その中で後の埼玉県に相当する地域は、秀吉の没後に幕府が置かれ政治・文化の中心となった江戸の後背地として米を中心とした農業生産、利根川や荒川の治水と新田開発、大名が主要街道を往来する際の使役に携わるなど商業面においても産業面においても密接な関係を築いたが、地域内は約20万石の藩領のほか江戸幕府直轄の天領、幕府旗下の知行所、寺社領が複雑に入り組み、多様な支配従属関係が存在する形で発展した。明治維新後に埼玉県が成立し、主に徴税や治安および治水上の理由によって県域が確定したが、第二代県令となった白根多助は当時の状況を「埼玉県ノ如キハ旧藩旧県犬牙相接シテ民情風俗モ亦自ラ異同ナキコト能ハズ」と評するように、地域内および住民の間には多種多様な気風が存在した。白根はこうした実情を踏まえ、明治政府の意向には応じず民情に即した政治を行ったことから「良二千石」と評されたが、外部からは一部地域の特異な気風のみが拡大解釈され、「難治の県」と見る風評が明治時代を通じて広まった。第5代知事・久保田貫一は1891年(明治24年)の知事就任以来、埼玉師範学校騒動、権現堂川土木工事入札問題、中学校建設問題、利根川通三か所の護岸工事入札問題など様々なトラブルを引き起こしたが、1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では府県知事の公選を望む民意に反して、県警部長・有田義資をはじめ県下の全警察組織を動員し選挙干渉を行うなど強権的な姿勢を取ったため、県議会において「県治上ニ於ケル信任極メテ欠乏セル事ヲ認ム依テ茲ニ之ヲ決議ス」とする不信任決議案が可決された。久保田は県議会を解散させ「人民の分際で知事の不信任を決議するが如きは以ての外。今頃後悔しているであろう」と主張したが、内務大臣・井上馨の命により知事を非職となり、さらに免官となった。この久保田に関する一連の騒動は「難治の県」と見る風評をさらに助長する結果となった。第7代知事となった千家尊福は久保田時代の様々な懸案事項を解決したことから第2代県令の白根と同様に「良二千石」と評され、風評も一応の修復を見たが、1897年(明治30年)に第8代知事となった田村政は就任に際し、同年5月1日付けの日刊紙『都新聞』に次のように記し態度を硬化させた。一方、辛亥革命の際に通訳として関わり、後に満州や蒙古の調査研究に携わった小川運平は1910年(明治43年)に日刊紙『埼玉新報』の中で、当時の風評について次のように記している。明治期における風評について政治学者の小山博也は1989年(平成元年)に出版した『埼玉県の百年 県民100年史』の中で「この間まで語られてきた『ダサイ』な埼玉もこの系譜上にある」と記している。年間を通じて天候が安定している影響から全般的には「おおらか」、県の主産業が農業だった点から「堅実」な県民性を持つと言われる。一方、2000年代において、他の都道府県からの移住者が全国でも高水準にある点や、県南部に在住する人々の多くは日中は東京都内で過ごし、夜にならないと埼玉県には帰宅することがない(埼玉都民)という、いわゆるベッドタウン化現象が生じている点から、純粋な県民性は希薄との指摘もある。これに対して埼玉県民の供給先となる東京は、江戸っ子の流れを汲む旧住民と他県から流入してきた新住民とが混在した状況と言われている。かつての江戸っ子は「涙もろく、おせっかいで、義理堅く、短気で口は悪いが正義感がある」などの気質を持ち合わせていたが、太平洋戦争後に移住してきた新住民との摩擦を避けるため無関心を装うようになり、山の手などに定住した新住民は東京暮らしが長期化するにつれて、それぞれの故郷の気質を失い没個性化した。没個性化の中で新たに形成された東京人は、一見すると社交的で人当たりが良いが他者からの干渉を嫌い、広く浅い人間関係を望むなど個人主義的傾向が強く、マスメディアから配信される最新の情報のみに生きがいを追い求め、それに乗り遅れた者を排除する傾向があると言われている。先述のように芸能界デビュー当時のタモリはラジオ番組『タモリのオールナイトニッポン』の毒舌パーソナリティーとして若者の間でカルト的人気を獲得していた。その一例としてタモリは、当時流行していたニューミュージックという音楽ジャンルについて、ジャンルそのものではなく「軟弱な歌詞」に着目して徹底分析し、その担い手だった歌手の小田和正やさだまさしを「見せかけの優しさ」の持ち主と見做し激しく糾弾した。一方で1981年(昭和56年)をピークに毒舌家としての側面を後退させ、お茶の間向けの芸風にイメージチェンジを図ろうとしており、作家の小林信彦、コラムニストの亀和田武、イラストレーターの山藤章二から批判を受けていた。こうした経緯について、タモリと関わりのあった放送作家の景山民夫は「(『森田一義アワー 笑っていいとも!』の)放送が始まって1年半位はタモリ自身も元々の部分に、かなりしがみ付いていたが、怖いもので(中略)自分が接してる人間に合わせるようになった」と評している。1980年代後半、タモリの影響力は無視できないものとなり、『笑っていいとも!』に作曲家の織田哲郎が出演した際に彼が卓球経験者と知り「卓球ってネクラだよね」と返答すると、中学校の部活動の入部希望者が激減する事態に発展した。これを契機に卓球業界がイメージチェンジに乗り出したとの逸話も残されている。「ダ埼玉」という言葉が流行した1980年代当時には、埼玉県の特性を揶揄したり皮肉る風潮に乗じて『翔んで埼玉』(魔夜峰央、白泉社、1986年)や『こちら埼玉山の上大学ボクシング部』(唯洋一郎、集英社、1985-1989年)といった漫画作品が連載されたが、こうした傾向は一過性のものとなった。1990年代以降、埼玉県内を舞台やモデルとした作品は増加傾向にあり、作品の登場人物が地域のシンボルとなった事例もある。一過性のものとなった理由についてさいたま文学館は「多くの漫画は多数の登場人物が交錯し時間・空間の変化するイメージを求め、都市や市街地を舞台に設定する。『ダ埼玉』とは都市化・市街化の遅れた県の状況をからかう表現であり、県内における都市化・市街化の進行は『ダ埼玉』イメージの消滅と軌を一にする現象だったと考えられる」と評している。

出典:wikipedia

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