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メッタ・ワールド・ピース

メッタ・ワールド・ピース(Metta World Peace、2011年までロン・アーテスト(Ron Artest)、本名 Ronald William Artest, Jr.、1979年11月13日 - )はNBAのロサンゼルス・レイカーズなどに所属しているバスケットボール選手。ポジションはスモールフォワード。ニューヨーク市クイーンズ区ロング・アイランド・シティ地区にあるクイーンズブリッジという公営住宅で生まれ育った。201 cm、112 kg。ディフェンス面ではポイントガードからパワーフォワードまで相手の要となる選手を抑える。セント・ジョーンズ大学でプレーした後、1999年のNBAドラフトでシカゴ・ブルズより1巡目16位で指名された。この時、アーテストは泣いたが、TNTに「これは純粋にうれしくて泣いているんだ」と語っている。2002年にブラッド・ミラーとロン・マーサーらとともにジェイレン・ローズ、トラビス・ベストなどとのトレードでインディアナ・ペイサーズに移籍した。2003-04シーズンにはNBA最優秀守備選手賞を受賞し、NBA屈指のディフェンダーの仲間入りを果たした。2004-05シーズンの2004年11月19日、デトロイト・ピストンズのホームコート「ザ・パレス・オブ・オーバーンヒルズ」で起こった事件。NBA選手や観客数人による一連の口論や騒動のことをさす。NBAはおろか、アメリカのプロスポーツの歴史の中でもっとも不名誉な事件のひとつといわれている。事の発端はアーテストがピストンズのベン・ウォレスに対してファウルをしたことが始まり。それにベン・ウォレスが激しく怒りアーテストを強く押した。ベン・ウォレスの真似をしながら、アーテストはコートサイドのテーブルの上に寝た後、試合の解説者の真似をした。そんなアーテストに向かってベン・ウォレスはタオルを投げた。その直後、地元のピストンズファンのジョン・グリーン(当時ミシガン州ウェスト・ブルームフィールド在住)がアーテストに向かってビールの入ったコップを投げて、それがアーテストに当たった。それに反応したアーテストは観客席に飛び込み、コップを投げた人物だと勘違いした観客に掴みかかった。実際には別人だった。そこにペイサーズの選手達が応戦や仲裁に飛び込んで、アーテストはコート上に戻った。しかしそこでアーテストは観客のA.J.シャックルフォード(侮蔑的な言葉を口にしたピストンズファン)を殴る。ゲームは終了約1分前だったが試合はその時点で中止になった。2004年11月21日、NBAはアーテストのシーズン残り試合(73試合)を出場停止にした。これはドラッグ、賭博が原因ではない処分としては、NBAの歴史の中で最長の出場停止処分期間だった。そのほか、4人のピストンズの選手、4人のペイサーズの選手にそれぞれ最長30試合の出場停止処分が科された。その4人のペイサーズの選手には罰金やコミュニティ・サービスも科された。また、数人の観客と、紙コップを投げつけたジョン・グリーンにパレス・オブ・オーバーンヒルズに生涯入場禁止処分が科された。アーテストはこの出場停止によりサラリーのうち約500万ドルを失ったといわれている。停止処分が明けて、ようやく新シーズンが始まると、アーテストはトレードを要求した。これに対し当時の球団幹部のラリー・バードや、オールスター選手のジャーメイン・オニールは「裏切られた気分だ」というコメントしている。2005-06シーズンの途中でペイサーズからサクラメント・キングスに、ペジャ・ストヤコビッチとのトレードで移籍した。2000年以来プレーオフの常連であったキングスはけが人が続出し、プレーオフ出場が危ぶまれていた。アーテストはリック・アデルマンヘッドコーチに見出され、キングスは守備を中心に勝ち星を増やして、なんとかプレーオフに出場するまでになった。FOXスポーツは「アーテストがキングスをプレーオフ出場レースに復活させた」と表現した。2006年のプレーオフでは1回戦でサンアントニオ・スパーズに敗れている。調子を取り戻したアーテストであったが、2005-06シーズン終了後にチームメートのボンジ・ウェルズ及びヘッドコーチのアデルマンが契約満了することになっていた。アーテストは2人に大きな信頼を寄せており、自らの報酬を減らしてでも彼らの引きとめを願った がチームの方針により2人はチームを去って行った。以後2シーズン主力として活躍したが、時折、精彩を欠くようになり、キングスも低迷するようになっていった。2008年オフ、トレードでヒューストン・ロケッツへ移籍しトレイシー・マグレディ、ヤオ・ミンとBIG3を結成した。ロケッツで再びアデルマンの元でプレイし、チームの12年ぶりのウェスタン・カンファレンス準決勝進出に貢献した。2009年オフにFAとなり、ロサンゼルス・レイカーズと契約した。2010年NBAファイナル、3勝3敗で迎えた第7戦では両チームのFG成功率が上がらず、さらにレイカーズのエースコービー・ブライアントが絶不調の中、アーテストは3Pシュート、オフェンスリバウンドからのショット、スティールと、攻守でチームに貢献。この試合では20得点5リバウンド5スティールを記録し、監督のフィル・ジャクソンをして、「今日の試合のMVPはアーテストだ」と言わしめた。この勝利でレイカーズは2010年のNBAファイナルを制覇。アーテストも自身初のチャンピオンリングを獲得した。2010年9月、自身のチャンピオンリングを学校の精神カウンセリングを支援するためのチャリティオークションに出品することを検討していることを明らかにした。2011年9月、本名を「メッタ・ワールド・ピース」に改名した。この頃になると衰えを見せ始め往年のディフェンス力を失うこととなる。2013年7月、レイカーズの年俸枠確保のため、アムネスティ条項を行使されて放出された。その後ニューヨーク・ニックスへ移籍。2013年7月16日、公式にニックスと契約。カーメロ・アンソニーのバックアップとして期待されたが不振に苦しみ、翌2014年2月24日に解雇された。2014年8月4日、中国プロバスケットボールリーグの四川ブルーホエールズと契約。その際、登録名を「ザ・パンダズ・フレンド」に改名した。現在は退団している。2015年9月24日、レイカーズと契約を結んだ。鋼のようなフィジカルと天性のディフェンス感覚を武器に、PFにも押し負けずPGのドリブルにも絡みつく、レブロン・ジェームズ、ティム・ダンカン、クリス・ポールなど、相手を選ばずマッチアップができるNBA指折りのディフェンススペシャリスト。ドリブルをやや苦手とするなど器用さに欠けるものの体格を生かした1on1や3ポイントシュートなどを得意としており、時には30得点以上を記録し、また大事な時間帯にビッグショットを決めるクラッチ能力を見せるなど、オフェンスも備えているが自分の役割はディフェンスであるという自覚から周囲に譲りがちな面がある。冷静に頭を使うこともあれば感情を爆発させるときもあり、オフェンスには参加しない素振りを見せながら急に点を量産するなど包括的に非常に気まぐれなバスケットをする選手である。また、コート内外で揉め事が多いトラブルメーカーとして有名。非常に落ち着いた、性格の良い人だと家族は語っている。年下の兄弟のアイザイアとダニエルは「彼は父親のように面倒を見てくれる。」父親のロンは「息子がNBAのシーズン中の旅のせいで思うように彼の子供たちと過ごせないことを知っている。彼は良い父親だ。」と言っている。母親のサラは「彼は犯罪者でもなければギャングでもない。息子たちはプロジェクトに住んでいた間、(大きな)喧嘩なんてしなかった。」「あの(パレスでの事件のあった)年の最初のころ、「僕のことを好きじゃないファンがいるとき、とてもつらいよ。コインを投げてきたりするんだ。」と言っていたわ。彼は悪い人間じゃない。あの騒動でも、彼は反応しただけなのよ。」と、アーテストの73試合の出場停止期間中に語っている。

出典:wikipedia

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