ホクトヘリオスは日本の競走馬。中央競馬のGIIで2勝、GIIIで3勝をあげた。※馬齢は旧表記(数え年)で統一する。3歳時の1986年に函館の新馬戦でデビュー。初戦は後の東京優駿(日本ダービー)優勝馬メリーナイスに3着と敗れたが、3週間後の新馬戦で勝ち上がる。その後、函館3歳ステークス、京成杯3歳ステークスと3連勝を飾るが、朝日杯3歳ステークスでは、再びメリーナイスの2着に敗れた。明けて1987年、4歳となると、騎手をそれまでの南田美知雄から河内洋にスイッチしてクラシック路線に進む。しかし、弥生賞は1番人気に推されながら4着、皐月賞、東京優駿(日本ダービー)はともに13着と惨敗した。休養後は再び騎手を南田美知雄に戻し、福島民友カップで3着になったが、福島記念で10着、ダービー卿チャレンジトロフィーでは13着と、勝ち星をあげられずに終わった。1988年、5歳の初戦となる中山競馬場開設60周年記念(オープン特別)で、初めて柴田善臣とコンビを組み、アタマ差の2着となる。以降はその年のスワンステークスで西浦勝一が騎乗したほかは、すべて柴田が騎乗した。柴田が主戦になって以降、東京新聞杯も2着、当時GIIだったスプリンターズステークスで3着、京王杯スプリングカップで4着となり、続く安田記念でも4着と好走する。エプソムカップこそ8着に終わったが、新潟で施行された京王杯オータムハンデキャップをハナ差で制し、京成杯3歳ステークス以来の勝利をあげた。西浦が騎乗したスワンステークスでは6着だったものの、続くマイルチャンピオンシップではサッカーボーイから4馬身の差をつけられはしたが2着に入り、次走のダービー卿チャレンジトロフィーでは、別定戦で斤量60kgを背負い、1番人気に推されたが3着に終わり、この年を終えた。明けて1989年、6歳を迎えたホクトヘリオスは3着・4着には入るものの勝ち運には恵まれず、結局この年も未勝利で終わることとなった。1990年、7歳を迎えたホクトヘリオスは、この年の初戦となった東京新聞杯を直線一気の追い込みを見せ久しぶりの勝利を挙げ、続く中山記念でも1馬身差をつけて連勝したが、京王杯スプリングカップでは12着、安田記念も5着に終わった。その後、宝塚記念に出走したが7着に終わり、引退した。引退後は種牡馬となり、初年度の種付け頭数が63頭と、GI未勝利ながら人気を集めた。しかし産駒はまったく走らず、地方競馬の重賞の連対馬すら送り出せなかった。1998年5月26日、種付け終了後に急死。後期の主戦騎手であった柴田善臣は、自著をはじめ雑誌などのインタビューにおいて「ホクトヘリオスに競馬を教わった」と何度も語っている。ホクトヘリオスがデビューする1年前の1985年に騎手デビューした柴田にとっては初めての有力馬であった。また、半妹のホクトビーナスも中野隆良厩舎所属であり、同じく柴田善臣とのコンビで桜花賞に挑むも、シャダイカグラに頭差差し切られ、僅差でGI制覇を逃している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。