勿来(なこそ)は、福島県いわき市の南部に位置する、茨城県との境界地域である。より限定的には、常陸国(茨城県)と陸奥国(福島県浜通り)の境となった勿来関のみを「勿来」と呼ぶ場合もある。この記事では、1966年以前に存在した自治体である勿来市についても述べる。現在の勿来地区の一大字である勿来町(なこそまち)については当該項目を参照。勿来駅前が、東京と仙台からの等距離地点で、双方からの距離は177kmである。茨城県との境界には断崖が立っており、断崖の北側に平地が広がっている。鉄道道路現在のいわき市勿来地区は、当初は菊多(きくた)という地名であった。7世紀前半の国造の時代には、勿来地区は道奥菊多国造の領土であり、これが律令制が敷かれた時に菊多郡となった。菊多国造に対して、北隣は現在の湯本駅付近から福島第一原発付近(苦麻)までの石城国造、南隣は現在の大津港駅付近から日立市(助川)までの高国造の領土であった。これらの国造が、7世紀中期に統合されて多珂国となった。そして、7世紀後半の律令時代になると、多珂国は常陸国に編入された。718年には石城国に入れ替わったが、720年代に陸奥国に入れ替わった。石城国時代に、多賀郡と菊多郡の境に「菊多関」が建てられ、この菊多関はやがて「勿来関」に改名されたが、「勿来」とは「な来(こ)そ」すなわち「来るな」を意味しており、蝦夷の南下を防ぐ意味を持っていたという説がある(詳しくは勿来関を参照)。常陸国と陸奥国の境となった勿来関付近は断崖(現在、平潟トンネルが貫通している)となっており、この難所を抜けた所に関が位置したことから、関東地方の武士たちから重視され、源義家も勿来に立ち寄った。現在でも、国道6号勿来検問所が設置され、シートベルトの取り締まりなどを行っている。現在の北茨城市北端には、勿来関の南口という経緯から「関南」「関本」という地名も存在する。同じく、勿来関の北口には「関田」という地名も存在する。平安時代から戦国時代までは、現在の勿来地区は岩城氏の領土の南端であった。戦国時代には、勿来関を境にして北側(現在の勿来地区)が岩城氏、南側が佐竹氏の領土であった。江戸時代には、勿来関を境にして北側が磐城平藩、南側が水戸藩の領土であった。1868年の戊辰戦争では、勿来断崖に近い平潟港で磐城平藩(奥羽越列藩同盟)と明治政府の軍勢が激突した。戊辰戦争との結果として陸奥国が分割された際、勿来地区は磐城国の一部となった。1871年8月29日の廃藩置県で当初は磐前県に所属したが、1876年8月21日に磐前県が福島県に編入されて以降は福島県に所属している。近代に入ってからは常磐炭田の開発が進み炭鉱町として賑わうと共に、1935年には昭和人絹(呉羽化学を経て現在はクレハ)が操業を開始し工業都市の性格を併せ持つこととなる。1955年4月29日に石城郡勿来町、植田町、錦町、川部村、山田村が合併し、市制を施行して勿来市が発足した。その後の高度経済成長期、1966年10月1日には、大規模合併でいわき市の一部、勿来地区となっている。現在のいわき市役所勿来支所は、勿来市時代の1960年に勿来市役所庁舎として建てられた物である。また、常磐炭田の石炭を活用する形で1957年に勿来火力発電所が鮫川河口付近に建設され、勿来・小名浜一帯の工場施設や茨城県北部一帯への電力供給を担っている。発電所行政機関勿来関・旧勿来市関連東海道・浜街道(平城京⇔多賀城)と境界
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