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ウィリアムズF1

ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング(Williams Grand Prix Engineering)は、イギリスに本拠地を置くF1のレーシング・チームで、1977年にフランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドにより設立された。前身は1966年に設立されたフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ(Frank Williams Racing Cars)である。1970年代に誕生したコンストラクターとしては最も成功を収め、過去にドライバーズタイトル7回、コンストラクターズタイトル9回(2010年時点)を獲得している。フェラーリ、マクラーレンと並び、F1を代表する名門チームである。チームの特色は「頑固なエンジニア集団」と表現される。1980年代までは車作りは保守的で、ターボエンジンやカーボンファイバーモノコックの導入は他チームより遅かった。1990年代前半にはR&D能力を活かし、セミオートマチックトランスミッション、アクティブサスペンション、トラクションコントロールなどのハイテク競争をリードした。またドライバーとの契約時に技術知識に関する筆記テストを行うユニークな特徴がある。チーム内に明確な序列を設けず「チャンピオンは独力で勝ち取れ」という方針のため、コンストラクターズチャンピオンを獲得してもドライバーズチャンピオンを獲得できなかったことが他チームより多く、チャンピオンを獲得したドライバーが契約を更新せずにチームを離脱することもあった(後述)。2015年現在、チーム株式の過半数はオーナーのフランク・ウィリアムズが所有しているが、パトリック・ヘッド、トト・ヴォルフといった元チーム関係者や、アメリカの病院経営者であるブラッド・ホリンガーといった人物も大株主に名前を連ねている。1966年、フランク・ウィリアムズはプライベートチームの「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」を設立し、友人のピアス・カレッジやマックス・モズレーなどと共にF3やF2でレース活動を行った。1969年にはブラバムBT26Aを購入し、F1参戦を果たす。カレッジは1967年にデビューしていたが、この年ウィリアムズに移籍して2位表彰台を獲得した。1970年はイタリアのスポーツカーメーカーデ・トマソと提携し、マネージメント面をウィリアムズが、技術面をデ・トマソが担当した(コンストラクター名は「デ・トマソ」)。この年は一転して苦戦することとなり、第5戦オランダGPでカレッジが事故死してしまう。その後、ブライアン・レッドマン、ティム・シェンケンがドライブするも予選落ちや途中リタイヤを繰り返し、結局1度も入賞どころか完走さえできなかった。1971年はマーチのプライベーターとして参戦。コンストラクターとしての自立を目指して、1972年には玩具メーカーのポリトイの大型支援を受け、初の自製シャーシとなるポリトイFX-3を開発した。しかし、資金難により投入が遅れた挙句、デビューレースのイギリスGPでいきなりクラッシュしてしまい、次戦から再びマーチ721を使用した。終盤のイタリアGPで再び持ち込まれたが、サスペンション系に欠陥が見つかったため使用されなかった。1973年には新たにイソとマールボロがスポンサーになり、コンストラクター名「イソ・マールボロ」として参戦。1974年にはフランクのイニシャルを冠した最初のマシンFW01がデビューした。1975年にはコンストラクター名も「ウィリアムズ」と改め、ドイツGPにてジャック・ラフィーが表彰台(2位)を獲得する。しかし、慢性的な資金難から抜け出せず、持参金つきドライバーにシートを売って遣り繰りする状態が続いた。フランク自身も破産寸前にまで追い込まれたため、カナダの大富豪であるウォルター・ウルフに株式の一部を売却し、1976年には共同オーナーという形をとった。しかし、両者は1年限りで袂を分かち、フランクはチーム資産を売却。このチームは1977年よりウルフとして参戦することになる。1977年、フランクはエンジニアのパトリック・ヘッドとともに新チームを設立。ウィリアムズが70%、ヘッドが30%を出資し「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」として再出発した。この年は一時的なつなぎとしてマーチ・761を購入して参戦した。ヘッドは部下のフランク・ダーニー、ニール・オートレイ、ロス・ブラウンらを指揮して、強力な技術部門を構築。1978年のFW06ではコンサバティブな設計を採りつつ、1979年には最新のグラウンド・エフェクト理論を盛り込んだFW07を投入し、一気に優勝戦線に割り込んだ。運営面でもサウジアラビア航空やアルビラッド、TAGなど複数のサウジアラビア企業のスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。フランクは営業活動でサウジアラビアの王室関係者のオフィスにマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたという。1979年第9戦イギリスGPでクレイ・レガツォーニがチーム初勝利を挙げ、残り6戦でFW07は4勝をあげた。そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズをドライバーズチャンピオンへと導いた。1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムのネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。1982年はターボエンジン勢に馬力で劣るものの、熟成されたFW08を駆るケケ・ロズベルグが堅実にポイントを積み重ね、わずか1勝で年間チャンピオンを獲得した。また、リヤを4輪にした6輪車のテストを続けていたが、規定変更により実戦には持ち出せなかった。1983年は1勝に終わるが、スピリットにエンジンを供給していたホンダと契約し、同年末よりV6ターボエンジンを搭載した。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。そんな中、1984年のアメリカGPでロスベルグが優勝し、ホンダエンジンとしては17年ぶりの勝利をものにした。新たにスポンサーとなったインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)は80年代を通して円形のロゴをフロントに載せ続けた。1985年にはナイジェル・マンセルが加入し、FW10はホンダの新設計エンジンを搭載した。決勝レース中のタイヤ磨耗に苦戦したが、シーズン終盤にはサスペンションを改善し、シーズン最後に3連勝を飾った。ちなみにマンセルはその口火となる地元イギリスでの第14戦ヨーロッパGPが初優勝、出走72戦目で当時としてはデビュー後最も遅い初優勝だった。キヤノンと契約し、この年からキヤノンカラー=ウィリアムズといった関係は1993年まで続くことになった。1986年にはピケが加入。ホンダエンジンを武器に9勝し、3度目のコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、チームオーナーのフランクが交通事故により半身不随となり療養している間に、チーム内ではピケ派とマンセル派のいさかいが生じた。自国ドライバーのマンセルをチームが支持したのに対し、ホンダはピケの契約金を一部負担していたことからピケを支持していた。両ドライバーの確執のため、マクラーレンのアラン・プロストにドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。1987年はコンストラクターズを連覇し、ピケがマンセルとの戦いを制してチャンピオンを獲得した。また、ロータスに続いてアクティブサスペンションを投入し、イタリアGPで勝利している。ピケはこのシーズン限りでロータスに移籍し、また、ホンダも運営に不満を持ち、ウィリアムズとの契約を終了した。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。ホンダターボを失った1988年は、ノンターボのジャッドエンジンを搭載した。「ウィリアムズがジャッドエンジンを使用するにあたってホンダがジャッドとウィリアムズへ資金援助をしているのではないか」と噂になったが、ホンダはこれを否定した。ジャッドエンジンの戦闘力不足、アクティブサスの熟成不足により成績は低迷。シーズン中盤のイギリスGP以降はノーマルサスペンションに戻す羽目になり、1978年シーズン以来の未勝利に終わった。1989年にターボ禁止・NA統一が導入されるとルノーと契約し、マシンとエンジンの英仏共同開発路線を整えた。カナダGPではティエリー・ブーツェンが遅咲きの初優勝を達成しシーズン2勝を挙げた。1990年にはリカルド・パトレーゼがサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポール・トゥ・ウィンを果たした。シーズン途中にはレイトンハウスから前衛的な空力設計者エイドリアン・ニューウェイが加入。堅実なヘッドとの異なる個性が融合したFW14が生み出される。1991年は信頼性不足や不運などでタイトルを逃すが、1992年はアクティブサスペンションやトラクションコントロールを搭載したハイテクマシン、FW14Bが10勝を挙げ、マンセルと共にダブルタイトルを獲得した。しかし、契約交渉が決裂し、マンセルはアメリカのCARTへの転向を決意した。1993年はFW14のデザインを踏襲したFW15Cを投入し、1年間の休養から復帰したアラン・プロストと、テストドライバーから昇格したデイモン・ヒルがコンビを組んだ。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは"0"と"2"となるが、プロストはフランス語で無能を示唆する"0"ではなく"2"を選んだ。プロストは4度目のタイトル獲得を最後に現役を引退し、ヒルは初優勝をふくむ3勝を挙げた。ウィリアムズは1992年から1993年にかけて24戦連続ポールポジションという記録を残し、F1マシンの電子制御の進化を牽引した。このシーズンを持ってメインスポンサーだったキヤノンとの関係が終了。慣れ親しまれた「青・黄色・白・赤」のカラーリングも見納めになった。1994年はロスマンズが新メインスポンサーとなり、ウィリアムズ入りを熱望していたアイルトン・セナが加入した。シーズン開幕前からこの組み合わせでチャンピオンは決定していると言われたが、ハイテク禁止を受けてデザインされたFW16は不安定な特性をもち、ベネトンのミハエル・シューマッハに開幕連勝を許した。さらに、第3戦サンマリノGPではセナがタンブレロコーナーのコンクリートウォールに激突し、帰らぬ人となった(この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている)。イタリアの検察は過失致死の疑いでチーム首脳を告訴し、以後10年以上に渡り裁判が続くことになる(2005年に全員無罪が確定)。セナの後任にはテストドライバーのデビッド・クルサードが昇格したが、CARTの合間を縫ってマンセルもスポット参戦した。エースの重責を負うことになったヒルは、シューマッハが失格や出場停止となる間にポイント差を縮め、最終戦オーストラリアGPでの直接対決に持ち込んだが、シューマッハとの接触により涙を呑んだ(コンストラクターズは3連覇達成)。1995年はベネトンもルノーエンジンを獲得し、同エンジンでの対決が注目された。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、チームの戦略ミスや両ドライバーのミス、シーズン序盤のマシンの信頼性などが災いし、ベネトンとシューマッハにダブルタイトルを許してしまった。またプロストも前述のチーム内に明確な序列を設けないチーム方針が、両タイトルを奪取できなかった敗因ではないかと当時メディアを通してコメントしている。1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わり、CARTチャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴが加入し、ヒルと二世ドライバーコンビを組んだ。ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得し、F1ルーキーながらヒルとタイトル争いを繰り広げた。ヒルは史上初の親子二代チャンピオンを獲得したが契約延長交渉が決裂し、マンセルのケースと同様にチームを去ることになった。なお、この件でヒルの盟友であったニューウェイが激怒し、マクラーレンへの移籍の理由の一つになったとも言われている。ウィリアムズは年間12勝を挙げ、最強チームの座を奪回した。翌1997年シーズンはヒルに替わりハインツ=ハラルド・フレンツェンが加入。「ヴィルヌーヴ+FW19の圧勝」という大方の予想に反してマシンのセッティングに苦慮し、信頼性不足やチーム戦略のミスもあって、ヴィルヌーブとフェラーリのシューマッハの激しいチャンピオン争いとなった。最終戦ヨーロッパGPの直接対決では、シューマッハとの接触を乗り切ったヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得し、コンストラクターズタイトルも制した。このシーズン末をもってルノーエンジンはF1から一時撤退し、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。1998年はスポンサーブランドがロスマンズからウィンフィールドに変更され、同チームでは珍しい赤いマシンカラーとなった。ルノーのカスタマー仕様エンジン(メカクローム)の戦闘力不足などによりよもやの0勝に終わり、ヴィルヌーヴとフレンツェンとの契約を終了する。1999年はエンジン名をスーパーテックとし、新加入のラルフ・シューマッハが健闘したものの、優勝戦線からは遠ざかった。CARTチャンピオンとして迎え入れたアレッサンドロ・ザナルディは精彩を欠き、逆に、テストドライバーだったファン・パブロ・モントーヤがCARTでチャンピオンを獲得するという皮肉な状況になった。ホンダ、ルノーに続くパートナーとして、F1に復帰したBMWと提携。ル・マン24時間レースでの共同プロジェクトを経て、2000年より2009年までの長期契約を締結した。登録名はBMWウィリアムズF1 (BMW Williams F1) となり、マシンカラーリングもBMWワークスの白と紺を基調としたものに変わった。2000年はラルフ・シューマッハと、テストで抜擢した新人ジェンソン・バトンのコンビで戦い、ラルフが開幕戦を含む3回の3位表彰台を獲得し、コンストラクターズ3位となった。2001年には同じく復帰したミシュランタイヤと組み、タバコスポンサーとの離脱を宣言する活動を進めた。ラルフが初優勝を含む3勝を挙げ、CARTから加入したファン・パブロ・モントーヤも初優勝するなど、新体制2年目で結果が表れ始めた。2002年はフェラーリに圧勝を許すも、公称1万9,000回転のBMWパワーを武器にモントーヤが7ポールポジションを獲得した。2003年は序盤戦は低迷するも、FW25の改良とミシュランとのマッチングにより中盤以降4勝(ラルフ2、モントーヤ2)を挙げ、最終戦までフェラーリとコンストラクターズタイトルを争った。ちなみにラルフ・シューマッハのF1時代の優勝はすべてこの時期に達成されたものである。しかし、2004年はFW26の特異なハイノーズ(通称「セイウチノーズ」)が失敗し、最終戦ブラジルGPでのモントーヤの1勝に留まった。この年にはパトリック・ヘッドがテクニカルディレクターを退き、後任にはサム・マイケルが就任した。2005年シーズンはドライバーを一新してマーク・ウェバーとニック・ハイドフェルドが加入したが、前年来のシャシー設計(特に空力部門)の失敗により2000年以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンに終わった。成績の低迷とチーム運営への介入を巡ってBMWとの間に確執が生まれ、BMWはザウバーを買収してコンストラクターとして参戦することを決意。結果としてウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなった。また、この2年に渡りB・A・Rとの間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、バトン自身がウィリアムズに多額の違約金を支払いB・A・Rに残留するという結末となった。BMWとの離別後はトヨタやホンダとの交渉が噂されたが、どれも実現には至らなかった。V8・2400ccエンジンへ変更となる2006年はコスワースと契約し、自動車メーカーのワークス化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」として参戦することとなった。また、タイヤメーカーもミシュランからブリヂストンへ変更された。ドライバーはウェバーが残留し、GP2初代チャンピオンであり、かつてウィリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子であるニコ・ロズベルグを起用した。開幕戦でロズベルグがデビュー戦ファステストラップを記録するなど出だしは悪くなかったが、ワークスチームには遠く及ばず、コスワースエンジンも全くの信頼性不足でリタイヤが多く、現体制になって以来最悪のコンストラクターズランキング8位でシーズンを終えた。2007年にはトヨタと契約し、2009年までカスタマーエンジンの供給を受けることになった。AT&Tがメインスポンサーになり、チーム名はAT&Tウィリアムズ (AT&T Williams) とされた。ドライバーはロズベルグが残留し、3rdドライバーのアレクサンダー・ヴルツがレースドライバーに昇格した。最終戦のブラジルGPではヴルツのF1引退を受け、トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム出身の中嶋一貴(中嶋悟の息子)がF1デビューした。マクラーレンの失格やワークスチームの失速に伴い、最終的にトヨタを上回るコンストラクターズランキング4位を獲得した。2008年はチーム創設30周年にあたり、シーズン中に出走500回(トルコGP)、決勝レース50000周回(スペインGP)を達成した。ドライバーは3年目のロズベルグとレギュラーに昇格した中嶋という、ヒル・ヴィルヌーヴ以来の二世コンビ。ロズベルグが2度表彰台を獲得したものの入賞の機会は少なく、コンストラクターズランキング8位に後退した。また、2009年に導入されるKERSの開発を見越してオートモーティブ・ハイブリッド・パワー社の株式を少数取得し、「ウィリアムズ・ハイブリッド・パワー」に改称してチームファクトリーに移転した。2009年は大幅なレギュレーション変更があったが、レギュレーションの穴を突き、2層ディフューザを投入し議論の的となった。しかし、最終的にFIAから許可が出されたため他チームもこれを追随する形となった。シーズン序盤は2層ディフューザもあり、ウィリアムズの成績も序盤は上向くかと思われたが、信頼性の不足や中嶋がノーポイントに終わる不調もあり、コンストラクターズランキング7位に終わっている。今シーズンから規約で認められたKERSであったが、ウィリアムズは全F1チームの中で唯一フライホイール式のKERSを開発していた。しかし、実戦に投入されることはなかった。トヨタとのエンジン供給契約はあと1年残っていたが、2009年10月14日に2009年末に契約を前倒しして終了することを発表した。これに伴い、2010年に使用するエンジンはコスワースとなる事も後日発表された。2009年12月にはウィリアムズの株式をトト・ヴォルフに少数売却したことを発表した。のちに、売却比率が全体の10%であり、フランクが63%、ヘッドが27%を引き続き所有していることが明らかにされた。10年ほどスポンサーを務めたアリアンツが離脱・新興メルセデス(後年AMGがつく)チームのスポンサーとなった。2010年に投入したマシンFW32ではエンジンをトヨタからコスワースにスイッチした。また、ドライバーラインナップを一新し、ロズベルグとのトレードでブラウンGPからルーベンス・バリチェロを起用した。中嶋の後任にはテストドライバーから昇格したニコ・ヒュルケンベルグとなった。テスト・ドライバーにはバルテリ・ボッタスと新しく契約した。ブラジルGPにてヒュルケンベルグがチームにとって5年ぶり、コスワースエンジンにとって11年ぶりとなるポールポジションを記録した。しかし最終戦アブダビGP終了後の11月15日に、ヒュルケンベルグがチームを離脱し、同時にバリチェロとの契約を翌年も継続することが発表された。2005年以来、主要スポンサーとしてチームを支援していたRBS(ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド)が2010年末をもってスポンサーから撤退することが明らかとなっている。これは2008年末からの金融危機が原因である。その他にオランダの家電機器であるフィリップスもウィリアムズからスポンサー撤退する事を発表している。2011年シーズンはバリチェロが残留する一方で、ヒュルケンベルグの後任としてベネズエラ人ドライバーのパストール・マルドナドを起用することを発表し、これに伴いPDVSA(ベネズエラ国営石油会社)などベネズエラ資本の複数のスポンサーを獲得。しかしそれでもRBS・フィリップスらの離脱による収入減少を補いきれない(一説には43%もの減収となったとされる)ため、チームはレーシングチームとしては異例となる自社の株式公開を計画し、2011年3月2日にフランクフルト証券取引所に株式を上場することを発表した。フランク・ウィリアムズは株式の過半数を保有し続けるものの、主にパトリック・ヘッドらの所有株を中心に、発行済株式の約27%が市場に放出される。2011年は自社製超コンパクトギヤボックス(十分な信頼性は確保されていた)以外に目立った体制変更はなかったが、5ポイント・コンストラクターズランキング9位という2006年以上の不振のシーズンとなった。(2006年当時のポイントシステムに換算するとこの年のウィリアムズはノーポイントである。)このためテクニカルディレクターのサム・マイケルを始めとする首脳陣が責任を取る形でチームを離脱。またフランク・ウィリアムズと共に同チームを長年率いたパトリック・ヘッドも、関連会社の運営に専念することになりF1の現場を離れた。さらに過去5年にわたりメインスポンサーを務めたAT&Tが2011年末をもってメインスポンサーを降りた。2012年シーズンからルノーが15年ぶりにエンジンを供給することが2011年7月に決定。契約は2013年までの2年間で、エンジンのレギュレーションが変更される2014年はオプションとなっている。ルノーエンジンはレッドブル・レーシングが使用して好成績を挙げており、ウィリアムズの復調につながるかが注目される。ドライバーはバリチェロに代わりブルーノ・セナが起用された。また同年4月1日付でフランク・ウィリアムズはF1チームの取締役から退くことになった(ただし引き続きチーム代表を務め、役員会議には出席を続けるとのこと)。ウィリアムズ家の代表として、役員会には引き続きフランクの娘クレアが出席する。彼女はチームの広報部門に10年務めており、今回ドミニク・ライリーの退社を受けてマーケティング&コミュニケーションディレクターに昇進した。第2戦マレーシアGP終了後の3月26日、フランク・ウィリアムズの後継者と見なされていたアダム・パーが3月30日付でウィリアムズ・グランプリ・ホールディングズPLCを退職することを発表。これを受け、ディアジオの前CFOで現在WPGHと2つのFTSE100企業の非常勤取締役を務めるニック・ロースが非総裁(Non-Executive Chairman、非常勤会長)に就任。支配株主のフランク・ウィリアムズが、株主で非常勤取締役のトト・ヴォルフ、経営最高責任者のアレックス・バーンズ、残りの取締役のサポートを受けながら会社の監督を続けていく。第5戦スペインGPでは、パストール・マルドナドが自身初のポールポジションを獲得。決勝ではスタート時にフェルナンド・アロンソに抜かれ2位となったものの、ピットストップのタイミングが功を奏し1位に逆転。後半では2位となったアロンソからの追随をも守りきり、ウィリアムズにとって8シーズン・7年半ぶりとなる優勝を獲得した。しかし、レース終了後の優勝祝いの最中にガレージの燃料庫から出火、火災が発生という災難に見舞われた。幸いに命に関わるような重篤な負傷者はいなかったもののFIAによると、この火災で3チームの計31人が負傷したとのこと。貴重なデータを収めたコンピューターも廃棄となり、それらについて当面は他チームから借り受けて運用することになった。その後、マルドナドは光る速さは持っていたものの、安定性に欠けていたが終盤には再び安定したドライビングをし、セナはマルドナドほどの速さはなかったものの予選下位から追い上げる粘り強さやクレバーな走りで中団争いをすることもしばしばあり、76ポイントでランキング8位となった。同年11月にマルドナドの2013年シリーズ残留と、リザーブドドライバーだったバルテリ・ボータスをレギュラードライバーとして起用することが発表された。2013年は一転して2年前の性能に逆戻りしたかのような性能に苦労する事となった。予選最高位はカナダでのマルドナド13位ボッタス3位、決勝はマルドナドが第10戦ハンガリー10位、ボッタスが18戦アメリカ8位で、チーム成績は2年前の5ポイント・9位と同じになった。シーズン終盤にマルドナドはチーム離脱を表明、ロータスへの移籍を発表した。2014年からF1のエンジンレギュレーションが大きく変更されることから、2013年5月にウィリアムズは、2014年より新たにメルセデスからエンジン供給を受けることを発表した。メルセデスはウィリアムズにエンジン及びエネルギー回生システム(ERS)を含むパワーユニットを供給するが、トランスミッションはウィリアムズが独自開発する。ドライバーは残留したボッタスとフェラーリからフェリペ・マッサが移籍。テスト段階では従来の紺ベースだったが、マルティーニ・エ・ロッシとの大型スポンサー契約がまとまり、チーム名や塗装にマルティーニの意向が反映され、白地に赤青ストライプが車体に描かれた。2008年を最後に離れていたペトロブラスがブラジル人のマッサ加入に伴いスポンサーに復帰。マルドナドが離脱したもののPDVSAは契約期間が残っていた為に残り期間のスポンサー料が違約金として支払われ、BMWエンジンを失って以後、最も潤沢な資金を得てシーズンに臨む事となった。それでもフェラーリの半分の年間予算である。開幕戦オーストラリアGPではボッタスが前年を上回る5位入賞を果たし、1戦で前年1年間の総獲得ポイントを超えた。続く第2戦マレーシアGP、第3戦バーレーンGPでもマッサ7位、ボッタス8位とダブル入賞が続く。第8戦オーストリアGPの予選ではマッサがポールポジション、ボッタスが2番手とフロントローを独占した。ウィリアムズのPPは近年に2010,2012年に獲得しているが、フロントローを2台独占したのは2003年フランスGP以来の11年ぶりの出来事であった。なお、マッサ自身にとっても2008年ブラジルGP以来6年ぶりのPP獲得であった。決勝は序盤トップと2位を先行したが、ピット作戦でメルセデス勢に逆転を許しマッサ4位、ボッタス3位初表彰台という結果となった。次戦イギリスGPではボッタスが予選Q1敗退・14番手ながら決勝で2位表彰台を獲得した。この年は年間ランキング3位と2005年以来の好成績をあげた。ちなみに、最終戦のアブダビGPではダブルポイントの効果もあり、2台で66ポイントを獲得。これにより、1レースで獲得したポイントが最も多いチームとしての記録を残した。2015年もボッタス、マッサのコンビで参戦。序盤は表彰台に上がれないレースが続いたが、ボッタスが第7戦カナダGPで、続く第8戦オーストリアGPでマッサが表彰台を獲得する。第9戦イギリスGPでは2列目からマッサ、ボッタス共にロケットスタートでメルセデスを抜き去り1-2体制でレースを進めていた。しかしピット作戦でメルセデス2台に逆転されると、終盤に雨が降り出した際にウェットタイヤへ交換するタイミングを誤り、フェラーリのセバスチャン・ベッテルにも逆転されマッサ4位、ボッタス5位に終わった。シーズンを通してメルセデス、フェラーリの後塵を拝するレースが多く、表彰台は両ドライバーとも2回ずつに留まり、ランキングではボッタス5位、マッサ6位となった。レッドブルの不振もありコンストラクターズは前年と変わらず3位でシーズンを終えた。2016年もドライバーは変わらず。シーズンを通じてポイントを獲得するのが精一杯という状況で、メルセデス、レッドブル、フェラーリから大きく差をつけられている。表彰台も17戦終了地点でカナダGPでのボッタスの3位のみとなっており、フォース・インディアとコンストラクターズ4位を争う状況になっている。イタリアGPでマッサがこの年で限りで引退することを発表した。ウィリアムズはF1以外にも過去に下記のような活動を行っている。かつては、レギュラードライバーは30歳代のベテランしか起用しなかったり、技術も保守的といわれていたウィリアムズだが、1990年代半ば以降のドライバーに関しては、ザウバーやミナルディ、ジョーダンほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。ウィリアムズからF1デビューしたドライバーとしてクルサード、ジャック・ヴィルヌーヴ、バトン、モントーヤ、ニコ・ロズベルグ、中嶋一貴、ニコ・ヒュルケンベルグ、パストール・マルドナドがいる。このうちヴィルヌーヴとバトンはワールドチャンピオンを獲得している。なお、1983年にイギリスF3参戦中のセナをテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた。ただし、当時のウィリアムズの方針では、セナはまだ若いということでレギュラードライバーの起用は見送られた。歴代のウィリアムズドライバーの中で10名がウィリアムズでF1初勝利を達成している。*太字はチャンピオンを獲得したドライバー*斜体になっているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)*斜体になっているドライバーはスポット参戦など

出典:wikipedia

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