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烈風

烈風(れっぷう)は、日本海軍が零式艦上戦闘機(以下、零戦)の後継として試作した艦上戦闘機(のち局地戦闘機)。設計生産は三菱航空機。略符号はA7M。連合国のコードネームは「Sam」。1943年8月以前の試作名は「十七試艦上戦闘機」。試作のみで未完成のまま終戦を迎えた。開発主務者は零戦や雷電などと同じ堀越二郎である。全体を流線型で纏めた機体形状に零戦の影響が感じ取れるものの、それまでの戦闘機と比較して機体が大型であり、運動性を重視した設計であった。開発の遅れから実戦には間に合わず終戦を迎えた。A7M1とA7M2は、基本的に雷電で採用された技術を踏襲して設計されている。胴体については、A7M1では雷電と同様気化器や潤油冷却器用の空気取入口をエンジンカウル内に設けることで機首先端を絞り、更に巨大なプロペラスピナーを装備して胴体全体を紡錘形に整えることで、空気抵抗の低減を図っている。雷電では採用された延長軸による機首延長は採用されていないが、機首を絞ったことにより不足する冷却用空気を補う強制冷却ファンは装備されている。風洞模型から計算された空気抵抗係数は0.0147とされ、全ての戦闘機のデータが公開されている訳ではないので断定はできないが、空気抵抗係数では第二次世界大戦当時のレシプロ機としてはトップレベルであったと言われる(参考までにBf109Eは0.0344、P-36は0.025。現代の自動車では0.3を下回れば極めて良好とされる)。A7M2では発動機直径の関係もあって気化器や潤油冷却器用の空気取入口がエンジンカウルの外に設けられたため、A7M1ほど機首を絞ることは出来ず、強制冷却ファンも装備されていなかった。そのため、時期的にも近い紫電改に共通した印象の機首形状になっている。30mを越える面積を持つ主翼については、内翼側は胴体に垂直、外翼側にやや強めの上半角を持つ。F4Uコルセアほど極端ではないが、いわゆる逆ガル翼となっている。奇しくもライバルのF6Fヘルキャットに類似した形式と主翼面積になったが、逆ガル翼そのものは、同じ堀越技師の設計で零戦の先代にあたる九六式艦上戦闘機の試作でも採用されている。雷電と同様、内翼側が層流翼に近いもので、外翼側にいくにつれて通常の翼型に変化する半層流翼を採用している。短距離離着陸が求められる艦戦に必須の高揚力装置としては、スロット式の親フラップに空戦フラップを兼ねるスプリット式の子フラップを組み合わせた親子式フラップを装備していた。紫電・紫電改で実用化された自動空戦フラップ(機構は異なる)の装備も予定されていたが、実際に装備した機体は完成する前に終戦となった。A7M1初期試作機は主翼内にセミインテグラル式の大容量燃料タンクを装備していたが、A7M1後期試作機やA7M2では翼内タンクを自動防漏式防弾タンクとするために通常形式へ変更しており、これによる燃料タンク容量の減少に対応して胴体後部に燃料タンクを増設している。急降下制限速度については、計画要求書では450ノット(833.4km/h)、後にやや引き下げられて425ノット(787.1km/h)を求められていた。しかし、完成直後のA7M1試作機は主翼の強度が不足していたため、とりあえず制限速度を350ノット(648.2km/h)に引き下げて試験を行う一方で主翼の補強が行われた。その後、補強が行われたA7M1試作五号機を用いた振動実験により主翼の強度向上が確認され、風洞実験から算出された急降下制限速度(零戦の急降下制限速度と同じ算出方法)は要求性能にほぼ到達している416ノット(約770.4km/h)だった。ちなみに、機体規模が近く同じ艦上戦闘機であるF6Fヘルキャットの急降下制限速度は-3型が415ノット(768.6km/h)、-5型が430ノット(796.4km/h)、F4Uコルセアは-1型系が400ノット(740.8km/h)、-4型が425ノット(787.1km/h)で、より新しくて小型のF8Fベアキャットでも425ノット(787.1km/h)だった。艦上機として開発された関係上、翼端から約1.7mのところに主翼折畳機構(上方折畳式)を備えていたが、強度不足の主翼を補強するためにA7M2試作三号機以降は折畳部を結合する予定だった。A7M1に搭載された誉二二型(NK9K)は紫電改(N1K2-J)や彩雲(C6N1)が搭載した誉二一型(NK9H)にA7M1用として強制冷却ファンや燃料噴射装置を追加した性能向上型として計画されたが、開発の遅れから燃料噴射装置は装備されず、気化器を装備したものがA7M1に搭載された(C6N1試作機にも搭載されている)。誉二二型を装備したA7M1が予定性能に達しないことが判明した後、ようやく完成した燃料噴射装置を追加した誉二四型(NK9K-S)への換装が計画されたが、実行されたかは不明。A7M2に搭載されたハ四三-一一型(MK9A)は、海軍では試製閃電(J4M1)や試製震電(J7W1)、陸軍ではキ七四やキ八三への搭載が予定されており、更に紫電改(N1K5-J)や彩雲(C6N4)、流星(B7A3)、四式戦 疾風にもハ四三搭載型が計画されたが、本格的な試験飛行を行うところまでこぎ着けたのはA7M2とキ七四、キ八三だけである(A7M2試作機に搭載されたハ四三は、キ八三試作機用の発動機を流用したものである)。ハ四三は誉より信頼性が高いとする説が多いが、ハ四三は終戦時においても大量生産可能な段階に至っておらず、またA7M2、キ七四、キ八三に搭載されたハ四三に例外なく不具合が多発していたという記録が残されていることから、近年はハ四三の信頼性に否定的な意見も多い。実際、試製震電は滑走試験、浮揚試験が成功して本格試験に入る直前にハ四三に故障が起こり、これを修理するために三菱の技術者の到着を待っていたところで終戦を迎えている。なお、ハ四三-一一型は高高度性能が低かったため、量産型は高高度性能を向上させたハ四三-一二型に換装する予定だった。計画書で要求された武装は九九式20mm二号機銃(携行弾数各200発)と三式13.2mm機銃(携行弾数各300発)各2挺ずつで、十七試艦戦開発が始まる直前に試作機が完成した零戦三二型や十四試局戦の20mm機銃+7.7mm機銃各2挺よりは重武装だが、同時期に開発が始まった十四試局戦や一号局戦の武装強化型(それぞれ後の雷電二一型と紫電一一乙型)の20mm機銃4挺や、同じ十七試の試製閃電(J4M1)の30mm機銃1挺+20mm機銃2挺に比べると火力は低かった。後に三式13mm機銃を九九式20mm二号機銃四型に変更する指示が出され、それに基づいた改設計が行われているが、九九式20mm二号機銃四型を4挺装備した機体は完成しなかった。爆装については、左右の主翼下に30~60kg爆弾用の懸吊架が装備されていた他、A7M2では胴体下に設けられた落下式増槽の懸吊架を五二丙型以降の零戦や紫電改等と同様の爆弾架兼用のものに変更している。計画要求書には「防弾は特に考慮せず」とあった(防弾ガラスを追加装備出来るように考慮することは記載されていた)ため、当初は自動防漏式防弾タンクや防弾板の装備は考慮されていなかったが、のちに戦訓に基づいて自動消火装置や自動防漏式防弾タンク、防弾ガラスの装備が要求されたため、それに応じた設計変更が行われている。開発開始時は当時の命名基準に従い、計画開始年度(昭和)と機種名を並べて十七試艦上戦闘機と呼称された。戦時中の1943(昭和18)年、分類、命名基準の変更に伴い名称を試作機の時点から制式機同様に付与するように改定され、十七試艦戦は甲戦に分類され、昭和18年(1943年)4月に試製烈風と改称された。(軍用機の命名規則も参照)昭和15年(1940年)末、海軍は零戦の後継艦上戦闘機として“十六試艦上戦闘機”の開発計画を三菱に内示した。しかし、新型戦闘機に搭載可能な小型高出力発動機が実用化されておらず、また三菱でも堀越二郎技師率いる設計陣が当時量産が開始されたばかりの一号零戦(A6M2b。後に零戦二一型へ改称)に続出する初期故障への対処と、仮称二号零戦(A6M3。後の零戦三二型)や十四試局地戦闘機(J2M1。後の雷電)の開発で手一杯であったため、翌昭和16年(1941年)1月に計画は一旦中止となった。それから約1年後の昭和17年(1942年)4月、海軍は十七試艦上戦闘機と改めた零戦の後継艦上戦闘機の開発を三菱に内示、昭和16年(1941年)7月に仮称二号零戦の試作一号機を、昭和17年(1942年)3月に十四試局戦の試作一号機を完成させて一息ついた堀越二郎以下の設計陣が開発に当たることとなった。同年7月に海軍が提示した『十七試艦上戦闘機計画要求書』に記載されていた要求性能は概ね以下のようなものであった。十七試艦戦に使う空戦フラップは、川西のものとは別に、三菱が航空技術廠と共同で開発する案が考えられていた。1942年10月17日、『十七試艦上戦闘機計画要求書』を作成した軍令部の井上中佐は「戦争が長期化する可能性を考えると、二年先に敵に対しなお優位を保つためにはどうすればよいかという見通しをたてなければならない。今後二年先を見通すなら、敵の戦闘機の最高速度はおそらく350ノット(時速約650キロ)程度になろう。それは、零戦より60ないし70ノットも上まわる。従って十七試艦戦は、あくまでも速力を第一にすべきであって、計画要求の345ノットを緩めるわけにはいかない。それは、敵戦闘機に対抗できる速力のぎりぎりの数字である」と主張。この意見に対し横空戦闘機隊長花本清登少佐が「実戦的にはあまりに速力を偏重することに不安がある。零戦は速力だけでなく空戦性能がすぐれているから敵を制することができるのであって十七試艦戦にも零戦程度の空戦性能を確保する必要がある」と反論し、小林淑人中佐も花本と同意見と主張した。結局、軍令部も従来通り、空戦を第一に決めた。開発開始に当たってまず問題となったのは、多くの日本機と同様に搭載発動機の選定であった。要求性能を達成するには最低でも2,000馬力級の発動機が必要と考えられ、候補としては中島飛行機が海軍と協力して開発を進めていたNK9(後の誉)とそれを追う形で三菱が開発していたMK9(後のハ四三)の二つしか存在しなかった。どちらも空冷複列14気筒の1,000馬力級発動機である栄と金星を18気筒化することで2,000馬力級を狙った高性能発動機であり、NK9は馬力の小さい初期型ではあるが既に海軍の審査に合格して十五試陸上爆撃機(P1Y1。後の銀河)で各種試験が実施中であるという強みがあり、MK9はNK9よりやや大型ながらより大馬力を期待できるという強みがあった。しかも海軍側から計画書では150kg/m程度とされている翼面荷重値(機体重量を主翼面積で割った値)を130kg/mに抑えて欲しいという要望が出されたことが更に問題を複雑にした。三菱の試算では、NK9を搭載した場合は翼面荷重値を150kg/mとしても馬力不足のため最高速度などの要求性能を満たせず、MK9を搭載した場合は翼面荷重値を130kg/mとすればなんとか要求性能を満たせるという結果が出た。しかし、MK9の開発はNK9より遅れており、MK9を搭載する場合はNK9搭載の場合より十七試艦戦の実用化は遅れると予想された(事実、ハ四三の量産開始は誉より1年ほど遅い昭和19年末になった)。このため、開発開始が当初計画より1年以上遅れている十七試艦戦の早期実用化を重視してNK9を推す海軍と、要求性能の達成を重視してMK9を推す三菱の間で意見の対立が起きた。4ヶ月以上に及ぶ議論の末に海軍はNK9を搭載するように三菱に通知するというやや強引な手段で決着をつけ、三菱側はかなり不満を抱きながらもこの決定に従っている。翼面荷重値の問題については130kg/m案(主翼面積30.86m)と150kg/m案(同28m)の両方を試作して性能良好な方を採用することとなり、まず130kg/m案を先行させることに決定された。その後、防弾装備の追加等による重量増加により、130kg/m案の主翼でも翼面荷重が150kg/m前後まで増加したため、150kg/m案の主翼は試作されなかった(キ八四(後の四式戦 疾風)でも装備追加による重量増加が起き、計画当初の主翼では翼面荷重値が高くなりすぎるため、試作二号機以降は15%ほど面積を増した主翼に変更している)。設計陣は相次ぐ零戦の改修や雷電の不具合対応、そして堀越二郎の体調不良と工場が零戦と一式陸攻の生産で手一杯の状況に陥ったこともあり、A7M1試作一号機の完成は開発開始から約2年後の昭和19年(1944年)4月にまでずれ込んだ。同年5月に初飛行すると直ちに試験飛行が開始され、操縦性・安定性・視界・離着陸性能に問題がないことは確認されたが、最高速度は零戦二一型にも劣る283ノット(524.1km/h)前後、上昇力に至っては高度6,000mまで10分近くかかり、計画値に全く及ばなかった。海軍側から指摘された機体仕上げを改善することにより最高速度は零戦五二型(A6M5)並みの310ノット(574.1km/h)にまで向上したもののやはり計画値は及ばず、上昇力に至っては全くと言っていいほど改善されなかった。飛行試験の結果から三菱側は誉の出力不足を疑い、A7M1から降ろした誉のベンチテストから高度6,000m付近での出力が定格より2割程度低下し、1,300馬力程度しか出ていないというデータを海軍に提出、これが最高速度と上昇力の不足の原因であるとしてハ四三への換装を主張した。昭和20年(1945年)1月付けの『試製紫電改操縦参考書』や巌谷英一技術中佐の回想から明らかなように、当時の誉二〇型は誉一〇型と同じ条件で運転するよう制限されており、最初から定格より1割ほど低い出力しか出せない状態であった。しかし、三菱のベンチテスト結果と「A7M1が装備した誉は一番性能が低下していた頃に生産されたもの」という中島飛行機の誉担当者の回想から、A7M1に搭載された誉二二型の出力が運転制限された誉二〇型より低かったのは事実と考えられる。しかし、A7M1より半年ほど先に初飛行した紫電改(N1K2-J)が同じ誉二〇型装備ながら好成績を出しており、その艦上戦闘機型の開発にも目処が立ったことから、海軍は昭和19年(1944年)7月にハ四三への換装は認めたものの、翌8月にA7M1の開発を中止(烈風改(後述)の開発は続行)して紫電改の転換生産を行うように三菱に指示した。この決定に対しては堀越二郎も強い不満を持ったとされ、戦後に『ハ四三さえ最初から使えていれば……』と述べたと言われる(但し、A7M1の開発開始時点でハ四三は海軍の審査にも合格しておらず、量産開始に至ってはA7M1開発の中止と紫電改転換生産が指示された4ヶ月も後のことであり、最初から「使いたくても使えない」状況だった)。仮称A7M2と命名されて開発の始まった発動機換装型だが、名目上は開発中の烈風改(後述)の基礎データ収集のために三菱が独自に制作する実験機であったため、A7M2を海軍が制式採用する可能性はない状況だった。A7M2試作一号機は昭和19年(1944年)10月上旬に完成し、初飛行後直ちに行われた飛行試験において最高速度337ノット(624.1km/h)、上昇力高度6,000mまで6分5秒という十七試艦戦の要求性能をほぼ満たす好成績を記録、これを見た海軍は試乗と審査用に試作機の領収を三菱に申し入れた。その後、零戦との間で行われた空戦実験において、空戦フラップを使用すれば零戦を凌ぐ空戦性能を発揮できると判定され、海軍の審査担当官である小福田租少佐から“零戦の再来”と賞賛された。しかし、三菱での飛行試験が終了した直後の昭和19年(1944年)12月から翌昭和20年(1945年)1月にかけて頻発した東南海地震とB-29による爆撃のため三菱の工場は壊滅、ハ四三の大量生産は絶望的となり、生産計画も年産120機ほどに留まった(紫電改は月産1,000機を計画)。この後も繰り返される空襲とそれに伴う地方への疎開による混乱のため、未だ発動機と機体共々未完成な部分を残すA7M2の改修と量産準備は遅々として進まず、昭和20年(1945年)6月に機体としての運用を艦上戦闘機から局地戦闘機に変更し(当時、空母機動艦隊は既に壊滅していた上、戦局の悪化に伴い機種を問わず重爆撃機の迎撃に投入されており、甲戦・乙戦といった機種分類は書類上でしか意味を為していなかった)、烈風一一型として制式採用されたとされるが、終戦までにA7M1試作機3機がA7M2へ改修されたものの、三号機を除いて事故や爆撃で失われ、残り4機は未改修、量産機は一号機が完成直前の状態に漕ぎ着けただけに終わった。このためA7M2は実戦に全く参加できず、同時期に配備されていた他の戦闘機との空戦での優劣を検証するには推測に頼らざるを得ないところが多いため、正確な判定は困難である。昭和18年(1943年)初め、日本陸海軍はB-17を超える重爆撃機B-29の実用化が間近であることを察知し、これに対抗する高高度戦闘機として海軍は試製天雷(J5N1)や試製陣風(J6K1)、試製震電(J7W1)、陸軍はキ八七やキ九四の開発を開始した。とはいえ、新型機の実用化にはどうしても数年の時間が必要であり、これから設計を始める新型高高度戦闘機の実用化より既に試作機が完成しているB-29の実戦投入が早いのは明らかだった。このため、海軍は新型戦闘機実用化までの繋ぎとして、既存の戦闘機を改修した急造高高度戦闘機の開発も開始した。高高度戦闘機に必須の排気タービン過給器や強力な火器を搭載するには、機体容積に余裕のある大柄な機体が適していると考えられたことから、当時開発中であった戦闘機の中から太い胴体をもつ雷電と試製烈風が候補に挙がり、A7M1試作一号機が完成する数カ月前の昭和19年(1944年)初頭から試製烈風をベースにした高高度戦闘機の開発が開始された。なお、これとほぼ同時に雷電の高高度戦闘機型としてJ2M4(後の雷電三二型)の開発も開始された。この高高度戦闘機型は烈風改(A7M3-J)と仮称され、発動機を排気タービン過給器付のハ四三-一一型ルに換装、武装を翼内五式30mm機銃4挺、胴体30mm斜銃2挺に強化し、高度10,300mにおいて最高速度342ノット(633.4km/h)を発揮することが予定された。このため、操縦席と尾翼周辺、主翼の一部を除いて大幅な改設計が必要な新規設計に近い大規模な改修が施されることになった。発動機換装による馬力増大と比較して装備増加による重量増大が大きいことから、計画通りの性能が達成できるかという危惧と地震や空襲の影響による作業の遅延の中で開発が進められていたが、試作一号機の完成前に終戦となった。また昭和20年(1945年)3月頃から新たな高高度戦闘機型の開発が開始された。これが堀越二郎『零戦』において烈風性能向上型(A7M3)として紹介されている機体で、前年秋に完成して好成績を収めたA7M2の発動機を高高度性能の高いハ四三-五一型に換装、武装を翼内九九式20mm二号機銃五型6挺に強化し(やや先行して開発されていた試製陣風(J6K1)の翼内武装に準じる)、高度8,700mにおいて最高速度347ノット(642.6km/h)を発揮することが予定されており、改修に無理が少ないことから期待を集めたとされるが、やはり試作一号機が完成する前に終戦となった。A7M3とほぼ同時期に、A7M2またはA7M3-Jの設計をベースに発動機をハ四四-二一型に換装した高高度戦闘機が次期甲戦闘機(二十試甲戦闘機)として開発の検討が進められているが、各種性能を推算する段階で終戦を迎えている。この次期甲戦闘機には「陸風」という愛称が予定されていたとも言われている。終戦後、他の日本機と同じ様に烈風も米軍から引き渡し命令が出ている。海軍の小福田少佐は試作機・量産機の全てが飛行不能であったため「引き渡し不能」と回答したと回想しているが、三菱関係者の中に松本へ送られていたA7M1試作機の内1機を修復して引き渡したと回想している者もいる。官民両者の回想が矛盾しており、はっきりしたことは不明であるが、戦後かなり経過してからアメリカで行われた調査では烈風の実機は発見されていない。なお終戦直後に量産一号機が名古屋港沖に投棄されたが 、戦後その場所に防波堤が築かれてしまったため確認は不可能である。

出典:wikipedia

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