マヒンダ・ラージャパクサ(, , , , 1945年11月18日 - )は、スリランカの政治家。第13代スリランカ首相(2004年 - 2005年)、第6代スリランカ大統領(2005年 - 2015年)。日本語での表記としては、外務省が用いているシンハラ語読みに近いマヒンダ・ラージャパクサ以外に、マヒンダ・ラジャパクサ、マヒンダ・ラジャパクセなどが存在する。ラージャパクサはハンバントタ郊外の町でシンハラ人仏教徒の両親の息子として生まれた。彼の父はスリランカを代表する政治家で独立運動の指導者のひとりであった。成長したラージャパクサはゴールのリッチモンド・カレッジ、コロンボのサースタン・カレッジとナランダ・カレッジに学んだ。若い頃にはシンハラ語の映画に出演した経験がある。25歳になった1970年に国会議員に初当選し、スリランカの国会議員初当選最年少記録を打ちたてた。以降は労働・職業訓練大臣や漁業・水産資源開発大臣を務め、2004年にチャンドリカ・クマーラトゥンガ大統領の下、首相に就任した。憲法の3選禁止条項により出馬できないクマーラトゥンガに代わり、後継者として2005年の大統領選に出馬。対立候補のラニル・ウィクラマシンハを50.3%の18万票差の僅差で破り、第6代大統領に就任した。翌2006年より再燃したスリランカ内戦においては、タミル人武装組織のタミル・イーラム解放のトラ (LTTE) に対して徹底攻撃で臨んだ。中国とパキスタンから大々的な支援を受けたこともあり、2009年にはLTTEを壊滅させてスリランカ全土の実効支配を回復した。26年に亘る内戦を終結させた功績を元に、2010年には任期を短縮しての早期選挙を実施。1月26日投開票の大統領選挙では同じく内戦終結の功労者である前国防参謀長を破り、再選を果たした。同年、国会の解散総選挙を行い、与党連合の統一人民自由同盟 (UPFA) は225議席中144議席と大勝した。さらに、選挙後の入党者を含め161議席を占めた。こうした圧倒的な人気を背景に、同年10月には大統領の3選禁止などを撤廃する憲法修正案を可決させた。2007年12月と2013年3月12日に訪日している。2014年11月、再び任期を短縮しての早期選挙に挑むも、与党SLFPの幹事長で保健大臣のマイトリーパーラ・シリセーナが政権を離脱、 (NDF) より野党統一候補として立候補する事態となり、2015年1月8日の投開票においてシリセーナに敗れた。敗北の理由としては、前述の3選禁止条項の撤廃に加え、露骨な親中国政策や、親族を要職につかせる等、政権の独裁・汚職体質が反発を招いたとされている。ラージャパクサ政権からシリセーナ政権への移行は平和的に行われた。一方で2015年1月現在、選挙戦の終盤に敗色濃厚が伝えられたラージャパクサが開票前に軍や警察にクーデターを要請した疑惑が上がっており、また政権時代に進められた港湾や空港、高速道路の建設といった大規模プロジェクトについても、汚職疑惑が取り沙汰されている。2015年8月の国会選挙においては、UPFAの事実上のリーダーとして復権を試みるも敗北、議員としての当選は果たしたものの目標としていた首相就任は断念した。政治家の家系であり、夫人との間には3人の子を持つ。 大統領時代には親族をたびたび要職に取り立てていた。以下に著名な親族を示す。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。