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涼州

涼州(りょうしゅう)は、中国にかつて存在した州。現在の甘粛省、寧夏回族自治区一帯に設置され、現在では甘粛省の別称となっている。紀元前110年に全国を13州に分割し、各州に刺史を置いた際に涼州が設置された。隴西、武都、金城、安定、北地、武威、天水、張掖、酒泉、敦煌の10郡国を管轄した。前漢末の混乱期には隗囂が割拠したが馬援らにより平定されている。後漢が成立すると隴県を州治とした。194年(興平元年)に州西部に新に雍州を設置している。三国時代になると魏により州治は姑臧県に遷された。魏代の涼州刺史は同時に戊己校尉も兼任したため、その行政範囲は西域まで及ぶ広大なものとなっている。西晋末の永嘉年間以後、八王の乱の中で涼州刺史の張軌は自立、前涼を建てると、州南東部に河州を設置している。この時代の涼州は西域諸勢力の拠点となり、前涼以降も後涼、南涼、北涼、西涼などが拠点としている。北魏が成立すると、涼州はその辺境である地理的理由により神年間に敦煌鎮に降格されたが、490年(太和14年)に設置された。西魏の時代には州西部に西涼州が設置されるなど、細分化が進んだ。北周の時代には西域への要地として涼州総管府が設置されている。北周時代の管轄郡は下記の4郡であった。隋初に設置された涼州は3郡8県を管轄していたが、607年(大業3年)に郡制に改められて武威郡に改編、4県を管轄するようになった。隋朝の行政区分に関しては下図を参照。唐朝が成立すると武威郡が涼州と改称された。唐代は吐蕃との間で発生した戦闘において最前線となり、唐と吐蕃による統治が交互に繰り返された。1028年(天聖6年)、李徳明が涼州を陥落させ、宋朝(北宋)の行政権が及ぶようになると西涼府と改称された。景徳年間には西夏の勢力下に置かれることとなった。元初は西涼府とされていたが、1278年(至元15年)に永昌路が設置されると、西涼府は西涼州に降格し、その管轄とされた。元代の管轄県は下記の2県であった。明朝が成立すると、洪武年間に涼州衛とされ、清代の1724年(雍正2年)に涼州府と改編された。中華民国が成立すると府制廃止に伴い、涼州の行政区画名称は消滅することになる。涼州を舞台にした「涼州詞」が多く作られているが、中でも有名なのが王翰による七言絶句である。起句では、西域から伝わった「葡萄美酒」、すなわちワインや「夜光杯」といったエキゾチックな小道具が登場する。古来、涼州は天山山脈を越えてヨーロッパへ通ずる東西路の交通の要所(河西回廊)であったため、珍しいものが伝わっていたことに由来する。同じ理由から涼州は国境防衛の要地でもあり、異民族との戦場になることも多かった。そこに「馬上催」という落ち着かなさの原因があるのかもしれず、結句に「幾人帰」と戦に向かう厳しさと不安が詠われるのである。

出典:wikipedia

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