ジャスティン・アーネスト・ジョージ・モーノー(Justin Ernest George Morneau, 1981年5月15日 - )は、カナダ連邦ブリティッシュコロンビア州ニューウエストミンスター出身のプロ野球選手(一塁手)。右投左打。現在はMLBのシカゴ・ホワイトソックスに所属している。尚、日本では姓の表記揺れが多いが、発音は「MOER-noh」であり英語圏では「モァノー」が最も近い。しかし、モーノーの母国カナダでは英語とフランス語が公用語であるため、モルノー、モーノーのどちらも正しいと言える。カナダ連邦ブリティッシュコロンビア州ニューウエストミンスターで生まれる。野球好きの父と元ソフトボールの投手だった母の影響で、2歳の時には既にバットを手に取るようになり、その頃から既に右投左打だった。高校時代はブリティッシュコロンビア・プレミア・ベースボール・リーグので強打の捕手として活躍し、ニューウエストミンスターの最優秀高校生アスリートに選ばれた。高校時代は野球以外にアイスホッケーもプレーしていた。のMLBドラフト3巡目(全体89位)でミネソタ・ツインズから指名され、プロ入り。プロ入りを機に、捕手から一塁手へ転向した。同じカナダ人であるラリー・ウォーカーとマイナーリーグにいたころに知り合いになる。にメジャー昇格を果たした時には、ウォーカーからサイン入りバットをプレゼントされ、6月10日のメジャーデビュー戦の最初の打席でモーノーはそのバットを使用した。それ以来、モーノーはウォーカーに野球についてのアドバイスを求めるようになった。その年はツインズで40試合に出場し、106打数で4本塁打を放った。、開幕をマイナーリーグAAA級ロチェスター・レッドウイングスで迎えたモルノーは72試合に出場し、打率.306・22本塁打・63打点を記録。好成績が実って7月上旬にメジャーへ昇格した。7月末に、当時の正一塁手だったダグ・ミントケイビッチがボストン・レッドソックスへトレードされ、モーノーが一塁のレギュラーに定着。74試合で19本塁打・58打点という好成績を残した。もし162試合にフル出場していれば42本塁打・124打点となるペースであった。は、4月6日のシアトル・マリナーズ戦でロン・ビローンから頭に直撃する死球を受け、脳震盪で故障者リスト入りした。4月22日に復帰を果たしたが、6月には左肘も痛めた。これについて同僚のトリー・ハンターから「この時期、みんな多少の痛みをこらえてプレーしているのに」と批判されたり、首脳陣の意向で打順がなかなか固定されなかったりと、厳しいシーズンとなった。最終的には141試合に出場したが、打率.239・22本塁打に終わった。開幕前の3月に同年から開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のカナダ代表に選出された。シーズンでは6月7日終了時点で打率.236と低迷し、一度はベンチへ下げられるものの、その後は広角に長打単打を打ち分ける持ち前のバッティングが復活し、6月以降は打率.353・本塁打24・打点93を記録。8月7日には球団史上19年ぶりとなるシーズン30本塁打を達成し、通年成績を打率.321・本塁打34・打点130・OPS.934とした。130打点は1969年にハーモン・キルブルーが記録した140打点に次ぐ球団史上2位で、またカナダ出身の野球選手としては1997年のウォーカーに並ぶMLBタイ記録となった。シーズン終了後には、アメリカンリーグMVPとシルバースラッガー賞(一塁手)に選出されている。この活躍を受け、球団は4年総額2,400万ドルという条件で契約延長をオファー。モーノーは当初、これを受け入れるつもりでいたが、代理人から待つよう薦められたので単年契約を選択した。年俸は38万5千ドルから450万ドルと11倍以上に大幅アップした。は前半戦から本塁打を量産し、5月には月間MVPに選出された。オールスターにも初選出され、試合前日のホームランダービーにも出場。オールスター後はペースが落ちたものの、最終的に31本塁打を放ち、前年に続き30本塁打・100打点を達成した。1月25日、球団史上最高額となる6年総額8,000万ドルで契約を延長した。この年は全163試合に出場。6月終了時点で打率.308・12本塁打を記録し、前年に続き2年連続でオールスターゲームに選出された。2年連続となるホームランダービーへの出場を打診されたモーノーは、前年の大会で意図的に本塁打を狙ったスウィングをしたことが後半戦の打撃に影響したと考え、出場に消極的だったが、大会前日の7月13日に参加を表明した。結果、ダービーではジョシュ・ハミルトンを破り優勝、続く15日に行われた試合では延長15回にマイケル・ヤングの犠牲フライでサヨナラのホームを踏んだ。しかし後半戦に入り、月間打率が7月.360→8月.282→9月.243、同OPSも7月1.181→8月.839→9月.696と、シーズンが進むにつれて打撃が不調に陥っていく。主砲として3・4月から9月まで毎月20打点以上を挙げるなど、ある程度の役割は果たしたが、チームはシカゴ・ホワイトソックスとのワンゲーム・プレーオフで敗れ、ポストシーズン進出を逃した。個人成績でも、打点王のタイトルにあと1打点及ばなかった。は開幕前の3月に第2回WBCのカナダ代表に選出され、2大会連続2度目の出場となった。大会では、打率.444を記録した。しかし、カナダは2連敗で第1ラウンド敗退となり予選降格となった。レギュラーシーズンでは連続試合出場継続中としてはライアン・ハワードに次ぐ記録だったが、6月21日のヒューストン・アストロズ戦を欠場したため319試合で途切れた。前半戦は打率.341・20本塁打・69打点に対し、後半戦は打率.210・10本塁打・31打点と低迷。8月には内耳の感染症によるめまいで6試合を欠場した。9月には腰の疲労骨折で全治3か月と診断されたため、9月12日の試合を最後にシーズンを終えた。は開幕から好調でオールスターの一塁手部門にもファン投票で選出されていた。しかし、7月7日の試合で脳震盪を起こした。これ以後の試合を、全て欠場する事となった。シーズン終盤になっても後遺症から回復せず、プレーオフにも出場できなかった。は開幕から4番を務めたが、脳震盪の後遺症により満足なプレーが出来なかった。最終的に、以降では最低の出場試合数、成績に終わった。は3年ぶりに規定打席到達を果たしたが、本塁打数は20本に満たず、完全復活とは言い難い成績だった。開幕前の1月17日に第3回WBC本戦のカナダ代表が発表され、代表入りし、3大会連続3度目の選出となった。2013年8月31日、ピッツバーグ・パイレーツへトレード移籍した。オフの10月31日にFAとなる。2013年12月3日、コロラド・ロッキーズと2年総額1300万ドルで契約に合意し、12月13日に球団が発表した。は前半戦から好調なバッティングを見せていた。この年のオールスターゲームは自身の古巣のターゲット・フィールドでの開催であり、左打者不利の球場だったがホームランダービーに選出された。後半戦も、好調を維持し自身初となる首位打者のタイトルを獲得し完全復活した。オフの10月1日には、ホセ・アルトゥーベ、ブライス・ハーパーと共に日米野球2014の追加メンバーとして発表された。11月2日にFAになると、12月には痛めていた左肘の手術を受けた。は当初所属球団は無く、4月11日にピート・オーアと共にU-18カナダ代表のスプリングトレーニングでゲストコーチを務めた。6月9日にホワイトソックスと年俸100万ドルと打席数に応じて最大250万ドルとなるインセンティブ付きの1年契約を結んだ。ミネソタ・ツインズ在籍時は1960年代前半に一生を風靡したミッキー・マントルとロジャー・マリスの "MM砲" にちなみ、チームメイトのジョー・マウアーとともに "新MM砲" と称されることもあったが、本人はこれに嫌悪感を示している。
出典:wikipedia
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