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矢野健太郎 (数学者)

矢野 健太郎(やの けんたろう、1912年(明治45年)3月1日 - 1993年(平成5年)12月25日)は、日本の数学者。東京工業大学名誉教授。専門は微分幾何学。従三位勲二等瑞宝章。数学教育、一般への啓蒙についても精力的に活動し、この方面に関する著作も多い。彫刻家の子として東京に生まれた。市立東京二中、旧制東京高校、東京帝国大学理学部数学科を卒業後、同大学助教授、東京工業大学教授などを務めた。1950年(昭和25年) - 1952年(昭和27年)にはプリンストン高等研究所に赴任し、アインシュタインをはじめとする一流数学者の薫陶を受けた。小学生のときにアインシュタインの訪日と相対性理論に関するニュースを聞く。旧制高校在籍中に、相対性理論を理解するには微分幾何学、特にその中のリーマン幾何学を良く理解していなければならないと、当時東大助教授だった理論物理学者の山内恭彦に言われ、東京帝国大学では幾何学を専攻、1934年(昭和9年)に卒業して大学院に進む。同時に東京物理学校の講師に就任。その当時グレゴリオ・リッチ () 、レビ・チビタ (Tullio Levi-Civita) などの絶対微分学が確立されつつある時代で、いち早くその重要性に着目した。またおなじころ、発展中であった、エリ・カルタンの接続の概念に注目し、カルタンの下での研究を志し、1936年(昭和11年)にパリ大学へ留学した。パリ大学で提出した射影接続空間に関する論文により理学博士の学位を得る。1941年 東京大学 、理学博士 論文は仏文である。「共形接続空間の理論について(仏文)」。 高校生のときから相対性理論に興味を持っていたこともあり、統一場理論に関する論文も発表している。以後精力的に論文を発表していく。第二次大戦の影響で研究はややその速度を緩めるが、終戦後は堰を切ったようにますます論文の数は増えていった。プリンストン高等研究所ではサロモン・ボホナー () のもとで大域微分幾何学の研究を主に行い、ボホナーとの共著も出版されている。当時同じくプリンストン高等研究所にいたアインシュタインと親交を深める。矢野の夫人とアインシュタインが腕を組んでいる写真は矢野家の家宝とのことである。その当時のことを記した『アインシュタイン伝』は代表作である。以後も、世界中を飛び回り、客員教授や講演で活躍した。晩年になっても研究生活は継続し、共著や単独で多数の論文を発表した。矢野は多数の書物を執筆しており、その多くはいまでも広く読まれている。『数学通論』、『教養の数学』のような専門書、教科書から、『数学の楽しさ』、『数学物語』、『ゆかいな数学者たち』のような啓蒙書、エッセイ集、『解法のテクニック』などの大学受験参考書まで質的にも幅広い。遠山啓と共に雑誌『数学セミナー』の創刊に寄与し、多くの記事を執筆している。またテレビ番組「NHK『暮らしの数学』」、のレギュラーも勤めた。戦後しばらくし、岩波書店〈岩波全書〉で初学者向けの「数学入門シリーズ」が企画されたとき、矢野は『初等解析幾何学』と『代数入門』を執筆した。矢野の執筆した学生向けの入門書、参考書は、多くの大学・専門学校でテキストとして採用された。日本の代表的な経済学者の一人の安井琢磨は、矢野との対談を含んだ自著のあとがきに、「卓越した数学者であるとともにすぐれた教育者」と矢野を紹介していた。矢野の自宅の書斎には机が二つあり、片方は数学用、もう片方は本の執筆など数学研究以外の仕事のために使い分けていたとのことである。微分幾何学ではベクトル場という概念は基本的であるが、「矢野」という名前を英訳すると、矢=Vector、野=Fieldで、矢野=Vector Fieldとなってうまく符合する。ある時外国の数学者との場で、名前を英訳したら、という話題になった時、そう説明したところ、うまくできすぎているため即座には信じてもらえなかったというのは有名な話である。そこでさらに「では小林昭七はどういう意味か」と問われて「小林=Littlewood」と答えても信じてもらえなかった。これまた、当時リトルウッドという有名な数学者がいたためである。居合わせた教授連が欧米人のみであったために、冗談と思われたのであるが、たまたま部屋へ入ってきた数学者陳省身に確認してもらい、ようやく信じてもらえたそうである。ヴァイオリンをたしなんだことでも知られている。

出典:wikipedia

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