カルロス・フアン・デルガド・エルナンデス(Carlos Juan Delgado Hernández, 1972年6月25日 - )は、プエルトリコ出身の元・野球選手(一塁手)。右投左打。10月9日に、トロント・ブルージェイズへ入団した。10月1日に、メジャーデビューを果たした。1年目は、わずか2試合の出場で1打数0安打に終わったが、チームがワールドシリーズを制覇したため、チャンピオンリングを手に入れている。は、開幕から本塁打を量産し、4月11日のアスレチックス戦でメジャー初の1試合2本塁打を放ち、4月19日の時点で両リーグ最多の8本塁打を記録した。しかし、その後本塁打を5月30日まで1本も打てずにいて、6月10日にマイナーへ降格し、その後メジャー昇格はなかった。は、37試合の出場に終わった。には、指名打者でスタメンに定着し、138試合に出場して打率.270・25本塁打・92打点を記録し、メジャーに定着した。から、ジョン・オルルドが退団したため本格的に一塁手に転向した。153試合に出場しチーム1位となる打率.262、30本塁打を記録し、球団新記録となる3本の満塁本塁打を記録している。は、打率.292、38本塁打、チーム最多の115打点を記録した。は、自己最高となる156安打・327塁打・83長打・44本塁打・134打点を記録し、初のシルバースラッガー賞を受賞した。134打点はジョージ・ベルが1987年に記録した球団記録に並び、44本塁打は左打者としての球団記録となった。は、全162試合に出場し、打率.344・41本塁打・137打点を記録した。のカール・ヤストレムスキー以来33年ぶりに「大リーグで3冠王が誕生するか?」と騒がれ、安定した打撃でチームの勝利に貢献。リーグ最多、球団新記録の57二塁打を記録し、長打率.664、378塁打、137打点は球団新記録となった。オフには、MVP候補に挙げられ、シーズン終盤の本拠地スカイドームではデルガドへの「MVPコール」が沸き起こり、MVP投票で4位だったが、ハンク・アーロン賞を受賞。シーズン終了後の10月20日に4年総額6,800万ドルで契約延長。年平均年俸はロジャー・クレメンスの1545万ドルを上回る1,700万ドルでメジャー史上最高額となった。も、全162試合に出場した。39本塁打、102打点を記録したが、打率.279と前年より6分5厘低下した。は、33本塁打、108打点、打率.277だった。は、3年ぶりに打率3割を上回る打率.302、リーグ2位の42本塁打、リーグ1位、球団新記録となる145打点を記録した。9月25日のタンパベイ・デビルレイズ戦では1回にスリーランを放ち、通算300本塁打を達成するとさらに4・6・8回にもソロ本塁打を打ち、大リーグ史上15人目となる1試合4本塁打を達成した。MVPの投票ではアレックス・ロドリゲスに次ぐ2位に入った。は、打率.269、32本塁打を記録し、99打点と7年ぶりに100打点を下回った。オフに、フリーエージェント(FA)となった。1月25日に、フロリダ・マーリンズ(現:マイアミ・マーリンズ)へ球団史上最高額となる4年総額5,200万ドルで移籍した。移籍1年目のこの年は、打率.301、ミゲル・カブレラに並ぶチーム最多タイの33本塁打、リーグ5位の115打点を記録し、フランク・ロビンソン、ディック・アレン、ブラディミール・ゲレーロに次ぐ史上4人目となる両リーグで3割・30本塁打・100打点を達成した。。2005年10月24日に、トレードでニューヨーク・メッツへ移籍した。開幕前の3月には、この年から開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のプエルトリコ代表の一員として出場した。移籍1年目の2006年は、ファンやマスコミのうるさい大都市での活躍が危惧されていたが、打率.265、38本塁打、114打点を記録し、チームはプエルトリカンのカルロス・ベルトラン、デビッド・ライトが100打点以上を記録し、18年ぶりに地区優勝した。8月22日に満塁本塁打で通算400本塁打を達成し、バリー・ボンズ(13年)、ジミー・フォックス(12年)、サミー・ソーサ(10年)の3人しか達成していない10年連続30本塁打を達成した。初のポストシーズンとなったデルガドは10試合で打率.351・4本塁打・11打点の好成績を残した。慈善活動にも熱心で、母国プエルトリコの恵まれない子供らを支援する基金を設立するなど、複数の福祉活動を行っており、10月24日にロベルト・クレメンテ賞を受賞した。マーリンズとの4年契約には移籍を要求できるようになっていたが、「残りの野球人生をメッツでまっとうしたい」として残留した。は、シーズン序盤の不振と、故障での戦線離脱が影響し、30本塁打到達を逃した。打率、打点、本塁打など1996年にメジャー定着後、最悪の成績となり、チームも終盤失速し地区優勝を逃した。も、開幕から不振で解雇を噂されるようになった。6月17日にウィリー・ランドルフ監督が解任され、ベンチコーチのジェリー・マニエルが監督となってからはチームメイトと積極的に会話を交わし、チーム内の架け橋的存在となった。前半戦は93試合で打率.248・17本塁打・52打点が、後半戦は66試合で打率・303・21本塁打・63打点を復調。地元ファンからは「MVP」コールを受けるようになった。しかし、チームはマーリンズとの最終戦で敗れ、プレーオフ進出を逃した。シーズン終了後の10月31日に球団は1,200万ドルのオプションを行使し、もメッツでプレイすることが決まった。2009年は開幕前の3月に、第2回WBCのプエルトリコ代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。シーズンでは5月10日に、臀部を痛めたため、故障者リスト入りした。そのまま、復帰する事は無かった。オフには、FAとなった。2月、臀部の手術をした。8月7日、ボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。3Aで5試合に出場したのみだった。4月13日に、痛めていた臀部の回復が思わしくないため、故郷のプエルトリコにて引退表明した。デルガドは「思うようなプレーができなくなってしまった。(時間の)流れに逆らうことはできない」と述べた。2月4日に、マット・ステアーズ、コーリー・コスキー、フェリペ・アルー、ボブ・エリオットと共にカナダ野球殿堂に入った。守備面では大きな穴ではないがあまり得意なほうとは言えない。
出典:wikipedia
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