スロバキア共和国(スロバキアきょうわこく、)、通称スロバキアは、中央ヨーロッパの共和制国家。首都はブラチスラヴァ。北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接する。古代には(623年-658年)・モラヴィア王国として独立を保った期間もあったが、この地のスラブ人は1000年間少数民族としてハンガリー王国の支配下にあって、ハンガリーにとっても歴史的に重要な地域であり、多くのハンガリー人の出身地、ハンガリー貴族の発祥地でもある(元来スラブ系で、ハンガリー文化に同化した者も多い)。第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国からチェコと合併するかたちで独立し、その後、1989年のビロード革命による共産党政権崩壊を経て、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立し現在に至る。正式名称は 。通称 Slovensko (スロヴェンスコ)。日本語の表記はスロバキア共和国。通称スロバキア。スロバキアの語源はスラヴ (Slav) であり、これはスロベニアと同じである。そのため似たような国名になっている。スキタイ・トラキア人のルサチア文化やハルシュタット文化が栄えていたが、鉄器時代末期にケルト人(・ボイイ族)の侵略によって崩壊し、に転換した。1世紀ごろゲルマン人、ダキア人が侵略し、ローマ帝国の拡大でプコフ文化が消滅した。マルコマンニ戦争のパンノニア遠征(168年-169年)。2世紀および3世紀にフン族が、5~6世紀ごろにゲルマン人(東ゴート人、ランゴバルド人、ゲピド人、ヘルール人)がパンノニア平原に移住して来た。568年にはアヴァール人が占領し、アヴァール可汗国を樹立。623年、スラブ人の反乱が成功して(623年-658年)が樹立された。9世紀に現在のスロバキア、モラヴィア、ボヘミア、シレジア地方に大モラヴィア王国が成立。スロバキアでは大モラヴィア王国がスロバキア人による王国であると主張する者もいるが、歴史学的には証明できる事実ではない。又この地域のスラブ人が現在のように簡単にチェコ人、スロバキア人などと言うように分類できない面があった。10世紀になるとマジャル人の侵入を受け、ハンガリー王国が成立すると、この地域は北部ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの一地域として扱われるようになる。ただしハンガリーに比べてスラヴ人の多い地域であった。更にオスマン帝国がハンガリーに侵入すると、王領ハンガリーの一部としてオーストリア大公国の支配を受けるようになり、ブラチスラヴァ(ポジョニー)にハンガリー王国の首都が移され、ハンガリーにとっても北部ハンガリーは重要な地域と見なされるようになった。この首都移転は北部ハンガリーの人口バランスを狂わせるもので、増加したマジャル人に対して北部ハンガリーのスラヴ人の反感は高まった。19世紀の中ごろに民族主義の流れによって周辺のスラヴ人が、それぞれクロアチア人(「クロアチアのスラヴ人」から)、ボヘミア人(「ボヘミアのスラヴ人」から)と呼び名を変えて行く中で、北部ハンガリーでは自らの地域・北部ハンガリー地域のスラブ語に転化したスロバキアと名づけ、自らをスロバキア人、自分達が話す言語をスロバキア語であると主張するようになった。またこの頃、勢力の大きいマジャル人に対して、チェコ人(チェック人)とスロバキア人の連合が主張され始めるようになった。オーストリア・ハンガリー二重帝国体制下においてはチェコ、スロバキアは共に連邦国家構想を支持していたが第一次世界大戦の終了と共にオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。1918年、独立運動の指導者トマーシュ・マサリクは、チェコスロバキアは民族自決の対象となる単一のチェコスロバキア人国家として独立を宣言した。更にハンガリーに侵入して北部ハンガリーのほとんどの地域をハンガリーから収奪した。これが現在のスロバキア国家の基本的な領土となっている。しかしこの行動はハンガリー等で領土回復運動が高まるきっかけとなった。スロバキア国民議会で1992年に採択され、翌年1月の連邦制解消とともに発効した新憲法は、スロバキアを議会制民主主義国家と規定している。国家元首は任期5年の大統領で、現在アンドレイ・キスカが務める。当初は議会により選出されていたが、1999年に直接選挙による選出となった。立法府であるスロバキア共和国国民議会は任期4年、定数150の一院制。首相は国民議会の獲得議席数が最も多い政党から大統領が指名し、与党が議席の過半数を占めることができない場合は、改めて次点の政党から指名する。2010年国民議会選挙では、中道左派政党のスメル(方向)・社会民主主義(SMER-SD)が議席数を伸ばして第一党の座を維持した一方、連立を組んでいた民族主義政党のスロバキア国民党(SNS)やポピュリスト政党の人民党・民主スロバキア運動(ĽS-HZDS)が惨敗しロベルト・フィツォ連立政権が崩壊。SMER-SD党首のフィツォは選挙後ガシュパロヴィッチ大統領から最初に首相指名を受けたものの、過半数を占める連立政権を組むことができなかったため、第二党で中道右派政党のスロバキア民主キリスト教連合・民主党(SDKÚ-DS)選挙対策本部長を務めたラジチョヴァーが代わって首相指名を受け、中道右派の自由と連帯(SaS)、キリスト教民主運動(KDH)およびハンガリー人政党のモスト(橋、MOST-HÍD)による連立政権が発足した。2011年11月の欧州金融安定ファシリティ機能拡充条約批准にSMER-SDが協力した際の合意に基づき、2012年3月に繰り上げ総選挙が実施された。その結果、SMER-SDが単独で議席の過半数を獲得し、政権を奪回。SMER-SD党首のロベルト・フィツォが首相となった。スロバキアは連邦制解消後の1996年に大規模な地方行政区分の再編が行われ、現在は8つの県(Kraj)が設けられている。第二次世界大戦前のチェコスロバキア時代はkrajより上位のKrajina(州)区分があり、「スロバキア州」(krajina Slovenská)が設けられていた。戦後は6県、のち3県に再編されたあと、ブラチスラヴァ、西部スロバキア、中部スロバキア、東部スロバキアの4県体制が1990年まで続いた。県の下位には78のOkres(郡)および138のMesto(市)と、4つのVojenský obvod(軍区)を含む2883のObec(村)が設けられている。スロバキアの国土は東西400km、南北200kmという比較的小規模なものである。しかしながら、国土面積に比べて気候は変化に富んでいる。基調となっているのは大陸性気候である。首都ブラチスラヴァの位置する西部はケッペンの気候区分でいう西岸海洋性気候 (Cfb) 、中央部は温暖湿潤気候 (Cfa) 、東部は湿潤大陸性気候 (Dfb) である。ブラチスラヴァの平均気温は-0.7度(1月)、19.1度(7月)。年平均降水量は649mmである。高度が上がるほど雨量が増し、中央北部のタトラ山地では2000mmに達する。このような気候を受け、国土の1/3が森林であるほか、ステップ性の草原も残っている。工業国のチェコに比べ、スロバキアは昔から農業国だったが、最近ではフランスのPSA・プジョーシトロエンや韓国の起亜自動車が工場を設立している。2009年1月1日に通貨をスロバキア・コルナからユーロに切り替えた。スロバキアはマグネシウムを中心とした無機鉱物資源に恵まれている。マグネシウムの産出量は2002年時点で世界第7位、シェア4.5%の50万トン。鉄鉱、金鉱も採掘されている。有機鉱物資源は342万トンの亜炭・褐炭が中心である。ただし、原油の産出量は4.6万トンに留まる。2001年の国勢調査による民族構成は、スロバキア人が85.8%、マジャル人が9.7%、ロマが1.7%、チェック人が0.8%である。この他に、チェック人ではなくモラヴィア人、シレジア人としてのメンタリティーを持っているもの、ルテニア人・ウクライナ人、ドイツ人、ポーランド人、クロアチア人がいるがその総数はおよそ2%である。現代のスロバキアは比較的均一性の高い国民国家としての性格を有している。ただし現在のような民族構成になったのは第二次世界大戦以降である。スロバキアは歴史的経緯から、マジャール人、ドイツ人(ドイツ植民)、ルテニア人(ハンガリー王国に流れ込んだウクライナ人)、ロマ(ジプシー)も多く、入り組んで住んでいた。さらにはユダヤ人のコミュニティも多かった。スロバキアのすべての町村にスロバキア語以外にハンガリー語の名称があり、また多くの都市がドイツ語名を持っているのはこのためである。マジャール人が多いのは、かつてスロバキアが北部ハンガリーとしてハンガリー王国の領域に完全に組み込まれていたためである。スロバキア人は元来山岳民族であり、特にハンガリー平原に連続する南部平地部の住民はほとんど全てハンガリー系住民であった。またドイツ人については、その移住の時期・理由(植民、鉱山労働、宗教的迫害など)は様々である。1919年のサン=ジェルマン条約でオーストリア・ハンガリー帝国が、1920年のトリアノン条約でハンガリー王国の解体が行われ(この解体に反対するものも多かった : →ドナウ連邦構想)、汎スラヴ主義に荷担したスロバキア人はかつての「ハンガリー王国による圧政」への報復として、ハンガリー人・ドイツ人の居住地を大きく抉り取り、チェコと合併した形で独立を果たした。この過程でマジャール人とドイツ人の一部がスロバキアから追い出されている。以降マジャール人に関してはその後も一定数を占め、現在でもスロバキアにおいて最も大きいマイノリティー集団となっている。ドイツ人については最終的に第二次大戦後にそのほとんどが強制的に追放された。ユダヤ人については他の中東欧諸国と同じように、第二次大戦を境にしてコミュニティのほぼ全てが消滅した。言語はスロバキア語が公用語である。また、一部でハンガリー語も使われている。英語は通じないことが多い。2004年の調査によるとカトリックが最も多く60.3%を占める。次いで宗教的メンタリティを持たないものが9.7%、プロテスタントが8.4%、ギリシャ・カトリックが4.1%、東方正教会が4.1%等である。スロバキア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、さらにウクライナにまたがって1件の自然遺産が、ハンガリーにまたがって1件の自然遺産が存在する。国家祝休日および記念日法(スロバキア共和国国民議会1993年法律第241号)に定める国家の祝日(Štátne sviatky)、国民の休日(Dni pracovného pokoja)は次の通り。国家祝休日および記念日法に定める記念日(Pamätné dni)は次の通り。平日扱いとなる。サッカーが国民的スポーツでありフォルトゥナ・リーガを頂点としたリーグがある。カヌー競技の強豪として知られており、国際大会で主流の人工コースなど練習環境が充実している。そのため羽根田卓也のように自国から練習拠点を移す選手も多い。この他にもスキーなどのウィンタースポーツが盛んである。
出典:wikipedia
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