LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

阪鶴鉄道

阪鶴鉄道(はんかくてつどう)は、大阪から福知山を経て舞鶴を結んでいた鉄道路線、およびその路線を運行していた鉄道会社である。尼ヶ崎(のちの尼崎港)-池田(現在の川西池田)間で営業していた摂津鉄道に出資していた小西業茂(小西新右衛門)らが大阪財界人と結んで、軍港を擁し日本海側の主要都市の一つであった舞鶴と大阪を結ぶ鉄道を計画。1893年(明治26年)8月に大阪-神崎-池田-三田-福知山-舞鶴間の鉄道敷設を出願。12月には福知山-和田山-八鹿間の支線敷設も出願した。1895年(明治28年)、正式に会社組織として設立、本社は大阪市北区曾根崎に置かれた。しかし同じく舞鶴への鉄道敷設を競っていた京都鉄道に京都-綾部-舞鶴間の認可が下りたため、阪鶴鉄道には福知山-舞鶴間の認可は下りなかった。また、神崎(現JR尼崎)-大阪間も、官鉄線と並行しているという理由で認可が下りなかった。その結果、認可を得たのは神崎-福知山間だけであった。1897年(明治30年)2月に摂津鉄道を合併し、12月に池田-宝塚間が開業。1898年(明治31年)6月に塚口-官鉄線神崎間が開業し、9月に官鉄線に乗り入れて大阪まで直通運行。1899年(明治32年)には宝塚以北が1月に三田、3月に篠山(現在の篠山口駅)、5月に柏原と順次延伸され7月に福知山南口(のちに廃止)まで開通した。この頃本社を伊丹町(現伊丹市)、次いで登記上の本社を川西市寺畑村8番地の1に移転。ところが阪鶴鉄道が接続するはずの京都鉄道は建設が難航し、福知山-舞鶴間が開業していなかった。このため阪鶴鉄道は1899年(明治32年)12月に改めて福知山-八田-舞鶴および宮津間の鉄道敷設を申請したが、却下された。このため阪鶴鉄道は宮津まで由良川による舟運を計画する。1901年(明治34年)12月(諸説あり)に福知山南駅より人力車を使い蛇ヶ端乗船場までいきそこから川船で河守までさらに由良までは由良汽船を設立し第一由良川丸と第二由良川丸を建造し輸送。舞鶴方面は途中藤津から宮津方面は由良よりそれぞれ人力車で連絡した。1902年(明治35年)4月に京都鉄道の免許は取消となり官設鉄道が敷設することとなり1904年(明治37年)11月に新舞鶴-福知山間が開通すると、あわせて阪鶴鉄道も福知山南口-福知山間を開通させ、官鉄線福知山-新舞鶴間を借り受けついに大阪-舞鶴間の直通運行が実現した。そして丹波・若狭地方との連絡のため舞鶴より宮津、境、小浜などへの連絡船の運営を開始した。なお、神崎-大阪間の将来の輸送量の増加を考え、支線として池田-大阪間の鉄道敷設免許を受けた。1907年(明治40年)8月1日に、鉄道国有法により帝国鉄道庁に尼ヶ崎-福知山間の営業を譲渡し国有となりJR福知山線の原型となった。また、池田-大阪間の鉄道敷設免許は国有化直前に失効したが、計画は阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道に継承され、阪急宝塚本線の原型となった。東京都品川区の東品川公園には、アメリカのピッツバーグ・ロコモーティブ・アンド・カー・ワークス社から輸入され、阪鶴鉄道12、13として使われていた機関車が保存されている。国有鉄道に引継がれた車両は機関車17両、客車44両、貨車265両である木製2軸車木製ボギー車製造所は池田は阪鶴鉄道会社池田工場、福岡は大阪福岡工場、日車は日本車輌製造リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上 下巻』『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年)

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。