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石川貞清

石川 貞清(いしかわ さだきよ)は、安土桃山時代の武将、大名。犬山城主。江戸時代前期の茶人、旗本。初名は光吉、あるは三吉ともいった。晩年は剃髪して石川宗林を称した。美濃国の出身。出自はよく分からないが、石川一光の一族という。弟に貞信(宗巴)。『正法山誌』では、父を石川光重(伊賀守)とし、頼明を弟とする異説を載せている。光重とその兄光政については父を石川光信(光延)とするものもあり、同説では光政・光重・功沢宗勲を3兄弟とするが、別説に光政・光重・一光・頼明が4兄弟で、父は石川家光とするものがある。彼らの先祖である鏡島城主石川光清の子と孫の代の系図に混乱があるため、判然としない部分がある。貞清は豊臣秀吉に使番として仕え、金切裂指物使番に列せられた。天正18年(1590年)の小田原の役、7月に北条氏政・氏照兄弟が切腹した際、貞清と榊原康政が検使役を務めた。この功で、尾張犬山城1万2千石を与えられ、同時に、信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官も務めた。(代官領地と併せて12万石)天正19年(1591年)11月、秀吉の三河吉良での狩猟に随行。翌年の文禄の役の拠点となる肥前国名護屋城の普請工事を分担した。戦役では秀吉の在陣中は、留守番衆の1つとして同城に駐屯した。文禄4年(1595年)正月、秀吉の草津湯治では、逗留中の居館の建築と警固にあたる。慶長4年(1599年)、徳川家康より美濃金山城の天守櫓と家臣長屋の古材を譲り受けて、犬山城を改修した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて西軍に与し、家康からの降誘を拒否して、居城の犬山城に稲葉貞通・典通父子、稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らと籠城した。しかし東軍の中村一忠・一栄に攻められると、加勢の西軍将達は極秘に東軍の井伊直政に密書を送り、内応を約定して引き上げようとした。貞清も関一政に説得されて城を棄てて、西軍本隊に合流。本戦では、宇喜多隊の右翼、口北野付近に陣して奮戦した。敗戦後、貞清は北山龍安寺に避難し、親族が住持を務める妙心寺に頼み、それを介して同じく妙心寺と所縁の深い東軍・池田輝政と渡りを付けて、大坂に入って池田の陣に投降した。改易されて所領を没収の上で、死罪を申し渡されるところだったが、犬山籠城中に東軍に加担した木曽郷士らの人質を解放したことが評価されたのと、池田輝政の働きかけにより、黄金千枚で助命された。京で隠棲し、剃髪して宗林と号し、茶人・商人(金融業)として余生を過ごしたが、慶長18年(1613年)12月5日、幕府に扶持米500石を給されて召抱えられたと『徳川除封録』にある。このため最晩年は幕府家人であった。寛永3年(1626年)に死去。子孫は商人となった。美濃石川氏は京都妙心寺に関わりが深く、宗林(貞清)は妙心寺の東北部の塔頭、大雄院・桂春院・韶陽院等の造営に際して土地を寄進している。このため、妙心寺より正月11日に石川家に年賀の挨拶状を送ることが通例だったという。貞清の妻は前述のとおり、石田三成の娘か大谷吉継の妹であり、仮に前者ならば一族の頼明の妻と石田三成の妻は姉妹であり、そして一説に真田昌幸の妻・山手殿も姉妹となる。山手殿の出自が異なる場合も昌幸の娘が三成の一族の宇田頼次に嫁いでいるので、貞清は真田信繁と親戚となる。後者ならば、貞清の妻は、信繁(幸村)の正室(大谷吉継の娘あるいは養女)竹林院の叔母にあたる。よっていずれの場合も親類であった。同じく前述のように、信繁の七女・おかねは貞清の妻、または長男・重正の妻(貞清からは嫁)とされているが、これも親族内での結婚であった。時期から考えて、小和田哲男は貞清と信繁の娘と結婚は「すでに大名時代の石川貞清ではなく、金融業を営み、茶人となった宗林の妻としてであろう」としているが、貞清は、義母・竹林院(おかねの母)を京に引き取って、大坂の陣で信繁が戦死した後も一緒に暮らして援助したと伝えられる。後年、貞清は大檀那であった京都市右京区竜安寺塔頭大珠院に、信繁夫妻の墓と五輪塔を建てさせてその一族を供養した。

出典:wikipedia

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