松岡 健一(まつおか けんいち、1982年6月7日 - )は、東京ヤクルトスワローズに在籍するプロ野球選手(投手)である。熊本県玉名市出身。東海大二高時代から、140km/hのストレートで注目を集める。高校卒業後は九州東海大学(現在は東海大学に統合)に進学し、大学4年生になって、自己最速の148km/hのストレートで再び注目を集めると、フォームの安定感などが買われて自由枠候補に名前があがるようになる。広島東洋カープとの争奪戦の末、東京ヤクルトスワローズが自由枠で指名し、入団が決まった。にプロ初勝利を挙げたものの、一軍と二軍を行き来する時期が続き、シーズン途中にセットアッパーに定着した。同年のシーズンは、回をまたぐ複数回のロングリリーフも苦にせず、磐石の中継ぎ陣の一角を担った。同じく中継ぎの押本健彦と五十嵐亮太、そして抑えの林昌勇らと共に、試合終盤は松岡、押本もしくは五十嵐、林昌勇というリレーが勝利の方程式として確立された。最終的に自己最多の65試合に登板し、防御率1.39の好成績で、リーグ2位となる29ホールドを挙げている。も、前年同様セットアッパーを任される。松岡、五十嵐、林昌勇という勝利の方程式を形成し、前半戦に首位争いを繰り広げたチームの原動力ともなった。しかし、8月頃から徐々に調子を落とし、林昌勇の離脱により抑えを任された9月4日の巨人戦では、9回二死から小笠原道大に東京ドームの天井にあたる同点適時打を浴びている。8月27日から9月17日までに登板した6試合全てで失点し、防御率を2点上げる乱調を経験。うち4試合で敗戦投手となり、9月18日に二軍降格となった。その後、10月に再昇格し、シーズン最終戦の中日戦で2回を無失点に抑えて勝ち投手となった。最終的に6勝4敗17ホールド、防御率4.72だった。オフに右ひじの遊離軟骨を除去する手術を受けた。1月3日、元OLと結婚。前年に続き、開幕1軍入りを果たす。増渕、松岡、林昌勇という勝利の方程式を形成し、防御率1点台前半という好成績で前半を終える。8月にチームが10連勝を記録した際は、10試合中8試合に登板しわずか1失点に抑えるなど、チームの10連勝に大きく貢献した。8月下旬からシーズン終盤にかけて調子を落とし防御率を悪化させたが、最終的にはチーム最多登板記録を更新する73試合に登板し、3勝4敗、セリーグ2位の34ホールド、防御率2.64という好成績を残し、後半戦のヤクルトの快進撃の立役者の1人となった。も、セットアッパーとして中継ぎ陣を支え、押本ともに5連投する場面なども見られた。最終的には63登板で、防御率2.86、23ホールドと例年通りの活躍を見せた。特にWHIPは、1を下回るなど安定感があるシーズンであった。序盤の4月13日に右足内もも痛で離脱。1軍復帰は10月1日と、シーズンを棒に振る結果となってしまった。それでも7試合に登板して失点0と、来期に復活を期待させる成績を残した。開幕から中継ぎとして起用されるも、6試合中4試合で失点するなど不安定な投球が続いた。折りしも館山昌平の離脱などにより先発陣が手薄となったこともあって、4月29日のDeNA戦で7年振りとなる先発登板を果たし、6回1失点で勝利投手となった。その後中継ぎに戻るものの精彩を欠いたことからしばしば先発を任されるようになり、10月2日の巨人戦では自身初の完封勝利を挙げた。リリーフとしては結果を残せなかったが、先発としての可能性が見えた(7試合で3勝、防御率3.68)シーズンとなった。5月18日の中日ドラゴンズ戦で先発登板し、8回を3失点に抑えて1勝目を挙げる。その後はチーム事情からリリーフに戻ったが、前年同様痛打を浴びる場面が多かった。平均球速約142km/h、最速152km/hのストレートとフォークボール、カーブ、スライダー、カットボール、シュートを投じる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。