天目山(てんもくざん)は、山梨県甲州市大和町木賊及び同大和町田野にある峠。元は木賊山(とくさやま)と呼ばれていたが、後に山中に棲雲寺が創建されると、その山号から改称された。元は山中にあった木賊村より「木賊山」と称されてきた。南北朝時代の貞和4年/正平3年(1348年)、臨済宗の禅僧・業海本浄が木賊山を訪れた際にこの山がかつて元に留学した際に見た禅宗の名刹・天目山を髣髴させるとしてこの地に天目山護国禅寺を創建した。この寺が後の棲雲寺である。このため、いつしか元の木賊山よりも寺の山号である「天目山」の名称で知られるようになったという。この地は甲斐武田氏滅亡の地と位置付けられている。だが、同氏がこの山で2度滅亡したという事実は余り知られていない。応永24年(1417年)、室町幕府に追われた武田氏第13代当主武田信満が山中の木賊村で自害して甲斐武田氏は一時断絶する。そして後に再興された甲斐武田氏も165年後の天正10年(1582年)、織田政権に追われた武田氏第20代当主武田勝頼が山麓の田野村で自害して甲斐武田氏は滅亡したのである。ただし、前者の滅亡を伝えた『鎌倉大草紙』は「木賊山」、後者の滅亡を伝えた『甲斐国志』や『信長公記』は「天目山」という名称で伝えているが、二つの山が実は同一である。なお、信満が死んだ木賊の南側に隣接した麓に勝頼が死んだ田野が存在している。応永24年2月6日(1417年2月22日)、室町幕府将軍足利義持の命令を受けた上杉憲宗の侵攻に加え守護代の逸見有直の謀叛にあった甲斐守護武田信満はこの地に追い詰められて山中で自害したという。信満は前年に鎌倉府に対して反乱を起こした上杉禅秀の縁戚であり、この反乱軍に加担して鎌倉公方足利持氏や上杉房方・今川範政らと戦って敗北して逃げ帰ったところ、武田氏の庶流で代々守護代を務めていた逸見有直が次期甲斐守護職と引換に持氏側に内応した。それを受けて上杉憲宗が討伐したものであったと『鎌倉大草紙』に伝えられている。棲雲寺には信満の宝篋印塔やともに自害した家臣達の五輪塔が存在している。なお、足利持氏は約束通り逸見有直を守護にしようとしたが、将軍・足利義持はこれを許さず、甲斐の管轄権を鎌倉府から取り上げて乱の時に京都にいたために捕らえられて出家させられた信満の嫡男道成を還俗させて次期守護にするように命じた。道成は武田信重と名乗って義持の命を受けた小笠原政康の支援で甲斐に帰国するものの、既に逸見氏が守護を自称してこれを排除し、以後甲斐は100年近くにわたる内紛の時代を迎えることになる。天正10年3月11日(1582年4月3日)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に加え家臣の小山田信茂の謀反にあった甲斐国主武田勝頼が落ち延びる際に目指し、その後に妻子と共に果てたと『甲斐国志』や『信長公記』に伝えられている。武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川家康は、領民懐柔政策の一環として麓に勝頼主従の菩提を弔うため景徳院を建立している。付近には武田氏関係の史跡が点在し、景徳院の境内の勝頼親子3人の墓の近くには、勝頼の妻の辞世の句が刻まれた石碑が立っている。(現代語訳:黒髪が乱れるように、世も乱れきっていて、いま主人を思う私の心も、露のように流れ落ちて消えようとしています。)江戸時代前期に後陽成天皇の八宮であった知恩院門跡良純入道親王が、江戸幕府の不興を買って天目山に配流されている。
出典:wikipedia
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