『楊家将演義』(ようかしょうえんぎ )は、北宋の楊一族の活躍と悲劇を描いた中国明代の古典文学。単に『楊家将』()とも呼ばれる。中国の河北省など北方地域には、楊一族にまつわる伝説が民間故事として多数伝わっている。中国では京劇やテレビドラマで定番となっており、老人から子供まで幅広く知られている。日本ではあまり知られていなかったが、1990年代にNHK BS-2でテレビドラマ『三国演義』や『則天武后』が放送された時期に、1991年のテレビドラマ『』が放送されたことがある。田中芳樹が「中国歴史ロマンシリーズ」の3作目として1997年頃に徳間書店から日本語訳を刊行する予定を立てていたが、現在(2013年9月)でも出版されていない。また、北方謙三が小説『楊家将』を執筆したが、これは訳書でなく、内容的にはほぼ北方のオリジナルになっている。しかし、ウェブ上で有志の翻訳などが掲示されており、日本語で読めないわけでもない。"外部リンク参照"。2015年6月に岡崎由美・松浦智子共訳で『完訳 楊家将演義(上巻・下巻)』(勉誠出版)が刊行。初の日本語訳となる。岡崎・松浦編『楊家将演義 読本』(勉誠出版)も同時刊行。物語は、宋が北漢を攻めるところから始まる。このとき、北漢の武将であった何継業(楊業)・佘賽花らは太祖(趙匡胤)らをさんざん苦戦させる。しかし、結局は北漢は宋に敗北する。何継業も宋に降るが、このとき太宗により「楊」の姓を賜るとともに、英武帝・劉継元とつながる「継」の字を削除し、以後は「楊業」と名乗ることになる。北漢の武将として宋将をさんざ苦しめたことがのちのちまで尾を引くことになり、楊家軍はいまひとつ宋将らの信頼を得ることができない。ことに潘仁美などは佘賽花に矢傷を負わさせられたことで、楊家軍を恨み、たびたび対立する。宋に降った後、楊業は息子らとともに遼と戦うことになる。激戦の末、息子の大郎、二郎、三郎は戦死、四郎は遼の捕虜となり、五郎は行方不明になる。それでも楊業は戦い続けるが、楊家軍を恨む宋将・潘仁美らの姦計により、勝算のない死地に追い込まれる。そして、援軍を求めてきた七郎は潘仁美により殺害される。ついに力尽きた楊業は自決し、楊家軍も敗北する。楊業の死により、生き残った六郎・延昭が楊家軍の当主となる。この楊延昭を当主として遼と戦う部分が、『楊家将演義』の4分の3ほどを占めており、京劇などで取り上げられる場面にもこの部分のストーリーが多く、面白い話が多い。当主となった六郎は楊業の最期を知り、呼延賛の勧めもあって朝廷に潘仁美の裏切りを訴えることにする。しかし、太宗の寵姫に潘仁美の娘がいたので、朝廷は処罰を見送った。そこで、六郎は楊家軍に協力的な八王・趙徳芳らと潘仁美を殺害する。その後、太宗に死期が近づくと八王と七王・趙恒との間で後継者をめぐるいざこざがあったが、八王が辞退したことで七王が即位、真宗皇帝となる。太宗の崩御を知った遼は、再び宋との間の戦闘を開始する。しぶっていた六郎も母親に叱咤され、妹の八娘、九妹を率いて出陣する。見事に遼を撃退した六郎は、佳山の(明・清代の役職なので、宋代に存在するはずがないのだが)巡撫に任命される。任地に向かう途中、岳勝・孟良・焦賛らの山賊を配下に入れ、楊家軍はその戦力を増強する。孟良が単身で遼に乗り込み、楊業の遺骨と遼の蕭后の名馬を盗んで帰ってくると、再び宋と遼との戦争が始まる。今は僧となっていた五郎や孟良、焦賛、妹たちの活躍もあって、再び六郎ら楊家軍は大勝を収める。しかし、戦争ではかなわない遼は、宋に派遣しておいたスパイである王欽を通じ、政治的に楊家軍の抹殺をたくらむ。はたして、王欽は佞臣に働きかけ、無佞府(楊家軍の基地)の取り壊しを奏上させる。これに怒り狂った楊家軍の焦賛は、無佞府の取り壊しをたくらんだ佞臣の一族を皆殺しにする。当然、焦賛のみならず六郎にも罪は及び、王欽の讒言もあって六郎に死刑が宣告される。なんとか八王・呼延賛らによって命を救われた六郎は、自身は死んだことにして無佞府に引きこもる。岳勝、孟良はもともと楊家軍の私兵のようなものだったので、六郎の死を聞くと山賊になり、流罪に処せられていた焦賛も脱走した。思惑通り、六郎の抹殺に成功したと聞いた遼は、再度進軍を開始する。これに対し、楊家軍がいない宋は散々に打ち破られる。ついに、六郎は八王の救援依頼を受けると、かつての部下である丘勝、孟良、焦賛らと合流し、またも遼を打ち破り凱旋する。再び宋と遼との戦争が始まるのであるが、ここからは八仙である呂洞賓が遼に、漢鐘離が宋に就いて徐々に荒唐無稽な展開になってゆく。呂洞賓の敷いた七十二座天門陣がどうしても破れない。ここで五郎が言うには、陣を破るには「降竜木」で作った斧が必要だというので、六郎の息子、楊宗保は、「降竜木」を求めて木閣塞に向かう。しかし、宗保は木閣塞で山賊の娘・穆桂英と戦闘になり敗北してしまう。宗保を打ち破った穆桂英は、宗保を気に入り、「私と結婚するなら助けてやる」と脅迫し、宗保はこれを承諾する。宗保の父である六郎はこれを聞いて怒り狂うが、やはり穆桂英に敗北し、しぶしぶ結婚を認める。こうして、穆桂英の加入により戦力を増した楊家軍は反撃に移り、七十二座天門陣を撃破する。その後、外からは楊家軍が、内部からは長年捕虜となっており、「木易」という偽名を使って蕭后の娘となっていた四郎が撹乱し、ついに蕭后は自決して果てる。王欽も処罰をうけ、一応の大団円を迎える。しかし遼を倒した後、孟良・焦賛が相次いで不幸な死に方をし、これを聞いた六郎は失意のあまり病に罹り死亡する。また、楊家軍に好意的だった八王も風邪をこじらせ死亡する。史実ではこの時期、宋は澶淵の盟という屈辱的な講和条件を飲まされており、まったく史実に反する展開になっている。遼との戦いから数十年が経過し、いまや楊家軍の当主となった楊宗保も既に白髪の老人となっている。その頃、南蛮で儂智高が反乱を起こし、狄青が派遣されるが敗れて帰ってくる。そこで、宋は楊家軍の楊宗保とその息子・楊文広を南蛮征伐に派遣する。最初は順調であったが、思いのほか楊家軍は苦戦すると、包拯の進言で楊家の女将軍が援軍に駆けつける。こうしてやってきた文広の姉、宣娘の仙術の活躍もあって、ついに楊家軍は南蛮平定に成功する。史実においては儂智高のおこした反乱は狄青により平定されている。なお、『楊家将演義』において、のちのちも狄青は楊家軍に敵対する役割を与えられている。ある日、仁宗が東岳に送った使者が女山賊・杜月英らに襲われ、貢物が奪われるという事件がおきた。これに対して楊家軍が派遣されるが、途中で楊文広は杜月英の義妹である竇錦姑と戦って敗北、竇錦姑に「私と結婚しなければ殺す」と脅迫され、これを承諾する。さらに、文広は竇錦姑より10倍強いと言われる杜月英のとも結婚させられてしまう。だが、山賊が貢物を返したので一応の一件落着ということで、文広は貢物を納めに東岳に向かう。その後、文広は燕家荘で鮑飛雲とその父親の妨害を受け、武術では負けなかったものの逃げる鮑飛雲を追いかける途中に落馬して、捕虜になってしまう。これまた、同じようなパターンで文広は鮑飛雲とも結婚する。帰還後、文広は父の宗保が病で死亡したので、跡を継ぎ楊家軍の当主となる。もともと、文広は仁宗の娘と婚約していたのに、「何時の間にか三人もの娘と結婚しているのはどういうことか」と問題になるが、魏化らが事情を説明することで場を収める。しかし、狄青らの度重なる讒言に嫌気が差した文広は、友人の魏化とともに鶴に変身して宮廷を去る。この辺りは史実はどうという検証をするのが馬鹿馬鹿しいほど荒唐無稽な展開になり、また敵味方ともに妖術の使用が目立つ。イメージ的に『水滸伝』の終盤に近いと思われる。神宗皇帝の治世、宮廷を去ったと見せかけて、文広は40年も無佞府で引きこもりの生活を送っていた。その頃、西夏・新羅の王である李高材が謀反を起こした。敵将に身長が2丈(この時代の単位でも約4.5メートル)、8本の腕を持つという張奉国、通称を八臂鬼王が強すぎて宋将は歯が立たない。そこで、楊文広とその息子たちが戦いに向かう。八臂鬼王の強さは規格外で、文広の息子、公正や懐玉もかなわない。文広も分身の術などを使い戦うが、それでも八臂鬼王を打ち負かすことはできない。ついに、楊家軍から楊宣娘(文広の姉)、満洞春(文広と杜月英の娘)その他12人の寡婦が援軍に駆けつけた。宣娘は文広を救い出すと八臂鬼王を打ち負かし、李高材とともに処刑する。凱旋した楊家軍は、これまた繰り返されたパターンであるが、楊家軍を妬む佞臣の讒言に辟易させられる。文広自身はそれでも宋に忠誠心を持っていたが、息子の懐玉らは既に宋自体に対し、嫌気が差していた。そこで懐玉らは佞臣の代表格である張茂の一族を皆殺しにすると、太行山に引きこもり、以後は二度と宋に力を貸さないと宣言する。これは、あくまで叛意のない老齢の文広には秘密裏に行い、振動の少ない車で運ばされた文広は、ついに自分が太行山にいるとは知らずに天寿を全うする。
出典:wikipedia
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