本圀寺(ほんこくじ)は、京都府京都市山科区にある、日蓮宗の大本山(霊跡寺院)であり六条門流の祖山である。山号は大光山。本寺は、日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まると伝える。1345年(貞和元年)に日静が光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。「東の祖山」久遠寺に対し、京都に栄えた本圀寺は「西の祖山」と呼ばれている。その後、本末解体による六百旧末寺の離散や多数の訴訟と借財により、本圀寺は荒廃して六条堀川での創建の地を売却して山科に移転した。68世貫首久村日鑒上人の発案で、金色の鯱や龍、仁王像に大梵鐘、その他金色ずくめの装飾を施した寺院となったが、104世晋山後、旧に復されている。旧塔頭は現在も六条の旧地に十六院残っている(松林院、瑞雲院、一音院、詮量院、了円院、勧持院(京都市)、松陽院、林昌院、本妙院、智妙院、本實院、真如院、了光院、智了院、智光院、久成院)。六条の旧地にある本圀寺墓地は現在、旧地にある塔頭寺院が管理している。最近、旧末寺寺院、縁故四法縁(莚師法縁、奠師法縁、親師法縁、達師法縁)の中に六条に本圀寺を復興させようとする動きがある。復興の暁には山科は奥之院となる。現住は104世伊藤日慈貫首(札幌市本龍寺より晋山、莚師法縁)。寺伝によれば1253年(建長5年)日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が本国寺(後の本圀寺)の起源と伝える。なお、松葉ヶ谷の草庵(法華堂)の所在地については複数の説がある。日蓮が伊豆国(現伊東市)への配流(伊豆法難)から戻った後、1263年(弘長3年)に法華堂は再興され、本国土妙寺と改称された。寺では日蓮を高祖、弟子の日朗を二祖と位置づけている。本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは1345年(貞和元年)のことである。同年、4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。寺地は北は六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めた。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けた。応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている。1536年(天文5年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼失し、堺の成就寺に避難した。1542年(天文11年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は1547年(天文16年)、六条堀川の旧地に再建された。1568年(永禄11年)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌1569年(永禄12年)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件(本圀寺の変)が発生した。本国寺はなんとか損傷を免れたものの、信長は本国寺を解体して二条城建築に用いることを決める。本国寺は取り壊され、それぞれの建築物は二条城に運ばれて再組み立てされたという。1585年(天正13年)、豊臣秀吉により山城国菱川村(現京都市伏見区)に朱印地177石が与えられた。1591年(天正19年)、日重により求法檀林(学問所)が開檀される。同年、豊臣秀吉の命により西本願寺造立のため、寺地のうち二町を割譲した。1615年(元和5年)、徳川家康は本国寺の寺領を安堵。徳川光圀は当寺にて生母の追善供養を行い、1685年(貞享2年)、光圀から圀の一字を下され、本圀寺と改称した。1711年(正徳元年)には徳川家宣の襲封祝賀のため来日した朝鮮通信使の宿舎となっている。1788年(天明8年)の天明の大火では経蔵(現存)を除く伽藍が焼失した。1863年(文久3年)には本圀寺事件が起きた。また、同年、水戸藩主徳川慶篤に率いられた尊攘派志士が、本圀寺に駐屯して皇室の守衛や慶喜の補佐にあたり、本圀寺勢と呼ばれた。1872年(明治5年)、学制発布により、求法檀林は廃檀した。1921年(大正10年)、本圀寺は明徳女学校を設立。同校は京都市西京区に移転し、京都明徳高等学校となっている。1969年(昭和44年)、宗門特選で札幌の本龍寺伊藤日瑞住職が63世貫首に就任、係争中訴訟の解決を図った。伊藤貫首のもと、本圀寺は六条堀川の旧地から京都市郊外の東山区山科(現・山科区)へ移転することになる。1971年(昭和46年)、山科移転第一期工事(本師堂、客殿)が完成し落慶法要が営まれた。以後、第二期、第三期工事が順次完成し山容を整える。山科移転以前の旧寺地は西本願寺の北側で、本願寺聞法会館や駐車場の敷地となっている。本圀寺の山科移転後も塔頭16院(前述)は旧地に残り、五条通り南北の猪熊通沿いに所在している。京都市営地下鉄御陵駅から徒歩15分。自動車でも行くことが可能であるが住宅街の中を通る為、道が狭く離合が出来ない箇所があるので注意が必要である。本圀寺事件は文久3年8月17日(1863年9月29日)に発生した事件。鳥取藩の尊王攘夷派藩士22名が同藩の重役黒部権之助、高沢省己、早川卓之丞の3名を惨殺。翌日18日彼らの残書により、加藤十次郎自殺。因幡二十士事件、因幡二十二士事件ともいう。暗殺者のうち5名は慶応2年8月3日(1866年9月11日)に被害者の遺族により島根県の手結浦であだうちされている。
出典:wikipedia
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