朝熊山(あさまやま)は、三重県伊勢市・鳥羽市にある山。正式名称は朝熊ヶ岳(あさまがたけ)。『三国地誌』では「岳(たけ)」とも記され、伊勢市近辺で「岳」は朝熊山を意味する。南方に連なる「朝熊山地」を含めて「朝熊山」とする場合があり、この場合には志摩市まで跨がることになる。山頂付近に臨済宗の金剛證寺があり、この寺を「朝熊山」と呼ぶ場合もある。朝熊山は標高555mの北峰と約540mの南峰(経ヶ峯)のほかにいくつかの峰がある。伊勢志摩国立公園の中に位置し、日本百景に選定されている。紀伊半島から太平洋に突き出た志摩半島の最高峰で、山頂付近は初日の出の名所である。朝熊山は伊勢志摩を代表する霊山として知られる。朝熊(あさま)は、『延喜太神宮式』などに「朝熊(あさくま)」とあるように「あさくま」が本来の読みであり、音が約され「あさま」となったと考えられる。なお、「あさくま」との読みは伊勢神宮摂社の朝熊神社に残っている。「あさくま」の語源として、浅隈(川の浅瀬を意味する古語)に由来する説(度会清在『旧蹟聞書』)が有力とされる。ほかに、この地を訪れた空海の前に朝に熊が夕に虚空菩薩が現れたという伝説による説(金剛證寺伝)、朝熊神社の祭神である葦津姫(別名木華開耶姫)の通音に由来するという説(度会延経)などがある。北峰に三角点がなかったため、ケーブルカーの駅の跡付近の一等三角点の標高の478mを誤って記載する地図が昭和時代には数多く存在した。東端の鳥羽市船津から西端の伊勢市宇治舘町へ緩やかな稜線を描き、稜線の南方は朝熊山地と呼ばれる。稜線の東側の大部分と、山頂付近から南方の山伏峠方面へ続く稜線は伊勢国と志摩国の境である。朝熊山の西南を流れる島路川流域は島路山と呼ばれ、内宮神域の一部である。急峻な北斜面の山麓には東西に朝熊が岳断層があり、東から西へ五十鈴川支流の朝熊川が流れる。地質は古生代下部の御荷鉾層(みかぶそう)に属し、塩基性深成火成岩類を主とする。山頂展望台付近に露頭が見られる。この地方の最高峰の朝熊山は古くから山岳信仰の対象となり、825年(天長2年)に空海が真言密教道場として南峯東腹に金剛證寺を建立したと伝えられている。1392年(明徳3年)に鎌倉建長寺5世の東岳文昱(とうがくぶんいく)が金剛證寺の再興に尽力したため、真言宗から臨済宗に改宗した。室町時代には神仏習合から伊勢神宮の鬼門にあたる丑寅(北東)に位置する金剛證寺が伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、入山者が増えることになる。戦国時代から江戸時代初期には統治権力が及ばないアジールとなっており、豊臣秀吉の勘気を受けた尾藤知宣の潜伏先として選ばれた。朝熊山付近では江戸期以降、宗派を問わず葬儀ののちに朝熊山に登り、金剛證寺奥の院に塔婆を立て供養する岳参り(たけまいり)という風習がある。境内には、松尾芭蕉句碑や詩人竹内浩三詩碑がある。朝熊山経ヶ峯頂には約40基の経塚が確認されている。明治時代から経塚の存在は確認されていたが、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風による倒木でさらに多くの経塚が確認された。山石で小石室を築いており、出土品は平安時代末の紀年銘のある経筒など、工芸品としてすぐれたものが多い。1966年(昭和41年)4月15日、朝熊山経塚群として国の史跡に指定され、経筒などの出土品は1963年(昭和38年)に国宝(考古資料)に指定されている。出土品の多くは金剛證寺の宝物館に展示されている。朝熊山山頂にある。1925年(大正14年)に伊賀軌道を設立した田中善助が社長を務めた朝熊登山鉄道によりケーブルカーが開通したほか、1938年(昭和13年)に内宮前から登山バス用道路(未舗装)が作られ、朝熊山へ登る人が激増した。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)にケーブルカーの線路が軍に軍需物資として徴収されたため休止になった。一般の朝熊山への入山が禁止され金剛證寺は衰退した。開通時には東洋一とされたケーブルカーは、第二次世界大戦後に再開されることなく1962年(昭和37年)に正式に廃線となっている。当時の線路の敷石と山頂駅などが廃墟として現在も残っているが、山頂駅跡は2006年(平成18年)に鉄条網で囲われ近寄れなくなった。第二次世界大戦後に三重交通により登山バスが再開されたものの、ケーブルカーに及ばない輸送力では参拝客を取り戻せなかった。伊勢湾台風などで被害を受け金剛證寺は衰退の一途を辿ったが、1964年(昭和39年)の伊勢志摩スカイライン開通後には客足を取り戻し復興した。登山バスは伊勢志摩スカイライン開通に伴い路線が廃止されたが、伊勢志摩スカイラインを経由する路線に引き継がれた。だが再度廃止されている。登山方法が徒歩に限られていた時代には、「岳道(たけみち)」と呼ばれる登山道に数多くの茶店があったが、20世紀中にすべての茶店が廃業した。朝熊峠の「とうふ屋(東風屋)」は江戸時代に開業し、最盛期には100畳の大広間を持つ本館と10室以上の客間のある別館を持ち、朝熊山山頂付近唯一の旅館として賑わった。ケーブルカー休止後は茶店として臨時営業していたが、1964年(昭和39年)2月18日に火災で店舗を焼失し廃業した。当時は岳参りの人々のために数多くの萬金丹の店が並んだ。これはその中の一番大きい店。宇治岳道と五知道の合流する箇所にある。現在は石垣が残るのみ。ちなみに今も金剛証寺内の売店で、お守りと一緒に萬金丹が売られている。現在は石垣が残るのみである。ちなみに山頂広場にも御木本幸吉の記念碑がある。朝熊山の東側にある霊園。金剛證寺の経営で1973年(昭和48年)に完成。鳥羽市立船津保育所のところから霊園へ通じる自動車道がある。頂上からは登山道(近畿自然歩道)でしか行けない。自動車道路沿いの桜並木は春には桜の名所として地元では有名である。1962年(昭和37年)12月に着工、1964年(昭和39年)9月に三重交通子会社の三重県観光開発(株)により造られた、延長16.3km、幅員6.5mの有料道路である。1950年(昭和25年)6月に厚生省が告示した「伊勢志摩国立公園計画」の中に宇治山田市から朝熊山を経由し志摩郡鳥羽町に至る道路計画が示されており、それが実現したものである。伊勢市宇治館町と鳥羽市鳥羽町のそれぞれの出入り口に料金所がある。初日の出で賑わう大晦日を除き、夜間の通行は禁止されている。山頂付近まで自動車で容易に登ることが可能で、開通以来もっとも一般的な選択肢になった。クロソイド曲線を利用し、鳥羽湾などのリアス式海岸が見通せるように設計されている。かつて定期バスが運行されていたが2010年現在は廃止されている。年末年始等イベント時には、三交バスが臨時運行される。この道路は観光用の私道で、無料化の予定はない。2006年8月現在の通行料金は自動二輪車860円、軽・普通自動車1,220円である。年間通行券も発行されており、それぞれ4,300円、6,000円である。南峰の東にある標高506mのピークに大型駐車場と山頂展望台があり、北東方向の眺望がよい。神島・答志島などの鳥羽市の離島のほか、伊勢湾対岸に渥美半島を望むことができる。条件がよければ富士山を見ることができるが、冬季の晴天の早朝以外はほとんど見えないという。山頂展望台のレストハウスではかつてレストランが通年営業されていたが、2006年現在は通年営業は売店と自動販売機のみとなっている。足湯・さんぽ道(遊歩道)・名古山神社・ハンモック広場・勘吉台(パラグライダー離陸場所)・御木本幸吉翁籠立場の碑などがある。伊勢市市街地方面への眺望は伊勢料金所方面にある一宇田展望台の方が良好である。一宇田展望台からは天気が良ければ伊勢市街や鈴鹿山脈、伊勢湾を望むことができ、伊勢志摩では夜景の名所となっている。一宇田展望台には自動販売機が設置されている。朝熊山にはかつては鳥羽・志摩・磯部方面からの参詣道・生活道路としての山道が多数あった。しかし自動車道の発達に伴って歩く人は激減した。2010年現在は、観光用として整備された朝熊岳道以外ほとんど利用者はない。地元の愛好家・山岳会(“テクローかい”など)以外は歩く人も少なく、廃道寸前のものもある。その他、野生のウサギなどが目撃されている。伊勢神宮の宮域林及びその周辺は鳥獣保護区であるが、鳥羽市側はそうでない地域があり、狩猟の時期(11月中旬~2月中旬)にはハンターがいることがあるので要注意。山頂には津市に放送局のあるNHK津放送局と三重テレビ放送(MTV)以外では、三重県中部までを放送区域とするテレビ放送の中継所が1964年(昭和39年)に作られた。地上デジタルテレビ放送の中継設備が隣接して作られ、2006年(平成18年)より開始された。この中継所は東方へは鳥羽市の一部を放送区域とするが、南方の志摩市の大部分では電波が朝熊山地にさえぎられ受信困難であるため、鳥羽市の一部と志摩市の大部分のための別の中継所が複数作られている。朝熊山には、伊勢テレビジョン中継放送所が置かれている。使用するチャンネルはすべてUHFである。視聴エリアは鳥羽市から津市の沿岸部、志摩地区などを中心に、愛知県田原市や豊橋市の沿岸部、果ては静岡県湖西市や浜松市の沿岸部でも受信報告がある。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。