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ワールドプロレスリング

ワールドプロレスリング("World Pro Wrestling")は、1969年7月2日からNET(日本教育テレビ)⇒テレビ朝日および系列局で放送されているプロレス中継番組である。略称は「ワープロ」もしくは「WPW」。1973年3月30日までは日本プロレス中継番組として、同年4月6日以降は新日本プロレス中継番組として放送されている。1987年3月までは生中継で放送されていたが、現在は録画中継番組となっている。2007年10月からハイビジョン制作番組となっている。新日本プロレス中継を開始してから2013年4月6日に40周年を迎えるなど、現在のプロレス中継番組として最長寿番組でもある。1968年1月に国際プロレスからブッカーとして招聘され、その1か月後に国際プロレスとの路線対立により日本マット界を追われたグレート東郷が、1969年1月にルー・テーズと組んで日本再進出並びにその新団体『トーゴー&テーズ・カンパニー』(ナショナル・レスリング・エンタープライズ = 仮称)のテレビ中継を目論み、同時に東郷は力道山のマネージャーであった吉村義雄を日本における代理人に指名し、NETとフジテレビに対してコンタクトを開始した(後にフジテレビは断念)。この情報を聞きつけた日本プロレスは、同年1月下旬に企業防衛を開始し、吉村道明をアメリカに派遣し東郷による新団体旗揚げ阻止工作に動いた他、国内においても遠藤幸吉専務が東京スポーツに対して「ルー・テーズが極秘来日」(実際には1969年にテーズは来日していなかった)などの飛ばし記事を書くよう要請するなど、東郷による新団体の旗揚げやNETにおける中継阻止に動いた。日本プロレスは1969年2月に、NETの辻井博編成局長に対して「東郷による新団体の中継は中止してほしい。日本プロレスの試合を中継したいのなら協力する」とアプローチをかけ、同年3月には『三菱ダイヤモンド・アワー・日本プロレス中継』として日本プロレス中継を独占放送してきた日本テレビに対し、NETの参入許可に関する打診を開始し、同年4月に日本テレビは日本プロレスに対し、以下の試合は日本テレビの『日本プロレス中継』内の放送での独占中継とし、NETでは放送してはならないという条件で放送を許可することを通達した。そして、NETと日本テレビとの間で放送協定が結ばれ、NETは1969年5月12日に赤坂プリンスホテルにおいて、日本プロレスから芳の里淳三社長、遠藤専務、アントニオ猪木、大木金太郎、ユセフ・トルコが、NETから辻井編成局長がそれぞれ出席の上で、同年7月2日からNETでも日本プロレス中継を開始することを発表した。NETは猪木を番組上でのメインイベンターに抜擢し、猪木・大木・吉村の試合を中心に放送することになった。これにより、東郷による新団体旗揚げ計画は頓挫した。1969年7月2日より、毎週水曜日21:00 - 21:56において『NETワールドプロレスリング』としてNETにおける日本プロレス中継が開始された。開始当初からカラー放送であり、日本プロレス中継時代は一貫してNETの局名を冠していた。開始当初は録画中継であった。開始当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「NETプロレス中継開始!」「世界最強の男たち10チャンネルに登場!」であった。『NETワールドプロレスリング』第1回は1969年6月23日に大田区体育館で行われた猪木&吉村vsクルト・フォン・スタイガー&カール・フォン・スタイガーと大木vsエドワード・ペレスの録画中継で、吉岡晋也が実況を担当し、桂小金治をゲストに迎えて放送された。尚、吉村は本番組の放送初回当日に裏番組である『あっぱれ!親バカ』(日本テレビ)にも馬場と共に出演していた。開始当初の視聴率は、NET局内でベスト5に入っていた他、同年12月31日には、ドリー・ファンク・ジュニアVS猪木とのNWA世界ヘビー級王座戦(12月2日に大阪府立体育会館で開催)の録画中継を通常放送したが、『第20回NHK紅白歌合戦』の影響で視聴率は4.8%に終わる。1970年4月6日から毎週月曜日20:00 - 20:56に変更されると同時に生中継も開始され(生中継初回は4月27日開催の「第12回ワールドリーグ戦」愛知県体育館大会)、同時に坂口の試合中継も同年4月20日から解禁されたが、同年に開催された「第1回NWAタッグ・リーグ戦」が引き金となり、日本プロレスは馬場派と猪木派に二分し、後に分裂の危機に立たされることとなった。1971年にはワールドリーグ公式戦中継も解禁されたが、同年12月13日に猪木が追放処分となって看板を失い(最後の猪木出場試合の中継は12月27日放送のディック・スタインボーン戦(12月6日の茨城県立スポーツセンター体育館大会)の録画中継、猪木は1972年3月に新日本プロレスを創立)、そのためNETは坂口を新たなメインイベンターに起用して放送することになった。猪木という看板選手を失い、視聴率も平均で3%も低下したNETは、1972年1月から日本プロレスに対し馬場の試合中継を要求した。NETはこの要求が受け入れられなければ1972年3月一杯をもって番組を打ち切ると警告し、最終的に日本プロレスはNETの要求を飲むことになった。そして日本プロレス役員会は馬場の反対を押し切ってNETにおける馬場の試合中継を認め、1972年4月3日放送の新潟市体育館大会において『ジャイアント馬場初登場』と銘打ち馬場を本番組の中継に出場させた(馬場&坂口vsディック・マードック&マイティ・ブルータス)ことから日本テレビとスポンサーである三菱電機が激怒。日本テレビは三菱電機との協議の末、同年5月15日の記者会見において同年5月12日放送分の東京都体育館大会(「第14回ワールドリーグ戦決勝戦」などを放送)をもって『日本プロレス中継』を打ち切ることを正式発表した(1972年5月19日以降は『日本プロレス選手権特集』として過去の名勝負集を同年7月14日まで放送)。日本プロレスの中継は日本テレビが打ち切りを発表した同年5月15日以降はNETが独占する形となると同時に(独占中継初回は「第14回ワールドリーグ戦」最終戦石川県小松市体育館大会の生中継で、メインは坂口&吉村VSアブドーラ・ザ・ブッチャー&カリプス・ハリケーンのアジアタッグ王座戦)、ゴールデンタイムで放送されるプロレス実況中継番組は『日本プロレス中継』打ち切りの他にも、馬場のNET初登場前日である1972年4月2日にTBS『TWWAプロレス中継』が日曜18時台へ移動したことも相まって、1972年9月までは本番組のみとなり、同時にNETにおける馬場の試合中継も無条件で放送されるようになった。しかし、馬場は新潟大会直後に日本プロレスを退団する意向を示していた。また日本テレビも新潟大会直後からNETに対する報復手段を取り始め、猪木に対し新日本プロレス中継開始を打診していた他、『日本プロレス中継』打ち切り直後に極秘裏に馬場に接触し、新団体旗揚げなどを持ちかけるようになっていた。1972年7月28日、日本テレビでの日本プロレスの過去の名勝負を放送した『日本プロレス選手権特集』が終了した2週間後、同局の「金8枠」(毎週金曜日の20:00 - 20:54)の中継を引き継ぐ形で『NET日本プロレスリング中継』という中継枠が設けられた。当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「金曜よるの興奮プロレス中継!! 今晩8時から10チャンネルがおとどけします」であり、なおかつ馬場と坂口の写真を掲載することで今後の「金8枠」におけるプロレス中継はNETで放送することをアピールした。「金8枠」第1回は7月24日に後楽園ホールで開幕した「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」第4戦後楽園ホールからの生中継で、メインイベントは馬場VSキラー・ジョー・ノボのシングルマッチだった。しかし、「金8枠」進出翌日の同年7月29日に、馬場が8月18日の宮城県石巻市中央広場大会で終了する「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」をもって日本プロレスを退団することを正式発表したため(NETにおける最後の馬場出場試合中継は8月21日放送<8月16日に新潟県三条市厚生厚生福祉会館で開催>の馬場&坂口VSエル・ソリタリオ&ジミー・バリアントの録画中継)、同年8月25日に開幕の「第2次サマー・ビッグ・シリーズ」以降は坂口が新しい番組上でのメインイベンターとなった。NETにおける馬場の試合の視聴率は月曜が10%、金曜が13%であった。「金8枠」開始以前に、馬場は日本テレビと新団体設立や新団体のテレビ中継に関する協議がすでに合意に達していた(馬場は同年9月に全日本プロレス旗揚げも発表し、同年10月7日から日本テレビにおいて『全日本プロレス中継』がスタート。これにより日本テレビによる新日本プロレス中継開始計画は頓挫)。なお馬場は、日本プロレス退団後はテレビ朝日の番組には長年出演しなかった。NETが放送した馬場の出場試合は下表のとおりである(特記がない場合は録画中継)。1972年10月改編期まで、しばらくの間は旧来の『NETワールドプロレスリング』としての放送枠(当時は月曜20時台であった)と並行して放送、その間は日本プロレスの中継枠がゴールデン枠に2つ存在していた。しかし、馬場と猪木の抜けた穴は大きく、馬場離脱後は本番組の視聴率や、日本プロレス自体の観客動員数も大きく減少した他(実況を担当していた舟橋慶一は「観客よりも中継スタッフの方が多い会場があった」と公言している)、選手に対する給料の未払いも発生するようになる。同年9月8日と9月11日に放送された坂口VSザ・シークのUNヘビー級選手権戦の視聴率も10%前後で視聴率回復には至らなかった。このため、NETは日本プロレス中継の週2回放送は視聴率的に無理と判断し、月曜20時の『NETワールドプロレスリング』は同年9月25日に行われた「第3回NWAタッグ・リーグ戦」開幕戦宮城県スポーツセンター大会の生中継をもって終了し(当日は坂口VSラリー・ハミルトンなどを放送)、同年9月29日からは金曜20時の『NET日本プロレスリング中継』枠に一元化された。NETは1972年10月に日本プロレスを相手取り、馬場の退団は契約違反として東京地裁に告訴した。日本プロレスの低迷を受けてNETはこの頃から本番組打ち切りをちらつかせるようになる。この時点ではNETは新日本プロレス中継への変更は明言していなかったものの、「金8枠」一本化時からNETは馬場と日本テレビとの関係同様に、日本プロレス首脳陣や選手会長である大木に極秘裏で猪木や坂口(マサ斎藤も数回出席)に接触し(最初にNETが坂口に接触し、後に坂口が猪木に接触)、新日本プロレス中継開始に関する話し合いを持つようになった。一方の日本プロレスは「第3回NWAタッグ・リーグ戦」では、九州サーキットが宮崎県都城市体育館における国際プロレスとの興行戦争に敗れ(「第3回NWAタッグ・リーグ戦」が日本プロレスにおける最後の九州サーキットとなった)、同時期には馬場が全日本プロレスが旗揚げするなどの要因で大惨敗に終わり、「'72インターナショナル選手権シリーズ」でも、興行を大都市中心のサーキットとした上で、ジン・キニスキー、ボボ・ブラジル、ファビュラス・カンガルーズ(アル・コステロ、ドン・ケント)、ザ・ストンパー、キラー・カール・コックスなどの豪華外国人を招聘して人気回復に努めたが、後発2団体(ザ・デストロイヤーやブッチャーなどが常連外国人選手となった全日本プロレス、金網デスマッチで人気を博し、同時期のシリーズにディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーが特別参戦していた国際プロレス)の前に、観客動員や視聴率では太刀打ちできず、シリーズ自体も前年より5戦削減され、愛知県体育館における国際との興行戦争(日プロが11月21日に、国際が11月27日にそれぞれ開催)では、日プロは坂口&吉村VSファビュラス・カンガルーズのアジアタッグ王座戦で勝負をかけるも、ストロング小林&グレート草津VSブルーザー&クラッシャーの金網タッグ・デスマッチを仕掛けた国際の前にカードの質や観客数で大惨敗を喫するなど、末期症状を呈していた。猪木・坂口・NETの三者は、1972年12月末には新日本プロレス中継開始に関する基本合意に至っていた。1973年に入ると、日本プロレスや番組の状況はますます悪化。「新春チャンピオンシリーズ」以降は参加外国人の質が低下した。「新春チャンピオンシリーズ」では、都道府県庁所在地における興行も後楽園ホールと大阪府立体育館のみとした上で、かつ北海道・東北中心のサーキットとなり、1月20日から1月25日まで6日間も休養日が設定された。1月26日に後楽園ホールから生中継された高千穂明久VSグレート小鹿戦で14.8%の視聴率を記録し、翌日放送の『全日本プロレス中継』の視聴率(12.3%)を何とか上回った。だが、1月末にはNETと新日本プロレスとの間で新日本プロレス中継開始に関する最終合意に至った。同時期には日本プロレスと新日本プロレスの合併話が持ち上がり、NETは日本プロレスに対して「猪木・新日本プロレスとの合併を認めなければ中継を打ち切る」と強硬姿勢に出るに至り、同年2月8日には猪木・坂口・NETによる合併記者会見を一旦は行った。しかし、大木が同年2月16日の「ダイナミック・シリーズ」開幕戦後楽園ホール大会にて合併反対会見を行い、一部を除く日本プロレスの役員や選手会も大木に賛同したため、合併交渉が白紙に戻ったが、NETは4月から新日本プロレス中継を放送する方針には変わりはなかった。これにより合併賛成派だった坂口は1973年2月に木村聖裔、小沢正志、大城勤(大城大五郎)の3選手を連れて同年3月8日の「ダイナミック・シリーズ」終了を以って日本プロレスを脱退すること並びに新日本プロレスへの入団を決定し、吉村も3月3日の近大記念会館大会をもって引退することを決断した。NETも坂口に同調する形で、「ダイナミック・シリーズ」終了翌日である同年3月9日に、3月30日限りで『NET日本プロレスリング中継』を打ち切った上で、翌週4月6日から新日本プロレス中継に変更する事を決定した。これを受けて日本プロレスは25戦で予定していた次期シリーズ「アイアン・クロー・シリーズ」を一旦キャンセルするとともに、NETも3月2日の横浜文化体育館大会(坂口VSジョニー・バレンタインのUNヘビー級選手権戦)を以って日本プロレス中継の生中継を終了し、日本プロレス中継終了まで同年3月3日に行われた近大記念会館大会(吉村道明引退興行)と同年3月8日に行われた「ダイナミック・シリーズ」最終戦である栃木県佐野市民会館大会の2大会の録画中継のみとする内容変更を実施した。坂口の新日本プロレス移籍並びにNETの新日本プロレス中継への変更により、NETは予定通り1973年3月30日限りで3年7カ月続いた「NET日本プロレスリング中継」を終了した。最後の日本プロレス中継は、NETの新日本プロレス中継開始会見の前日である佐野大会で行われたバレンタインVS高千穂のUNヘビー級選手権戦の録画中継であった。これにより日本テレビ単独中継時代から19年1カ月続いた日本プロレスのテレビ中継は幕を下ろしたと同時に、終了同日には翌週4月6日から実況中継される新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」が大田区体育館で開幕した。木村、小沢、大城は大田区大会から、坂口も同年4月1日の第2戦佐賀県鹿島市大会からそれぞれ新日本に参戦した。メイン実況を務めていた舟橋は「NET日本プロレスリング中継」最終回当日、新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」開幕戦に直接出向き、新日本プロレス中継開始に備えて新日本の試合内容などをチェックしていたという。なお、『NET日本プロレスリング中継』最終収録地となった佐野市民会館では、新日本プロレス中継開始前日の同年4月5日に「ビッグ・ファイト・シリーズ」第4戦が行われている。本番組が新日本プロレス中継に変更されたためにテレビ中継とそれに伴う放映権料を完全に失い、なおかつ吉村が前述の通り1973年3月3日に引退し、坂口が同年4月1日に新日本プロレスへ移籍したために看板選手を失った日本プロレスは、大木や高千穂ら選手会が1973年4月に一旦キャンセルとなった「アイアン・クロー・シリーズ」を全6戦で選手会主催興行とし、フリッツ・フォン・エリックを外国人エース格として興行を強行したものの、新日本プロレスは猪木が全国ネットのテレビ中継に再登場し、全日本プロレスも「第1回チャンピオン・カーニバル」を開催し、国際プロレスもラッシャー木村の海外遠征からの帰国を控え、木村の遠征中も小林、草津、マイティ井上が奮闘しており、質と量の両面において、他団体との外国人選手やカードなどの差は歴然としていた。日本プロレスは同年4月13日の開幕戦である大阪府立体育館大会(大木vsフリッツ・フォン・エリックのインターナショナル・ヘビー級選手権など)が不入りに終わった事を受けて、翌4月14日に解散を決定し、同年4月20日の群馬県吉井町大会を以って、新日本プロレス中継へ変更されてわずか3週で崩壊した。大阪府立体育館では新日本プロレスと全日本プロレスの後発2団体に興行戦争を仕掛けられ(新日本プロレスは4月18日〈当日のメインは猪木VSジャン・ウィルキンス〉に、全日本プロレスは日本プロレス崩壊の4日後である4月24日〈当日のメインは馬場VSシークのPWFヘビー級王座戦〉にそれぞれ開催)、日本プロレス崩壊当日は新日本プロレスで猪木&坂口の黄金コンビが復活した日でもあった(後述)。日本プロレスの残党9名も崩壊の翌週である4月27日に日本テレビと1976年3月31日までの3年契約を結ばされた上で、全日本プロレスへ参戦した。このように、当時のプロレス団体はテレビ中継の有無で団体存続が左右されていた時代であった。日本プロレス残党のまとめ役で、かつ馬場との仲介役を務めた小鹿の証言によれば、当初馬場は残党全員を引き取るつもりはなかったものの、最終的に小鹿が説得した上で残党全員を全日本プロレスに引き取ってもらったという。日本プロレスが管理するチャンピオンベルトやチャンピオントロフィーを、NETが日本プロレスに残務整理のため一人残っていた長谷川淳三社長から買い取る話があったという。1972年3月に旗揚げした新日本プロレスはテレビ中継がないままに旗揚げし、それが故に旗揚げ半年で累積赤字が1億円に達するなど経営難に陥っていた。『日本プロレス中継』打ち切り直前から新日本は日本テレビから試合中継開始を打診され、新日本も交渉に応じようとしたが(『日本プロレス中継』のプロデューサーだった原章〈現:福岡放送会長〉は猪木と親密だった)、日本テレビは馬場に付いた上で『全日本プロレス中継』を開始したため日本テレビにおける新日本中継は実現しなかった。初の新日本プロレス中継は東京12チャンネル(現:テレビ東京)が放送し、単発放送として2回放送され、1972年10月4日に行われた猪木VSカール・ゴッチ戦を当日の22時30分から、10月10日に行われた猪木VSゴッチ戦を11月6日の20時からそれぞれ1時間枠で特別番組として録画中継した。単発放送ながらも、猪木の試合中継が10か月ぶりに復活した。猪木と当時日本プロレス所属だった坂口は、東京12チャンネルにおける単発放送前からNETとの新日本のレギュラー中継開始交渉を日本プロレスと日本プロレス選手会に極秘裏で開始し、1973年1月には最終合意に達し、同年3月9日にNETによる新日本プロレスレギュラー中継開始が発表された(前述)。1973年4月6日、新日本プロレスの中継番組として、半年ぶりに『ワールドプロレスリング』のタイトルが復活した上で再スタートして放送開始。それまでの『NET日本プロレスリング中継』枠同様に「金8枠」に主に生放送され、猪木の試合が1年4カ月ぶりに全国ネットプロレス中継に復活したと同時に、定期的に放映権料が入ることになったことで旗揚げから経営難にあえいでいた新日本プロレスの経営も立て直すことができた(新日本プロレス中継開始当初は、中継席やカメラの設置位置を決める前にチケットを販売したプロモーターもあったが、座席を買い戻すのは制作費が増加してしまうため、後にチケット発売開始前に中継席やカメラの設置位置を決めるようになった)。第1回は『NET日本プロレスリング中継』終了と同日に開幕した「ビッグ・ファイト・シリーズ」第5戦の栃木県宇都宮スポーツセンターからの生中継で、猪木&柴田勝久VSジャン・ウィルキンス&マヌエル・ソトと坂口vsプロフェッサー・バーン・ジールのダブルメインイベントが放送された。本番組の新日本中継への変更と同時に、テレビのレギュラー放送が開始するまでという条件で参戦していた豊登は新日本を退団した。開始3週目である同年4月20日の蔵前国技館大会では、猪木の日本プロレス除名処分以来途絶えていた猪木&坂口のコンビが復活して試合が生中継された。タイガー・ジェット・シンが初来日した同年5月開幕の「ゴールデン・ファイト・シリーズ」以降は、開幕戦から放送されるようになったと同時に、猪木vsシンの抗争がスタートする。シン以外にも、日本プロレス中継最終シリーズに参戦していたジョニー・バレンタインやNWF世界ヘビー級王者ジョニー・パワーズなどの大物外国人を招聘したことから、視聴率は末期の視聴率が8〜10%台だった『NET日本プロレスリング中継』よりアップし、1973年末には15〜18%台に達してプロレス中継ではトップの座に躍り出る。1976年2月6日の「格闘技世界一決定戦・猪木vsウィレム・ルスカ」の生中継(途中で放送終了)で、最高視聴率34.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録する(翌週に同年2月5日に行われた坂口&ストロング小林VSシン&ブルータス・ムルンバとの北米タッグ王座戦とセットで放送された再放送も26.8%を記録)。さらに1979年4月7日に『全日本プロレス中継』が「土8枠」(土曜20時枠)から土曜17:30枠へ移動し、1981年3月28日に「土8枠」で放送していた『国際プロレスアワー』(東京12チャンネル)が終了したのに伴い、全国ネットで生中継を実施し、かつゴールデンタイムで放送されるプロレス中継は1981年4月から1985年9月まで本番組のみとなった。初代タイガーマスクが登場した1981年には全日本プロレスとの外国人引き抜き戦争が勃発し、新日本がアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜いた報復として全日本がタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンの2大外国人選手を引き抜いたが、翌1982年から1983年にかけては、古舘伊知郎の過激な実況(当時テレビ朝日アナウンサーだった古舘にとっては「出世作」となる)、WWFとの提携強化によるハルク・ホーガンなどの新しい外国人スター選手の登場、長州力らの「維新軍団」の台頭、ほとどが実況生中継という要因によって視聴率も20%超えの絶頂期を迎える。新日本プロレスの海外遠征に帯同しての現地からの中継や各シリーズの最終中継日に次期シリーズ来日レスラーの紹介(BGMとしてジェフ・ベックの『スター・サイクル(Star Cycle)』が流れる)など、現在では見られなくなった企画もあった。後者は当時、現在とは違って日本人VS外国人という図式がメインで、シリーズ毎に目新しい外国人選手の出場が多かったため。日本人同士の抗争がメインになって以降は、登場する外国人もほとんど変わらず、対戦カードの変更こそあれ総体的な陣容に特に変化が無い、日本人同士の対決に重きを置いたため、行われていない。これから戦う選手名(つまり対戦カード)のテロップが表示されるのは、この頃にはすでに導入されている。ただし、1982年辺りの視聴率がピークの頃は、古舘の実況に合わせる様に選手が花道を入場してくる際に“燃える闘魂”“人間山脈”“超人”“世界の荒鷲”“SUPERロデオマシン”“激怒 アニマル浜口”などといったレスラーの別名(ニックネーム)のテロップが場を盛り上げていた。また前述の「次期シリーズ参加外国人選手」の予告にも同様に、古舘の実況の文言がテロップで矢継ぎ早に表示された(例:「マット上、戦況は混沌としております。内乱・テロ・リボリューションと様々な断面を見せながら、過激なプロレスを超えたシュールな戦い模様であります」「燎原の火、逆巻く次期ブラディ・ファイト・シリーズにどうぞご期待下さい」「○○(西暦)年の掉尾を飾りますMSGタッグリーグの参加チームを覗いて見ましょう」「新日猪木砦に黄色信号。維新決起の大坂夏の陣」「世界各地域を勝ち抜いてきた列強がひしめき合う第○回IWGPの出場選手の紹介です」)。同時に放映ネット局のロールも流れていた。金曜→月曜時代は原則生中継であったが、放送が途中で終了した場合は翌週に放送終了後の試合を最初に録画中継で放送するという便宜を図っていた他、当時の新日本プロレスは、外国人選手のギャラの支払いが週給単位であった関係で、放送前日の木曜にシリーズ最終戦を組むことが多かったため、シリーズ最終戦もしくは最終戦直前に大会場で行われた試合は2〜3週に分割した録画中継(1週目はメインイベント、2週目以降はセミファイナル以前の試合)となることが多かった他、1週目を丸々メインイベントに割く事もあった。試合は生中継や録画中継に関わらず、現在とは異なりノーカットで放送された。また、テレビ朝日は金曜にプロ野球中継を基本的に編成しなかったため、プロ野球中継の有無で放送時間が左右されていたゴールデンタイム時代の『全日本プロレス中継』とは異なり、放送時間が当日時差ネットに変更されたり、休止となったりすることは、ほとんどなかった。生中継を行っていたころは、それが故のトラブルもあった。1982年3月26日に広島県立体育館で行われた「第5回MSGシリーズ」第21戦の生中継では、セミファイナルの藤波辰巳VSキラー・カーン戦が30分引き分けに終わったために放送尺がなくなり、メインイベントの猪木VSアンドレ・ザ・ジャイアント戦では、放送終了前にアンドレが勝利したことに不満を持った観客がリングに乱入するという騒ぎとなった。1983年以後、リングサイドの横断幕も、それまでの協賛スポンサー(開始当初はライオングループ、龍角散、カンロ飴→のちにライオングループ、佐藤製薬、陶陶酒→小松製作所(コマツ)・小松フォークリフト→三協アルミニウムなど)の広告だったのが、「10(ロゴ) ワールドプロレスリング」の番組ロゴのものに変更された。スポンサー付マットは現在は復活している。1984年から1985年にかけては維新軍団(後のジャパンプロレス)や後のカルガリー・ハリケーンズが新日本を退団かつ全日本プロレスへ参戦した他、前田日明なども新日本を退団してUWFを旗揚げし、さらに新日本プロレスとWWFとの業務提携が終了したためマッチメイクに変化が生じる。大量離脱を補填すべく、1985年3月には全日本プロレスの外国人引き抜きの報復としてブルーザー・ブロディを引き抜き、同年8月には全日本プロレスを退団した越中詩郎がアジア・プロレス所属の形で参戦し、同年10月からはケビン・フォン・エリックとケリー・フォン・エリックのエリック兄弟が参戦して立て直しを図るが、1985年8月に日本テレビが『全日本プロレス中継』を同年10月19日からゴールデンタイムに復帰させることを発表したため、本番組は6年半ぶりに『全日本プロレス中継』との視聴率競争に晒されることになった。これにより、1985年10月以降の本番組は、新日本とWWFとの提携終了、同時期から本格化したテレビ朝日全体の不振も相まって視聴率はジャパンプロレス勢が登場していた『全日本プロレス中継』よりも下回るようになっていく。WWFとの業務提携終了以降の外国人出場選手は、シリーズ毎に主に大剛鉄之助ルートやビル・ワットのMSWAルートでブッキングした新しい外国人選手(スティーブ・ウィリアムスやハクソー・ジム・ドゥガンなど)の出場が多くなって行く傾向が強まると同時に、前田などのUWF勢の参戦による日本人対決もあって徐々にではあるが持ち直したが、1986年にはアンドレの特例での出場契約が終了した。1986年10月24日から放送される『ミュージックステーション』の番組立ち上げに伴い、1986年9月19日・9月26日の2週に渡って放送された「チャレンジ・スピリット'86」福岡スポーツセンター大会(9月19日は生中継で当日のメインイベントは藤波vsブロディ、9月26日は録画中継)を以って日本プロレス中継時代から14年2か月間続いた「金8枠」における放送が終了し、同時に日本テレビが「金8枠」にプロレス中継が進出した1958年9月から続いてきた「金8枠」におけるプロレス中継も、28年の歴史に幕を下ろした。1986年10月13日から「月8枠」(月曜20:00-20:54)に移動し、14年ぶりに「月8枠」で放送されることになった。「月8枠」への移動と同時に海外武者修行から帰国した武藤敬司を大々的に売り出すなどマッチメイク面でテコ入れを図るが、「月8枠」移動後は「金8枠」と異なり休止が頻発していた。以降、1987年4月6日の90分スペシャル(1987年3月26日開催の大阪城ホール大会の録画中継)をもって古舘が番組を降板し、「月8枠」における放送が終了したと同時にレギュラー放送における生中継も終了した。翌日の1987年4月7日、火曜日の20:00からの放送に移行。バラエティの要素を加えた『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』として番組をリニューアル。「プロレス+バラエティ=面白すぎるスポーツ番組の登場!」といったコンセプトのもとに、山田邦子をメインパーソナリティとしたスタジオ収録のバラエティを中心にそれに試合中継を挟み込む構成とした。これに伴い、試合は全て録画中継となり、製作もスポーツ局から編成局制作3部(実際にはIVSテレビ制作が制作)に変更された。時間変更やリニューアルを行った背景には、前番組である『ビートたけしのスポーツ大将』が、ビートたけしとたけし軍団によるフライデー襲撃事件が発生した影響で番組打ち切りを余儀なくされ、穴埋め番組として移動した上でリニューアルしたという。当初は、試合会場とスタジオとを二元中継の形で結ぶこともあった。しかし初回から試合中の良い場面で「驚く山田の顔がアップになる」などの的外れな演出に、プロレスファンが猛反発。前週まで10%台あった視聴率が5%以下に落ちたともいわれている。このバラエティー部分は後にスタジオでの選手へのインタビュー中心に変わり、末期には消滅した。この番組の中期、山田が一時帰国中の馳浩にインタビューした際「(試合中の怪我による)血って簡単に止まるものなんですか?」と聞いたのに対し、馳が「止まる訳ないだろ、つまんないこと聞くなよ!」と山田に向かって憤慨したエピソードがある。同時期にはジャパンプロレスが分裂し、長州力やアニマル浜口などの一部選手が新日本へ復帰した。1987年10月5日からは再び月曜日の20:00に復帰、「ワールドプロレスリング」のタイトルが復活したうえ番組も元の試合中継のスタイルに戻り、制作も再度スポーツ局の担当となった。前番組の名残りかこの時オープニングテーマとして使われたのは自局のスポーツテーマではなく、CHAGE and ASKAの『狂想曲 〜ラプソディ〜』だった。しかし、放送時間変更後は新日本や番組が悪循環に陥ってしまう。放送時間変更と同時期にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとブルーザー・ブロディは全日本へ復帰した他、視聴率はプロ野球シーズンオフだったことも重なって『全日本プロレス中継』よりもさらに悪化していた。「'87ジャパン・カップ争奪タッグリーグ戦」では前田日明による長州力への顔面襲撃事件が発生し、前田は1988年2月に新日本を解雇となり、後に第2次UWFを旗揚げした。1987年12月27日に行われた両国国技館大会では、たけしプロレス軍団とビッグバン・ベイダーの登場に激怒した観客が設備を破壊するなどの暴動が発生し、これを受けて日本相撲協会は新日本に対し無期限使用禁止を通告。これにより、新日本は日本武道館を使用していなかったことや東京体育館が当時建替工事中だったことも相まって、1989年2月の両国国技館の使用解禁まで都内における大会場を失い、大会場におけるビッグマッチ並びに中継は新日本と提携していた時代の国際プロレス並びに『国際プロレスアワー』同様、大阪府立体育会館・愛知県体育館・札幌中島体育センターに頼らざるを得なくなった。1988年4月よりかつて『ビッグスポーツ』を放送していた土曜日の16:00 - 16:54に移行。タイトルも「'88 (エイティエイト) ワールドプロレスリング」と改められたと同時に、日曜22時30分枠へ移動した『全日本プロレス中継』共々ゴールデンタイムを外されたため、ゴールデンタイムで放送されるレギュラー放送のプロレス中継は消滅した。チーフプロデューサーに「川口浩探検隊」シリーズを手掛けたプロデューサーを迎え、田中信夫による同番組を彷彿とさせるナレーションを冒頭に入れるというスタイルを導入するが、1989年1月から3たび「ワールドプロレスリング」に戻る。この時間帯はゴルフ中継が頻繁に放送され、しかもそちらの方が優先されたことから毎週の放送ができずにファンからは不評だった。同時にローカルセールス枠での放送となった。1994年4月から土曜の深夜時間帯に移動しほぼ毎週放送されるようになった。同じく1994年4月に『全日本プロレス中継』が30分に短縮されたのに伴い、それ以降は本番組が唯一の1時間枠で放送される全国ネットのプロレス中継となった。1996年1月、2000年4月の東京ドーム大会は即日に特番で放送。猪木が引退した1998年の東京ドーム大会では、後日特番でゴールデンで放送された。2001年4月、大阪ドーム大会(4月9日)の特番に突如としてタレントの乙葉が「ワールドプロレスリングイメージガール(番組イメージキャラクター)」なる肩書で登場、以後、2002年までの約1年にわたりビッグマッチの度にゲスト解説を務めた。この起用の狙いを番組プロデューサーは「プロレスを知らない彼女が出来たとしたら、貴方はどのようにしてプロレスに興味を持たせるかという一種のシミュレーションと考えてくれればいい」と当時語っていた。実際、乙葉本人はプロレスに関して全く知らず勉強もしていなかったようで「三沢さんって強い人だったんですね、知りませんでした」などの爆弾発言で物議を醸した。同様に2003年、無名時代の安めぐみをイメージキャラクターに起用したが数回登場した後に番組の縮小もあり「イメージキャラクター」そのものが事実上立ち消えとなった。これは、安がタレントとして売れて多忙になったのも一因と考えられている。以後は番組イメージキャラクターの設定はない。2004年4月には、放送時間が30分に短縮されたと同時に、1時間枠で放送される全国ネットのプロレス中継は消滅した。放送時間短縮後は、ジュニアヘビー級の試合がタイトルマッチとリーグ戦以外ほとんど放送されなくなり、「金8枠」時代のシリーズ最終戦や、最末期の『全日本プロレス中継』→『プロレスリング・ノア中継』(日本テレビ系)、末期の『TWWAプロレス中継』(TBS系)同様に分割放送となった上で1試合かせいぜい2試合しか放送しなくなった。時を同じくしてBS朝日では全カードを中継する『ワールドプロレスリング 完全版』がスタート。2005年4月からは地上波未放送試合をカバーする目的で『闘魂スーパーバトル』と題した60分のレギュラー番組にリニューアルしたが、これも2008年に終了。2008年4月からはスカパー!のテレ朝チャンネル1(2013年3月までテレ朝チャンネル)で再び新作の『-完全版』が放送されている他、2012年4月に『-完全版』の放送を開始したテレ朝チャンネル2(2013年3月まで朝日ニュースター)では月1回生放送も実施しており、「ワールドプロレスリングLIVE」として2012年5月27日放送の「BEST OF THE SUPER Jr.ⅩⅨ」開幕戦を第1弾に生中継を再開した(放送は不定期)。この放送時間の短縮は、「年6回の特番を放送するという新日本プロレスとの条件付き」とされた。しかし、2013年現在では東京ドーム大会などのビッグマッチはおける特別編成での放送は新春スペシャルとして一部系列局で深夜に放送されているのが現状である。かつてはゴールデンタイムでの特番や日曜夕方の生放送特番を年数回行っていたが、2002年5月の放送を最後にプライムタイムでの特番は放送されていない。またかつてはG1 CLIMAXの決勝戦を日曜夕方にて放送していたが、こちらも2003年が最後となっている。2012年からはGET SPORTS内でG1 CLIMAXの決勝戦が中継されている。2009年3月をもって『プロレスリング・ノア中継』が終了したため、同年4月以降は地上波において全国中継されるプロレス中継では本番組が唯一の番組となった。このように、地上波でのプロレス中継自体が減少している現在、毎年3月頃になると絶えず打ち切りの噂が広まるが実際に打ち切られておらず噂の範囲内にとどまっている。新日本プロレスの中継がメインだが近年はプロレス団体の門戸が開いたことに対応し、他団体に乗り込む新日本プロレス所属選手の戦いぶりを映像素材を借りて放送することも多くなった。特にプロレスリング・ノアやビッグマウス・ラウドといった団体の試合も登場する。最近は放送されるほとんどの大会をHD(ハイビジョン)で収録している。同じ映像素材を使用するBS朝日の『闘魂スーパーバトル』は番組開始当初からHDでの放送であったが、「ワールドプロレスリング」は2007年9月まで4:3SDでの放送であった。同年10月からHDでの放送がスタート。2006年、藤波辰爾主宰の無我ワールド・プロレスリングというプロレス団体が発足。同団体の設立に際し、同年3月に藤波の個人芸能事務所「シーホース・コーポレーション」社が「ワールドプロレスリング」の商標登録申請をした(しかし結果は拒絶査定となっている)。2007年12月よりテレ朝チャンネルにおいて過去の当番組の映像を再放送する「ワールドプロレスリング クラシックス」の放送が開始されたことに伴い、同じテレ朝チャンネルで放送される他の番組でも過去映像の使用が解禁された。これに伴い「上田ちゃんネル」など一部の番組で、過去の試合を振り返る企画がスタートしている。これとは別でスカイ・エースポーツプラスでも「ワールドプロレスリング 不滅の闘魂伝説」を以前から放送している。実況担当アナウンサーに対する因縁や襲撃が多く(例:1999年頃の、真鍋由アナウンサーと大仁田厚の因縁。2011年4月の、飯塚高史による野上慎平アナウンサーへの襲撃)、2012年には、その2件を中心にアナウンサー受難映像をまとめた「ワールドプロレスリング 実況アナウンサー2大受難史 〜飯塚vs野上 大仁田vs真鍋〜」というDVDが発売された。2016年10月1日からの本番組は、アニメ『タイガーマスクW』との連動放送となり、テレビ朝日の土曜26:45 - 27:45はプロレス番組枠となる。試合に出場しない選手をゲスト解説に迎えることがある。※深夜に移行後は、テレビ朝日のアナウンサーが担当する場合がある(過去に実況担当の田畑らが兼ねた例もあった)。上記の演奏者は、レコードのクレジット上のもの。上記は、完全な形でのソフト(音源)化が現在でも成されていない。ワールドプロレスリングで実況を担当したアナウンサーの多くは、テレビ朝日の中核をなすアナウンサーへと成長した。そのなかでも古舘伊知郎が実況を担当していた時期(レギュラーは1979年から1987年3月30日まで。その後、当時猪木の最後の試合になると噂された1988年8月8日の藤波vs猪木のIWGPヘビー級選手権、及び1998年4月4日の猪木引退試合を担当)は、新日本プロレスの隆盛と共に番組の視聴率も最高潮だった。プロレスを「闘いのワンダーランド」と形容するなど、豊富なボキャブラリーを総動員する手法で、数々の名実況を残した古舘はプロレス実況を卒業した後もフリーアナウンサーとしてF1中継の実況やバラエティ番組の司会として大活躍し、プロレス実況経験者アナウンサーしては最も成功した人物の一人になったと言える。しかし、その影響はワールドプロレスリングの後任だけに留まらず各テレビ局(特に民放)のプロレス・格闘技中継の実況アナウンサー、ひいては他の一般的なスポーツ中継の実況アナウンサーにまで及び、常に古舘の実況と比較されるようになった。ワールドプロレスリングに関しては、視聴率の面で苦戦する要因となった。後任の辻義就や藤井暁は古舘と比べられることに悩み、古舘に直接相談したこともあったという。現在に於いても、プロレス・格闘技のみならず、他の一般的なスポーツ中継に於いてまで古舘のエピゴーネンとも呼べる(ある状況や選手個人に対しての過剰とも言えるキャッチフレーズや修飾語句などを連呼したり、場面を問わずに意味もなく絶叫するような)実況が散見され、そのことを批判したり揶揄したりする意見も多い。ちなみに、1982年には局アナの立場でありながらタイガーマスクの応援歌として作られた『燃えろ! 吠えろ! タイガーマスク』を歌っている。これはシングルレコード化されただけでなく、ボーカル入りのバージョンがそのまま、タイガーマスク自身の入場テーマ曲としても使われた。※2015年12月現在※系列は現在の系列。また、テレビ朝日系新局開局やネットチェンジ、電波相互乗り入れに伴う終了は○、現在のネット局から一時期放映権移行を受けて放送していた局は●、放送当時テレビ朝日系列局や他系列とのクロスネット局だった局は△とそれぞれ表記した。地域によっては、一時期他局へ放映権移行が行われ、ネットを開始した放送局に放映権が復帰した地域もあった(太字は一時期ネットした放送局、一時移行先の放送局の系列は当時の系列)。一時期放送していた局の内、山形放送と中京テレビの2局は本番組の中継協力に携わっていた他、『全日本プロレス中継』もネットしていた(中京テレビは両番組とも同時ネットで放送。山形放送は本番組は遅れネットで、『全日本プロレス中継』はローカル枠時代は遅れネットで、ゴールデンタイム時代は同時ネットで放送)。

出典:wikipedia

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