パルマ・デ・マヨルカ()は、地中海に浮かぶバレアレス諸島のマヨルカ島に位置するスペインの都市で、バレアレス諸島の島々で構成されるバレアレス諸島自治州の州都である。言語的にはカタルーニャ語のマヨルカ方言を話す。パルマ・デ・マリョルカ、パルマ・デ・マジョルカなどとも表記される。人口は約40万人で、スペインで8番目に人口の多い都市である。周辺を含めた都市圏の人口は約56万人でマヨルカ島の人口(87万人)の3分の2近くを占める。フェニキア人、ギリシア人が拠点を築いたのち、前2世紀にローマの支配下におかれた。西地中海における交易、軍事の要衝として重要な役割を果たし、いわゆる「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」の時期に繁栄した。4世紀末にローマ帝国が分裂した後は、一時的に西地中海の覇権をおさえたヴァンダル王国によって支配されるが、6世紀になると東ローマ帝国のユスティニアヌス帝がこの地を征服した。その後、8世紀よりイスラーム勢力の支配下に入った。レコンキスタ(再征服運動)の機運が高まる中、イベリア半島南東部(カタルーニャ)でアラゴン連合王国が台頭してくると、地中海進出の第一歩としてバレアレス諸島の制圧を図った。1229年、アラゴン王ハイメ1世は、パルマ・デ・マヨルカを征服してマヨルカ王国を建てた。このことによって、マヨルカ島は再びキリスト教勢力の支配下に戻った。13世紀末にシチリア島で暴動(シチリアの晩鐘事件)が起こった際にアラゴン王国がシチリア島を獲得できたのも、シチリア島への中継地点であるこの島を支配していたことが前提にあった。バルセロナやバレンシア、マグリブ地方、イタリアなどの各地に近いパルマ・デ・マヨルカは交易の拠点として繁栄し、様々な航海・造船技術が開発された。15世紀後半、アラゴン連合王国とカスティーリャ王国の合同によりスペイン王国が成立し、パルマ・デ・マヨルカはスペイン統治下でも重要な役割を担った。しかし、16世紀より地中海でオスマン帝国が台頭し、北アフリカにおけるベルベル人の圧力も強まった。また、大航海時代にともなって貿易の中心が地中海から大西洋に移行したこともあり、徐々にパルマはかつての活力を失っていった。19世紀初頭のナポレオン戦争に際しては、ナポレオンのイベリア半島征服に抵抗する人々が、多くパルマに逃れることになった。第二次世界大戦後には、フランコ政権のもとで観光産業の振興が図られ、観光都市化が進んだ。これにともない、街の人口も急激に増加しており、1900年には6万4千人であった人口が、1960年には16万人、1971年に30万人、そして2011年の40万人と増加した。これらの内約2割は外国人でドイツ、ブルガリア、イタリア、モロッコ、アルゼンチン、ボリビア、コロンビアなどからの定住がある。温暖な地中海気候で冬は気温が約4度Cから15度、夏には18度から31度となる。年間降水量は421mmで、年間の降水日(1mm以上)は51日である。6月から8月にかけてが乾季、9月から12月にかけて降水量が多いが約50mmほどで、最も多い10月でも70mm以下である。地中海西部のバレアレス諸島のマヨルカ島の南西の海岸に位置する都市である。イベリア半島の東岸から約250㎞東にあり、バレンシアから直線距離で約260km、バルセロナから約210kmの距離にある。古代より交易、軍事の拠点として重要な位置を占めていた。第二次世界大戦後より、フランコ政権のもとで観光産業の振興が図られ、年間で300日程度が晴天日という気候にも助けられ、多くの観光客も集める観光都市として成長し、マヨルカ島観光の拠点ともなっている。現在では基幹産業である観光とそれに伴った建設業が経済の2本柱となっている。年間のパルマへの航空便による訪問者は2千2百万人ほどである。ただし、観光産業への特化が進みすぎたため、市財政の多くが第三次産業に依存するようになっており、第一次産業・第二次産業の衰退が深刻化している。約15キロ北のバルデモーサは、フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドが同棲生活を送っていたことでも知られる市の中心部から東5kmに軍民共用のパルマ・デ・マヨルカ空港がある。マドリード空港、バルセロナ空港に次いで旅客数はスペインで第3位。マドリードやバルセロナなどスペイン本土の都市やイビサ島などバレアレス諸島のほかの島、イギリスやドイツなどヨーロッパ各地からの便がある。バルセロナやバレンシアから船で移動することも可能。バルセロナから高速船で約4時間弱。街の中をマヨルカ鉄道などの鉄道が走っており、市民生活の重要な足となっている。公式観光
出典:wikipedia
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