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三枚橋城

三枚橋城(さんまいばしじょう)は、駿河国沼津(現在の静岡県沼津市大手町)にかつてあった日本の城である。永禄12年(1569年)、甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻し、駿河・伊豆国境付近が緊張した際に北条氏により砦が築城された。その後、甲相同盟は再締結されるが、天正6年(1578年)3月に越後国上杉氏の家督争いである御館の乱の影響で甲相同盟は再び崩壊する。これにより武田氏と後北条氏は敵対関係となり、天正7年(1579年)に武田勝頼は駿河・伊豆国境の最前線の拠点として三枚橋城を築城した。信濃国伊那郡松尾城主の小笠原信嶺は天正8年(1580年)に三枚橋城築城に携わり、在番している。信濃国北部の海津城代であった春日信達は、甲越同盟により北信濃の情勢が安定したことを受けて、天正7年3月頃に三枚橋城の城代となっている。『北条五代記』によれば、天正9年(1581年)に春日信達は伊豆国戸倉城代・笠原政清を調略し武田方に寝返らせたという。天正10年(1582年)2月には織田・徳川連合軍の武田領侵攻が開始される2月29日、近傍の武田氏の戸倉城が北条氏の攻撃により落城したことを受け、守備兵が動揺する。3月28日夜に信達は三枚橋城を放棄し、落城した。春日信達は海津城へ逃れており、小笠原信嶺は降伏し、織田氏から本領を安堵されている。ただし、開城した三枚橋城に入ったのは駿河から侵攻してきた三河国の徳川氏であり、松平忠次が城主として入城した。天正18年(1590年)3月津軽為信は小田原征伐で東下する途上の豊臣秀吉にこの城で謁見し所領を安堵される。慶長6年(1601年)に大久保忠佐が城主となり沼津藩主となったが、慶長18年(1613年)忠佐死去後、跡継ぎのいなかった沼津藩大久保家は断絶となり、翌慶長19年(1614年)に廃城となる。旧国道1号沿いに位置していたが、今日では当時の姿を偲ばせるものはほとんどない。但し石垣等の遺構が見つかっていることから、武田氏滅亡後も整備が続けられ使用されたようである。なお、同地付近での建築工事時に見つかった石垣用の石が、沼津リバーサイドホテル前、アゴラ沼津前、沼津城本丸址で見ることができる。

出典:wikipedia

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