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ペンタゴン・ペーパーズ

ペンタゴン・ペーパーズ () とは、国防総省国際安全保障局国際安全保障問題担当次官補のジョン・セオドア・マクノートン(海軍長官就任直前に死亡)が命じて、レスリー・ハワード・ゲルブ(後に国務省軍政局長)が中心になってまとめ、ポール・C・ウォンキ国防次官補に提出された、ベトナム戦争(トンキン湾事件)に関する極秘報告書である。2011年現在では機密指定は解除され、公式サイト等で全文が読める様になっている。正式名称は 「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」である。報告書は47巻構成(資料を含め約100万語)で、ルーズベルト大統領時代にはじまるアメリカ合衆国のインドシナへの政策を網羅している。報告の材料の多くは、ウィリアム・パットナム・バンディ国務次官補(前国防次官補)のファイルから出ていると言われており、ホワイトハウスの動きがあまり盛り込まれていない。報告書は「アメリカは不十分な手段(インフラ未発達な国への兵力の逐次投入)を用いて、過大な目的(共産主義のインドシナ半島全体への拡散の防止)を追求した」と結論づけているが、あくまで目的をどう追求するべきなのかどうか?については、述べられていない。特に「アメリカの帝国主義的野心」は、少なくとも官僚レベルでは存在せず、純粋に共産主義のドミノ理論への恐怖を防ごうとした様に読みとれる。アメリカ合衆国は終始北ベトナムの共産主義的性格にのみに心を奪われ、ベトナムの民族自決主義的・反植民地主義的性格を無視している様である。米国政府は正確な情報(当初20万人規模の軍隊が必要とされた)を知りながら国民に隠し、政府高官はお互いの異なった思惑から、泥沼に引きずり込まれるように介入していった過程が明らかにされている。特に、アメリカ軍約50万人を上限とする政治的限界(予備役招集が越えられない壁だった)と、ベトナム戦争勝利への見通しがないことが明らかになった。この文書から米国民の「信頼性のギャップ」が深まり、後の撤退決断の遠因となった。1971年、執筆者の1人であるダニエル・エルズバーグ(当時シンクタンクのランド研究所に勤務していた)が、アンソニー・ルッソとともにコピーを作成し、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者などに全文のコピーを手渡した。ニューヨーク・タイムズではシーハン記者を中心に特別チームを作り、1971年6月13日から連載記事として報道された。これを受けてワシントン・ポストなども文書を入手し、編集者のバグディキアン(2016年3月11日死亡)らが中心となりペンタゴン・ペーパーズの報道を始めた。マイク・グラベル上院議員も入手した文書を議会で公表に踏み切る。グラベルは当初、フィリバスターの一環として本会議場で読み上げようと試みたが阻止されてしまい、結局はグラベルが委員長を務める外交や国防とは全く関係のない議会上院の建設・土地利用小委員会で委員長権限で全文朗読し、公式記録に記録させている。文書は後に、ボストンの出版社ビーコン・プレス社から全文が出版された。ニューヨーク・タイムズが記事を掲載すると、当時のニクソン大統領は事態を重視、司法省に命じて、記事の差し止め命令を求める訴訟を連邦地方裁判所に起こした。アメリカ政府はペンタゴン・ペーパーズの新聞への掲載を国家機密文書の漏洩であるとし、国家の安全保障に脅威を与えると見なしていた。一審では訴えが却下され、控訴審のワシントン連邦高等裁判所で訴えは認められたが、連邦最高裁判所での上告審では「政府は証明責任を果たしていない」という理由で却下された。この裁判は憲法修正第1条(言論の自由)を巡る問題に関する以後の判例・政府活動に大きな影響を与えた。エルズバーグとルッソは窃盗、情報漏洩などの罪で起訴されたが、後にホワイトハウスの情報工作を担当した「鉛管工(プラマー)」チームが信用を失墜させる目的で、エルズバーグのかかっていたロサンゼルスの精神科医ルイス・フィールディングの事務所に侵入し、カルテを盗もうとした事が、ウォーターゲート事件の余波として判明し、「政府の不正」があったとして裁判は却下された。ニューヨーク・タイムズのスクープからちょうど40年後の2011年6月13日、ペンタゴン・ペーパーズの機密指定が解除され、国立公文書記録管理局などが全文を公式ウェブサイトで公開し、全7,000ページのうち、これまで明らかになっていなかった2,384ページも閲覧できるようになった。

出典:wikipedia

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