奇妙な果実(きみょうなかじつ、原題:Strange Fruit)は、ビリー・ホリデイのレパートリーとして有名な、アメリカの人種差別を告発する歌である。この曲が書かれたころ、まだアメリカ南部では黒人を縛り首にして木に吊るすリンチがしばしば発生した。(※2014年現在でも、黒人が木に吊るされる事件はしばしば発生しており、2013年にもニュースで扱われている。この曲が書かれた頃は、今のように犯罪の被害者としてニュースで扱ってもらえるような人権が、黒人にはなかった。)「奇妙な果実」とは、木にぶら下がる黒人の死体のことである。ビリー・ホリデイは自伝の中で自分も作曲に関わったと主張しているが、実際には作詞者であるルイス・アレンが作曲も1人で行なったことが明らかになっている。 Southern trees bear strange fruit (南部の木には奇妙な果実がなる) Blood on the leaves and blood at the root (葉には血が、根にも血を滴たらせ) Black bodies swinging in the southern breeze (南部の風に揺らいでいる黒い死体) Strange fruit hanging from the poplar trees. (ポプラの木に吊るされている奇妙な果実) Pastoral scene of the gallant south (美しい南部の田園に) The bulging eyes and the twisted mouth (飛び出した眼、苦痛に歪む口) Scent of magnolias sweet and fresh (マグノリアの甘く新鮮な香り) Then the sudden smell of burning flesh. (そして不意に 陽に灼ける肉の臭い) Here is a fruit for the crows to pluck (カラスに突つかれ) For the rain to gather for the wind to suck (雨に打たれ 風に弄ばれ) For the sun to rot for the trees to drop (太陽に腐り 落ちていく果実) Here is a strange and bitter crop. (奇妙で悲惨な果実)「奇妙な果実」は、ニューヨーク市ブロンクス地区のユダヤ人教師エイベル・ミーアポル()によって作詞・作曲された。1930年8月、彼は新聞で(閲覧注意)を見て衝撃を受け、これを題材として一編の詩「苦い果実(Bitter Fruit)」を書き、「ルイス・アレン」のペンネームで共産党系の機関紙などに発表した(ミーアポルはアメリカ共産党党員であり、フランク・シナトラのヒット曲を生みだすなど作詞・作曲家ルイス・アレンとして活躍する一方で、ソ連のスパイとして死刑になったローゼンバーグ夫妻の遺児を養子として引き取るなど、社会活動も精力的に行った)。のちにみずから曲もつけ、共産党や教職者組合の集会で彼の妻が歌うようになったことで徐々に知れ渡っていった。やがてこの歌はグリニッジ・ヴィレッジのナイトクラブ「カフェ・ソサエティ」の支配人バーニー・ジョセフソンの聞き知るところとなり、当時そのクラブで専属歌手として働いていたビリー・ホリデイに紹介されることとなる。あまりにも陰惨な詩なので、ビリーも最初に歌ったときは失敗したと思ったという。歌い終わってもはじめは拍手一つなかったが、やがて一人の客が拍手をしはじめると、突如として客席全体が割れんばかりの拍手に包まれた。クラブの支配人バーニー・ジョセフソンはすぐにこの歌のもつ力を認め、ビリーに対してステージは必ずこの曲で締めるよう説得した。彼女が歌い出すまさにその瞬間、ウェイターは仕事を一時中断し、クラブの照明はすべて落とされる。そして、ピンスポットライトが1本、ステージ上の彼女を照らし出す。イントロの間、彼女は祈りを奉げるように瞳を閉じて佇立するのである。黒人の虐殺が日常茶飯事であったこの当時、それを告発する歌を黒人女性が歌うのはあまりにも危険なことであったが、ビリーは1939年からこの歌をレパートリーに加え、ステージの最後には必ずこの曲を歌うようにさえなる。この歌はやはり黒人であったために非業の死を遂げた父のこと(肺炎を患ったが病院へ入れてもらえなかった)を彼女に思い出させ、それゆえにこそこの曲を歌い続けなければならないと彼女に決心させたとビリーは後に語っている。ビリーと「奇妙な果実」の名はますます広く知れ渡るようになり、ついには『タイム』誌の取材までやって来るようになり、ビリーは同誌に初めて写真が掲載された黒人となる。ビリーはこの曲を録音したいと当時契約していたコロンビアに持ちかけるが、その内容ゆえに会社からは拒否されてしまう。しかしカフェの近所のレコード店の店主ミルト・ゲイブラーの運営するインディー・レーベル「コモドア」での録音を願い出たところ、コロンビアからOKが出たので「奇妙な果実」他3曲をレコーディングし、大ヒットを記録する(「コモドア」では1944年にもレコーディング・セッションを行なっている)。「奇妙な果実」は知識人層からの評価が高く、彼女の名声がこの曲によって確立されたことは疑いようがない。この曲の人気によって彼女はその特長を生かした曲、すなわち愛をテーマとしたスロー・バラードの数々を録音するようになった(「奇妙な果実」は明らかにラヴ・ソングではないが)。この歌はやがて黒人への暴力に対する反対運動を代表する歌となった。この歌詞によって心に植えつけられた暗鬱なイメージこそが、20年後に公民権運動という輝かしい果実を結ぶ種子の一つとなったのである。その後ダイアナ・ロス、ジョシュ・ホワイト()、スティング、ロバート・ワイアット、UB40、トーリ・エイモス、ピート・シーガー、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、カサンドラ・ウィルソン、ニーナ・シモン、ジェフ・バックリィ、コクトー・ツインズ、サウンズ・オブ・ブラックネス、トワイライト・シンガーズ()、インディア・アリー()、あるいはトリッキーによるリミックスなど、多くのミュージシャンがこの曲を演奏しているが、いまなお「奇妙な果実」といえば「ビリー・ホリデイの十八番」との見方を覆すものは現れていない。1939年10月、ニューヨークポスト紙のサミュエル・グラフトンは「奇妙な果実」をこう評した:「南部で虐げられる者の怒りが溢れかえるとき、そこで鳴るラ・マルセイエーズこそこの歌だ」。2002年、「奇妙な果実」はアメリカ議会図書館によってに加えられる50項目の1つとして選ばれた。
出典:wikipedia
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