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国鉄キハ10系気動車

国鉄キハ10系気動車(こくてつキハ10けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1953年(昭和28年)に開発した一般形気動車のグループである。1957年(昭和32年)までに728両が製造され、日本全国で使用された。なお、このキハ10系という呼称は国鉄制式の系列呼称ではなく、同一設計思想に基づいて製造され、後に国鉄によって形式称号の改正が実施された際に10番台の形式名を付与された一連の形式群を便宜的、趣味的に総称したものである。10系気動車に含まれる車両は、広義には、1952年(昭和27年)から1953年にかけ試作された電気式気動車キハ44000系の改造車、1953年に試作された液体式気動車キハ44500形/キハ15形を含む狭幅車体の気動車グループ全体が包括されるが、ここでは、説明の都合上、次表に掲げた新造形式およびその改造車を含む狭義のキハ10系について取り扱うこととする。キハ44000系およびキハ44500/キハ15形、そしてその改造車群については当該各記事を参照されたい。国鉄の量産形気動車としては初めて液体式変速機を実用化し、複数車両の総括制御を容易としたことで、日本におけるその後の気動車普及の途を開いた。一般形気動車の現代に至る運用形態の基本は、本系列を以って確立されたといえる。また、車両の電気系統・編成回路・動力機器の構成も、多くが以降の一般形内燃動車両開発の基本として受け継がれた。日本の鉄道技術史上における重要な系列である。キハ17形が量産グループ最多両数形式であったことから、キハ17系とも呼ばれていた。キハ40系気動車(2代)の配備とともに始まった本系列の急速な淘汰の中でも、「単行運転」の可能な両運転台の各形式の一部が遅くまで温存され、私鉄への譲渡やローカル線ブームでファンに注目され始めたこと、また、これを取り上げた鉄道趣味誌が、キハ09形(初代)やキハ15形など試作車改造グループから転用された郵便・荷物などの合造車をも併せ、車体幅の狭い初期の一般形気動車を広義(後述)に「10代形式気動車」と呼び始めたことなどから、1970年代末を境に10系の呼称が広まり、定着していった。※旧形式は1957年の称号改正以前の形式。( )内は計画数。1953年(昭和28年)に液体式試作気動車として開発されたキハ44500形の実績を基に開発され、車体の大きさや性能もほとんど同一である。従って車体断面は標準的な電車や客車より小さく、軽量化が徹底されていた。液体変速機による総括制御編成運転を前提に全車貫通構造を標準化したこと、車体中央部両壁面に排気管を通した屋上排気方式を採用した点は、先行してアメリカ合衆国の鉄道車両メーカー・バッド社が1949年から量産化していた気動車「RDC」()の影響とも指摘されている。鋼板および鋼板プレス材により構成された軽量構造である。車体重量を可能な限り軽量化するために車体断面を小さく設計されており、当時の電車や客車に比べても車体幅が小さい2,600mmである。設計全般には、当時の車両火災などへの考慮から、難燃・不燃材料などが多く取り入れられている。側面レイアウトは中・長距離客車列車の置き換えを想定した2扉構成で、先行して製造された電気式気動車キハ44100形に近い。最大の特徴は、正面貫通式運転台を採用したことである。運用にフレキシビリティを持たせるためで、以後の国鉄気動車は特急形も含めほとんどがこれを踏襲し、結果1両単位での自由な増解結が可能となり、車両運用上多大な利便性を有することになった。側面形状は車体両端にステップ付の客用ドアを配置し、客室側窓は1953年製のキハ44000形2次車と同様、上段をH断面ゴム(Hゴム)支持固定、下段を上昇式とした、いわゆる「バス窓」である。窓下には補強帯(ウインドウ・シル)を備えた古い形態を残す。車体中央部壁の面に排気管を立ち上げる屋上排気方式を標準とした。落成当時の塗色は青3号■(腰板、幕板)と黄かっ色2号■(窓周り)の塗り分け(旧一般色)であったが、1959年以降は朱色4号■(腰板、幕板)とクリーム4号■(窓周り)の塗り分け(新一般色)、1976年以降は残っていたものが朱色5号■の1色塗り(首都圏色)となった。ただし、一時的にはクリーム2号■に赤2号■の帯を窓下に入れた準急色となった車両や、赤11号■(窓周り)とクリーム4号■の急行色となった車両もあった。内装はベニヤ板に耐火塗料を塗布した簡易なもので、照明は白熱灯であり、扇風機は設置されていなかった。客用扉は地方線区向けであることを考慮して、閉じるときにのみ自動で動作する半自動ドアであった。このドア閉動作は運転台からの総括制御により、編成全体で動作した。座席は当初、機械式気動車や電気式・液体式試作気動車同様に背ずりの低い簡易なタイプで全クロスシートであった。しかし、これでは居住性が悪いため、1954年(昭和29年)途中から製造されたものは背ずりが高くなり、車端部にはロングシートを設置してラッシュ時に対応している。初期型の一部にはドア付近のクロスシートを撤去して立席を広げたものがあった。それでも地方線区の普通列車用であるため肘掛けは省略され、背ずりも軽量化のために中板がなく、枠が詰め物を囲うだけの簡易な構造とされ、背中合わせに座った客の動きが互いに伝わってくるという、極めて粗末な代物であった。布団上掛けは同時代のバス同様にビニールシートが使われていたが不評で、後にモケット張りに改められた。車幅が狭いことからゆとりも少なく、台車構造の欠陥も伴って乗り心地は良くなかった。便所設置車はその水タンクを客室内に置いている。両運転台のキハ11・12形ではスペース節減のため、便所を運転台助士席側直後に半分めり込ませたようなレイアウトを採り、かつ、便器をトイレ内の対角線に沿って配置している。もっとも、キロハ18形については二等客室に座席ピッチの広い固定クロスシートを配置し、便所の他に独立した洗面所も設けている。なお、キハ10系は運転席周りの前後スペースが窮屈で移動しにくかったため、特にその初期に見られた準急列車・快速列車運用では、タブレット閉塞区間の通過駅で運転台側(進行方向左側)が通過ホームとなる場合、二人乗務した運転助士がタブレット授受に難渋を強いられたという。この問題を避けるため、気動車不足であった1950年代末期の気動車準急列車には、運転席後方にゆとりを持たせ乗務員がタブレット授受をしやすい準急形のキハ55系を手配して先頭に連結、中間車は格下のキハ10系で間に合わせるという、竜頭蛇尾な混成編成も関西本線などで見られた。客室暖房用に搭載された暖房装置は当初、走行エンジンの排気ガスを熱交換器(ヒートエクスチェンジャー)に導き、車内空気を熱する排気暖房であった。これは戦前の機械式気動車以来の方式であったが、非常に効率が低く実用性を欠いた。このため1954年以降、軽油燃料による独立した温気暖房装置(温風式、いわゆる石油ファンヒーターの一種)を搭載する方法に方針を転換した。三國商工がドイツのヴェバスト()社から技術導入した「三國ヴェバスト式」、または類似設計で五光製作所が製造した「五光式」のいずれかの温気暖房装置を搭載し、暖房性能を著しく改善している。温気暖房方式は以後1960年代前半まで、国鉄一般形気動車の標準的な暖房方式となった。また当初は運転台周囲の暖房装備も不十分で、運転士の作業環境に難があり、後年改良が図られている。DMH17B形ディーゼル機関(160PS/1,500rpm)にTC2液体変速機とDT19形台車を組み合わせている。変速機は後にDF115も用いられた。エンジンと変速機は車体床下に吊り下げられた機関台枠に搭載されており、ここから取り出された動力は、プロペラシャフト(ユニバーサルジョイント)、ギアボックスと一体化の上で台車のトランサム(横梁)に2本の平行リンクで結合して支持される、ベベルギアと平ギアによる逆転機、およびこれと一体化された平ギアによる最終減速機を経て、台車の車体中央寄り1軸を駆動する構造であった。この基本構成、特に逆転機の支持機構は戦前の日本において気動車開発で最先端を走っていた日本車輌製造本店が1920年代末期に考案し、国鉄ではキハ36900形で初採用したものである。これはその簡潔にして合理的な構造ゆえに、日本の気動車における駆動システムの標準方式として国鉄・私鉄を問わず広く普及し、1960年代末に2軸駆動のために逆転機を最終減速機と分離した新系列気動車が誕生するまでの、日本で製作されたボギー台車を装着する機械式気動車と液体式気動車のほぼ全てに採用され、21世紀に入った現在もなお、その一部が引き続き使用され続けている優れた設計である。もっとも、その反面構造上の制約から2軸駆動が困難という問題があり、本系列でも1台車1軸駆動が踏襲されている。本系列の台車は、キハ44500形で採用されたDT19・TR49台車が引き続き採用された。これらは、電気式のキハ44000系用として開発されたDT18を祖とする、鋼板をプレスした部材を溶接して組み立てられた台車枠と、ゴムブロックを枕ばねに用いた、近代的な構造の軽量台車であった。軸ばねはヤジロベエ式に中央で釣り合いを取る下天秤ウィングばね構造で、これは汽車会社が京阪電気鉄道や南海電気鉄道向けに納入した高速電車用新型台車で先行採用して実績を積んでいた方式であった。これに対し、ゴムブロックによる枕ばねは当時の自動車や鉄道車両でゴムばねの採用例が生じていたことに影響を受けての採用であり、いわば時流に乗ったかたちとなった。ゴムばねは金属ばねと比べた場合、一般に軽量である。また圧縮されるとばね定数が上がる非線形特性を持ち、自己減衰作用も高く、振動周期も短いなど、一般の金属ばねと異なった特徴を備える。しかし、これらの特性は枕ばねよりはむしろ軸ばねへの採用に適したものであり、自動車でのゴムばねはサスペンションスプリングとしては普及せず、コンプライアンスブッシュとして進化していった。実際、乗り心地を支配する枕ばねにゴムブロックを用いたこれらの台車では、DT19・TR49の設計時に金属ばねとの違和感を低減するため、軸ばねの容量を大きくするなどの対策を講じたが、過積載時の安全率を見込む必要からむやみにばね定数を下げることも出来ず、いずれも乗り心地はやや硬めで低速域、特に制動時に早い上下動を伴うものとなり、貧弱な座席ともども評判は芳しいものではなかった。このためか、後に一般用気動車の標準台車となったDT22・TR51に交換された車両が一部に存在するが(後述の南部縦貫鉄道へ譲渡され、廃線後保存されたキハ104号もその一つ)、大半はDT19・TR49装備のまま廃車まで使用された。最後まで営業運転に用いられていた茨城交通の車両も台車はDT19・TR49のままであったが、レジンシューが採用されたため、制動時の振動問題についてはやや改善されていた。ブレーキはキハ44000形以降のシステムを踏襲し、電車用(Aブレーキ)や客車用(AVブレーキ)として一般的であったA動作弁(鉄道省により1929年制式採用)を使用する元空気溜管式自動空気ブレーキを気動車用とした、DAブレーキ(運転台付きの車両はDA1、運転台無しの車両はDA2)が採用された。これは戦前から国鉄機械式気動車で標準的に使用された直通ブレーキ・自動空気ブレーキ兼用のGPSブレーキでは3両編成が上限となり、それ以上の長大編成での運用を想定する本系列などでの使用には適さないと判断されたために採用されたものである。もっとも新規とはいってもブレーキ制御弁はM23弁、三動弁もA動作弁と機器の各構成要素は電車用Aブレーキと同一であり、実質的にはAブレーキに、気動車用としての名称を与えたに過ぎない。また、A動作弁そのものは1931年のキハニ36450形でGA1として既に採用実績があり、その意味ではようやく1930年代初頭の電車に仕様が追いついた、と見ることができる。ブレーキシリンダについては従来同様の車体装架式であるが、ロッドを介し1シリンダで1台車を制動する1両2シリンダ仕様とした。1949年(昭和24年)設計の80系電車等と軌を一にした保安性配慮の改善である。また、編成各車に搭載の空気圧縮機の負荷分担を均等にするため、アンローダ弁を一斉制御する機能が付加されている。本系列で確立されたこれらの基本仕様は、以後、空気ばね台車装備(台車装架シリンダ仕様)の車両を除くDMH17系エンジン搭載の国鉄液体式気動車のほとんどに踏襲された。キハ10系の量産新製グループの特徴として、系列内の片運転台車の比率が非常に高く、後続系列ではほとんど見られない運転台なし中間車も存在する点が挙げられる。開発時は総括制御機能を活かし、従前の客車列車編成をも置き換えられる長編成組成での運用を想定していたことによる。実際に運用すると、機動性確保の面から運転台を減らし過ぎた車種構成は得策でないと判断され、遅れて両運転台車が新たに製造された。後続の一般型気動車の多くはこの経験により、機動性の高い両運転台車に重点を置いて増備されることが通例となった。1953年の計画時点では、三等座席と郵便室・荷物室の合造車である片運転台車「キハユニ48000形」や、両運転台の郵便荷物合造車「キユニ48100形」も企画され、特にキハユニは車端の荷物室側を非貫通構造にする予定であったが、旅客車両の気動車化を優先するコスト配分方針から、これらの新製は取りやめられた。このため、当面の郵便・荷物輸送は気動車投入路線に一部残存させた蒸気機関車牽引列車に集約することで対処し、後年、電気式気動車改造車など初期試作車の改造や、大型車体の新車投入で捻出されたキハ10系量産グループ自体の改造などで、合造気動車を充足している。キハ10系(キハ45000系)の新製形式は、以下に示す9形式である。キハ17形は、便所付き片運転台車で、1953年から1957年にかけて402両が製造された本系列の基幹形式であり、日本初の本格的量産型液体式気動車である。北海道を含む日本各地に配置・運用された。初期車は全座席がボックス式クロスシートであったが、1954年製の206以降は、乗客の乗降の円滑化を図るため、客用扉付近のクロスシートがロングシートに変更されるとともに、シートの背ずりが高く改良された。また、1956年製の321 - については、車体強度の向上が図られた関係で、トイレの窓がHゴムによる固定式となり、トイレおよび水タンク室の補強帯(シル・ヘッダー)が省略され、客室幅が12mm広げられた。客室の拡幅に関する設計変更は、同時期に製造されていた他形式でも行われている。形式間改造については、11両がキユニ17形に、5両がキニ17形に改造された。老朽廃車については1973年から始まり、1981年までに全車が除籍された。うち4両が島原鉄道に譲渡されたが、1986年までに全廃されている。キハ16形は、便所なし片運転台車で、1954年から翌年にかけて99両が製造された。日本各地に配置・運用された。車内は全車がキハ17 206 - と同様の、客用扉付近にロングシートを配した背ずりの高いタイプとなっている。定員は106名(座席82人、立席24人)である。形式間改造については、8両がキハユニ18形に改造され、そのうち6両がキユニ18形に再改造されている。廃車は1974年から始まり、1980年までに全車が除籍された。うち4両が島原鉄道に譲渡されたが、キハ17形と同じく1986年までに全廃されている。キハ10形は、便所なし両運転台車で、1955年から1957年にかけて70両が製造され、北海道を除く日本各地で使用された。定員は92人(座席76人、立席16人)である。形式間改造車はない。老朽廃車は1975年から始まり、1981年までに全車が除籍された。両運転台車で便所が無く短距離路線での使い勝手がよいことから地方私鉄への譲渡も多かった。7両を譲受した水島臨海鉄道を筆頭に、南部縦貫鉄道(1両)、鹿島臨海鉄道(2両)、筑波鉄道(1両)、加悦鉄道(1両)の計12両が譲渡されている。キハ11形は、便所付き両運転台車で、1955年から1957年にかけて74両が製造された。このうち48016 - 48026の11両は、寒地向けの耐寒耐雪装備で北海道に新製配置されており、1957年の改番の際は100番台(101 - 111)に区分された。定員は88人(座席74人、立席14人)である。外観上の特徴として、客用扉下部の明かり窓が無いことがあげられる。これは、この後北海道用として造られたキハ12、キハ21、キハ22、キハユニ25の各形式にも引き継がれており、同様に明かり窓は無い。北海道地区配置の100番台車は道北など酷寒地での液体式気動車運用の試金石となり、冬期の積雪時でも液体式変速機のトルク増大能力と小型スノープラウによる軽排雪能力によって気動車運行が可能であることを立証した。しかし、耐寒性が不十分であり、耐寒耐雪性能を強化したキハ12形が後を追って製造されたため、程なく道外(弘前で五能線、広島で芸備線)に転用された。形式間改造としては、1965年(昭和40年)度に2両、1968年(昭和43年)に1両の計3両がキユニ11形に改造されている。老朽廃車は1975年(昭和50年)から始まり、1980年(昭和55年)までに全車が除籍された。私鉄へは、津軽鉄道へ2両、茨城交通へ3両が譲渡されている。茨城交通に譲渡された3両は20世紀の終わりまで揃って使用された。1両(キハ111。国鉄時代の旧番号はキハ11 19。廃車後は阿字ヶ浦駅で海水浴客の更衣室として使われた)は映画『鉄道員』撮影用のカットボディとして解体、1両(キハ113。旧番号はキハ48036→キハ11 26)は廃車後、キハ48036として佐久間レールパーク→リニア・鉄道館に収蔵・展示、残る1両(キハ112。旧番号はキハ48035→キハ11 25)については21世紀に入っても車籍を保って営業運転に充てられたのち、キハ11 25として2007年(平成19年)10月14日に開館した鉄道博物館に収蔵・展示されている。津軽鉄道に譲渡された2両のうち1両(キハ24025。国鉄時代の旧番号はキハ11 31)は廃車後、車体部分を解体され、台枠以下はカラオケボックスの基礎として使われた。もう1両(キハ24026。国鉄時代の旧番号はキハ11 32)は、2006年(平成18年)12月まで津軽中里駅の側線に保管されていたが、2007年1月現在解体中である。キハ12形は、酷寒地向けの便所付き両運転台車で、1956年に22両が製造され、全車が北海道内で使用された。キハ11形100番台との相違は、側窓が二重構造となったことである。当初は、デッキ部の仕切り壁は設置されていなかったが、後年の改造により設置された。定員は、基本的な車体構造が同じキハ11形と同一である。老朽廃車は1976年から始まり、1980年までに全車が除籍された。形式間改造車および譲渡車は存在しない。浅田次郎の小説『鉄道員(ぽっぽや)』に本形式の続番となるキハ12 23を名乗る車両が登場する。この小説の映画化に際し、撮影用にキハ40形気動車を改造した。詳細については「国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形700番台」も参照されたい。なお前述の通り、運転台のシーンでは茨城交通のキハ111のカットボディが使用されている。キハ18形は、便所なし中間車で、運転台を装備していない。1953年から1954年にかけて31両が製造された。多客期には北海道に渡るなど、日本各地で使用された。キハ17形と同様、1953年度製造車(1 - 15)はオールボックスシートであったが、1954年度製造車(16 - 31)は客用扉付近をロングシートとしており、定員と窓割りが異なる。外観上も1954年度製造車は戸袋窓が設けられており、1953年度製造車とは異なる。編成運転を前提に製造された形式であったが、運転台を持たないため、運転台装備車と連結しなければ自走での入換作業すらできず、機動性に乏しいという欠点があった。以後の国鉄では、優等車もしくは特急形を除いて、気動車の中間車は新製されなかった。運用上の制約の多い中間車ではあったが、形式間改造はキハニ15形への1両のみであり、老朽廃車は1974年から1979年にかけて行われた。私鉄への譲渡車はない。キロハ18形は、一般形気動車としては唯一の優等車(二・三等合造)で、便所・洗面所付きの中間車である。1954年に1次車(1 - 5)、1956年に2次車(6 - 8)の計8両が製造された。2次車は、二等室に扇風機を設置したため、その取付け部が屋根上に張り出している。定員は、二等32人・三等62人(座席44人、立席18人)である。1次車の5両は千葉地区への液体式気動車大量投入に際して製造されたものであるが、これは国鉄が本来企図したものではなかった。千葉県庁と千葉市役所から「気動車にも二等車を連結されたい」という強い圧力があり、やむなくこれに対処したものであるという。2次車の3両は当初関西本線準急列車向けに増備されたもので、扇風機装備は長距離優等客への配慮である。当初は2基エンジンのキハ50・51・55と編成を組み、都市間連絡準急として運用され、名阪間(名古屋 - 湊町間)を競合他線と比べ最も速い所要時間で結んでいた。二・三等合造車であることから、当初は各地の準急列車に起用されることも多かったが、幅の狭い小型車体で二等室も固定クロスシートであるなど居住性(と台車枕バネに起因する乗り心地)が悪く、優等列車での使用には基本的に無理があったため、準急形気動車キハ55系の本格的な二・三等合造車キロハ25形が登場すると準急運用から外され、1961年にキハユ15形へ6両、キニ15形へ2両が改造されて形式消滅した。キハユ15形については、5両がキユニ15形に再改造されている。キハ50形は、便所なしの片運転台車で、定員は110人(座席92人、立席18人)である。勾配線区向けの強力(エンジン2基搭載)形気動車の試作として1954年に2両が製造されたものである。キハ45000形よりも後に計画・設計された形式であるが、試作車であったことから、液体式気動車の試作車であるキハ44500形(キハ15形)の続番となるキハ44600形とされた。エンジン1基搭載の気動車は急勾配区間では出力不足で十分な走行性能を得られないため、DMH17B形エンジンを2基搭載、各台車の内側軸を駆動することで総出力320PSの2軸駆動としている。しかし、本系列で標準の縦形直列8気筒のエンジンと液体式変速機、、ラジエーター、推進軸、逆転機を2セット、そのままタンデムに並べて装架したことから床下スペースが不足し、これを補うため最大長22,000mm、台車中心間は15,700mmという長大な車体となった(通常型気動車に比して2m長い)。車体断面はキハ45000形をそのまま踏襲したため、極端に細長い外見となっている。勾配路線での走行性能は確保されたものの、規格外の長大な台車中心間隔から、分岐器の通過時に両台車の内側車輪がともに轍叉桿(Detector Bar:分岐器通過中に誤転換が発生しないようにするためのメカニカルストッパーによる保安装置)を跨ぎ越してしまうタイミングがあって、これが原因で分岐器通過中の誤転換から脱線事故へつながる危険があった。そのため、本形式は特に分岐器の改修を実施し轍叉桿を延長することで対処した関西本線などに運転線区が限定されることとなった。もっとも、エンジン2基搭載の強力車としては計画通りの性能を発揮し、量産車であり推進軸や逆転器回り、それに冷却装置の設計変更で車体長短縮を実現した、キハ44700形以降の開発に貴重なデータを提供した。1961年にエンジン・変速機・推進軸・逆転器を1セット下ろしてキハユニ17形に改造、形式消滅となった。キハ51形は、キハ50形の試用実績に基づいて製作された強力形気動車の量産型で、1955年から1956年にかけて20両が製造された便所付きの片運転台車である。キハ50形では車体が長すぎて運用に支障を生じたことから、床下機器配置が見直され、プロペラシャフトの短縮、ラジエーターの小型化などの措置が行われている。この結果、最大長は20,600mm、台車中心間は14,300mmに縮められ、運用線区の制約がなくなった。定員は92人(座席80人、立席12人)で、便所が設置された。1950年代後半には、準急形であるキハ55系の開発・製造が需要に間に合わなかったことから、出力の余裕を買われて関西本線などで準急列車に用いられたこともあったが、主に本州内の勾配路線(御殿場線など)で普通列車に運用された。1965年には4両がキニ55形に改造された。1エンジン車の他形式とは異なり、非力なキハ40系ではその運用を代替できなかったことから廃車が遅れ、キハ58系が普通列車に転用されるようになった1980年から1981年にかけて除籍された。本系列の気動車は、非電化ローカル線の無煙化(蒸気機関車の追放)を促進し、速度向上やフリークエントサービスを実現、1950年代における国鉄の近代化に貢献した。特に無煙化と速度向上の効果は大きく、日本各地の鉄道沿線から気動車導入の要望が続出し、本系列の導入計画路線を巡って政治贈賄事件も起こったという逸話もある。しかしキハ10系は、軽量化の要求から車体寸法が小さく居住性に難があったため、後継形式のキハ20系が普通の客車と変わらない車体寸法で製造されるようになると、早々に陳腐化した存在となった。そこで、余剰となった本系列気動車の郵便車、荷物車、あるいは、これらとの合造車への改造が多数実施されている。形式としては、次の11形式があげられる。キハユ15形は、1961年にキロハ18形を改造した二等郵便合造車である。種車の便所・洗面台部分を運転室に改造し、旧一等室部分を郵便室とした。郵便室部分の側面には幅1,000mmの荷扱い用扉が設置され、側窓も1か所を残して埋め込まれた。前面は切妻のままで、非貫通構造となった。前面窓は独特の連続窓とされている。郵便室の荷重は5tである。多度津工場で6両が改造されたが、運用上の問題から1963年から1964年にかけて5両がキユニ15形に再改造されている。残った4は関西本線・和歌山線などで使用されたが1978年に廃車され、形式消滅した。キハユニ17形は、1961年にキハ50形を改造した二等郵便荷物合造車である。改造の際に2基搭載していたエンジンのうち1基を取り外し、車体の前半分を運転台側から荷物室、郵便室として、従来の客用扉を埋め込みそれぞれに幅1,000mmの片引戸を設けている。郵便室、荷物室の荷重は、各3tである。名古屋工場で2両が改造され、越後線ほかの郵便荷物輸送改善を目的として新潟地区に配置された。2は1964年6月16日に発生した新潟地震の際に、落下した陸橋の下敷きとなり大破、廃車となった。残った1はのち厚狭機関区に転じ、美祢線ほかで運用されたが、1980年に廃車され、形式消滅した。キハユニ18形は、1966年から1967年にかけてキハ16形を改造した二等郵便荷物合造車である。車体の前半分を運転台側から荷物室、郵便室として従来の客用扉を埋め込み、それぞれに幅1,000mmの片引戸を設けている。郵便室の荷重は1t、荷物室の荷重は3tである。新津(現・総合車両製作所新津事業所)・郡山(現・郡山総合車両センター)・土崎(現・秋田総合車両センター)・後藤(現・後藤総合車両所)・幡生(現・下関総合車両所)の各工場で8両が改造され、各地に配置された。うち6両が1969年から1972年にかけてキユニ18形に改造されている。残った2両(3・6)は、それぞれ1975年と1979年に廃車されている。キハニ15形は、1964年にキハ18形を改造した二等荷物合造車である。種車は中間車であるため、種車の切妻車体のまま貫通型の運転台を設置し、前位寄り半室を荷重5tの荷物室とした。荷物室には、幅1,000mmの荷扱い用片引戸が設置されている。高砂工場の改造で、当初は和歌山機関区に配置されたがすぐに新潟運転所へ移り、1978年に廃車となった。キユニ11形は、キハ11形を改造した郵便荷物合造車で、1965年度に2両が小倉工場で、1967年度に1両が幡生工場で改造された。1965年度改造の1, 2は0番台の、1967年度改造の3は100番台の改造車で、本系列の改造車では唯一の両運転台型である。どちらのタイプも基本的な車体形状は変わらず、従来の客用扉はすべて埋め込まれ、車体の前位寄りを郵便室、後位寄りを荷物室とし、郵便室には幅1,000mmの片引き戸を、荷物室には幅2,000mmの両引戸を設けている。1・2は当初は千葉気動車区に配属されたが、房総地区各線の電化により1が岡山気動車区、2が豊岡機関区に転属後、1980年に廃車。3については、広島機関区に配置され1981年に廃車されている。キユニ15形は、1962年度にキハユ15形を再改造した郵便荷物合造車で、多度津工場で5両が改造された。従来の二等室を荷物室としたもので、荷物室には幅2,000mmの両引戸を設けているが、従来の客用扉も存置されている。高松運転所に配置されていたが、1978年から1981年にかけて廃車された。キユニ17形は、キハ17形を改造した郵便荷物合造車で、1966年 - 1970年にかけて11両が改造された。改造時期により、1・2(0番台)と、11 - 19(10番台)に大別される。0番台は、1966年に多度津工場で改造されたもので、前位に荷重3tの郵便室、後位に荷重4tの荷物室を設けており、郵便室は幅1200mmの両引戸、荷物室には幅2000mmの両引戸を設けている。後位の客室扉は存置され、事務室が設けられている。落成後は四国に配置されたが、後に1が北海道に転じて耐寒設備を装備している。10番台は、1967年から1970年に多度津工場および幡生工場で改造されたもので、後位の事務室を縮小して荷物室の荷重を5tとしている。基本的構造は0番台と同じであるが、後位客用扉は埋め込まれ、幅700mmの開き戸となっている。また1970年改造の19は、郵便室幕板に採光窓を設置している。廃車は、1977年から始まり1982年廃車の19をもって消滅した。キユニ18形は、キハユニ18形を再改造した郵便荷物合造車で、幡生工場で6両が改造された。改造時期により形態が異なる。1969年に改造された1・2は、車体の前位を荷重4tの郵便室に、後位を荷重5tの荷物室に改造しており、旧荷物室の扉は、郵便室用の幅1,200mmの両引戸に改められ、荷物室用には幅1,800mmの両引戸が設置されるとともに、後位に便所と事務室を新設している。1971 - 1972年に改造された3 - 6は、1・2とは設備の配置が逆になっており、前位が荷物室、後位が郵便室となった。事務室についても運転台直後に移されている。荷扱扉は荷物室が幅1,800mmの両引戸、郵便室は幅1,200mmの両引戸で、郵便室の幕板に採光窓が2つ設けられている。改造後は1・2が米子機関区、3が遠軽機関区、4 - 6が岡山気動車区に配置されていたが、廃車まで移動することなく1979年 - 1981年に廃車された。キニ15形は、1961年にキロハ18形を改造した荷物車で、多度津工場で2両が改造された。運転台の形状は、キハユ15形と同様であるが、本形式の運転台はキハユ15形とは反対側の旧三等室側に設けられている。そのため、後位側車端には便所と客用扉が残っている。荷物室用の扉としては、幅2,000mmの両引戸が2か所に設けられ、荷重は11tである。改造後は高松運転所に配置され、廃車まで異動することなく1が1981年、2が1979年に廃車となっている。キニ17形は、キハ17形を改造した荷物車で、多度津工場で1966年に4両、1967年に1両の計5両が改造された。後位側車端には便所と客用扉が残され、荷物室用の扉としては、幅2,000mmの両引戸が2か所に設けられており、荷重は11tである。改造後は高松運転所に配置され、廃車まで異動することなく1982年に廃車となっている。キニ55形は、キハ51形を改造した荷物車で、多度津工場で1965年に4両が改造された。従来の客用扉はすべて埋め込まれ、幅2,000mmの両引戸が2か所設けられた。車体が長い分、荷物用扉間の窓がキニ17形より1個多い3個となっており、荷重も1t多い12tである。改造後は水戸機関区に配置され、常磐線の荷物列車として使用された。前年に1エンジンのキニ16形が就役していたが、高密度ダイヤの常磐線での運用は出力不足による加速力不足が問題となった。このため代替車として2エンジンのキハ51形を種車にした本形式が充当されたものである。本形式は、キハ10系としては最も遅くまで使用され、廃車は1984年であった。キハ45000系が量産された1953年から1957年にかけての時期には、私鉄各社が気動車の新造を再開していたが、さまざまな事情から本系列の設計を採用した私鉄向け気動車は以下の2例に留まる。1953年に日本車輌製造・帝國車輛工業でキハ4501 - 4503・4505の4両を製造。DMH17BエンジンにTC2液体変速機、それにDT19・TR49台車と、同年製造のキハ45000(キハ17)形の機構をそのまま導入した。もっとも、車体は構造面では同形に準ずるものの、外観はむしろ前世代のキハ44500形を両運転台化したものに近く、窓配置d1(1)D8D(1)1d(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)で妻面デザインは2枚窓のいわゆる「湘南型」となっていた。1954年8月に川崎車輛でキハ301 - 303を製造。キハ48010(キハ10)形に類似の両運転台車であるが、本形式製造の時点ではキハ48010形第1陣は竣工しておらず、キハ45500(キハ16)形をベースとして、これを単純に両運転台化して設計された。このため車体長がキハ48010形よりも30mm短くなっているほか、窓配置も微妙に異なる。また、台車はDT19・TR49で国鉄仕様と同等であったが、新造時には三菱重工業DH2L-Pエンジンに新潟コンバータDB115液体変速機を搭載し、後にDMH17Cエンジンと振興造機TC2液体変速機という標準的な組み合わせに変更された。南薩鉄道が鹿児島交通に社名変更した後も形式名は引き継がれ、1984年の枕崎線廃線まで使用された。なお、鹿児島本線伊集院駅 - 西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)への直通乗り入れ運転にも充当されたため、中途から国鉄型ATSを搭載した。

出典:wikipedia

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