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片桐且元

片桐 且元(かたぎり かつもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。賤ヶ岳の七本槍のひとり。豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降も、傅役として豊臣秀頼に仕えていたが、徳川家康に協力的な立場で、方広寺鐘銘事件で大坂城を退出して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。天正12年(1584年)における小牧・長久手の戦いの6月5日付けの陣立書まで確認できるように、豊臣秀吉からは長らく助作(助佐)と呼ばれていた。翌天正13年(1585年)7月1日、従五位下・東市正に任じられた際より、直盛の使用が確認される。且元の使用は、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの始まる前の頃と考えられている。この記事においては便宜上、名を且元に統一する。近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市須賀谷)の浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男として、弘治2年(1556年)に生まれた。母は不詳。信濃源氏の名族である片桐氏は、伊那在郷の鎌倉御家人だったが、本流が片桐郷に残る一方で、支流は承久年間以降に美濃・近江に進出。戦国大名化した浅井氏に仕えるようになったのは直貞の代からという。須賀谷は浅井氏の本拠地・小谷城と山続きで、同城の支城の一つとして機能するとともに、温泉が湧出するために湯治場としても利用されていた。元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃で、小谷城は陥落した。落城前日(8月29日)の日付の浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現存している。この事から、17歳の且元も一貫して浅井方として戦い、そして幼き頃の浅井三姉妹や大野治長兄弟らと共に、落城を経験したと考えられる。且元が家督を継いだ時期は定かではない。羽柴秀吉は、浅井氏に変わって長浜城主及び北近江3郡の領主となり、多くの人材を募っていた。且元は、天正2年(1574年)以降から天正7年(1579年)までの間に、同じく近江国生まれの石田正澄・三成兄弟と同じように若くして秀吉に仕官した。毛利輝元に対する中国攻めにも従軍していたと考えられる。天正11年(1583年)5月、信長死後に秀吉と対立した柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(近江国伊香郡)で福島正則や加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍のひとりに数えられた。この時、秀吉から戦功を賞されて摂津国内に3千石を与えられた。天正12年(1584年)6月、小牧・長久手の戦いに従軍。陣立書から他の七本槍と共に馬廻衆として150人を率いて本陣を守っていたと考えられる。天正14年(1586年)7月1日、従五位下東市正(ひがしのいちのかみ)に任官され、この時に豊臣姓を下賜された。同年、方広寺大仏殿の建設で作事奉行を務めた。(後年の再建工事でも且元が作事奉行を務める。)以後奉行として活躍し、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わっている。また所領のあった摂津国を始め、秀吉の支配領域の拡大に伴い、丹波国、大和国、伊予国など各地で、小堀正次、浅野長政、福島正則などと共に、検地奉行に携わるようになる。天正15年(1587年)の九州征伐に従軍し、軍船の調達を担当。天正18年(1590年)の小田原征伐の従軍。脇坂安治や徳川家臣と共に小田原城の接収に立会い、早川長政と共に鎌倉の鶴岡八幡宮の修復造営手配と所領安堵及び検地を行った。奥州仕置では出羽国秋田での検地の他、浅利事件の調査に関わり、当事者の上洛を差配し、長束正家らに裁定を委ねた。天正19年(1591年)、秀吉の三河吉良での狩猟に随兵。秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では弟・貞隆と共に出征。宮城豊盛と共に先発して街道の整備を行ったが、備前国より軍勢の延滞があったために、海路用の船の調達を指示されている。手勢はわずか200であったが、釜山(現在の釜山市)昌原城(馬山城)に駐在し、秀吉からの一揆衆のなで斬りや街道普請などの指令を取り次ぎ、2度の晋州城の戦いなどに参加した。文禄2年(1593年)、講和に向けた休戦により9月から10月に帰国した。文禄3年(1594年)、伏見城普請を分担。同年の文禄検地においては、摂津国、河内国北部の奉行となった。文禄4年(1595年)、播磨国内などに5,800石を加増され、本知の4,200石と併せて1万石となった。この所領は播磨、摂津、伊勢に点在していた。文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震以降は、その復興事業に関連した大坂の都市改造計画にかかわっていたと見られる。慶長3年(1598年)3月15日の醍醐の花見では三の丸殿に随従。御輿添頭(おこしぞえがしら、警護役)にあたった。同年8月15日、小出秀政らと共に秀頼の傅役(輔佐役)5名の1人として指名され、大坂城番の城詰めとして近侍することになった。慶長4年(1599年)1月10日、豊臣秀頼が五大老・五奉行に伴われて伏見城から大坂城に遷った際、自邸の無い徳川家康は伏見城に戻るまで、且元の屋敷に2泊している。以後ふたりは連絡を取り続けていくことになる。慶長5年(1600年)長束正家ら奉行衆より、小出秀政と且元は大坂城の所務の監督的な立場に、家康ら大老衆からは石田正澄、石川貞清・頼明兄弟と共に御奥の警護役に任じられている。9月の関ヶ原の戦いでは文治派奉行衆を中心とした石田三成方(西軍)に付き、秀政、頼明、弟の貞隆などの旗本も加わる大津城の戦いに、増田長盛と同じく家臣を派遣したが、武断派武将らを中心に支持を得た家康方・東軍勝利の後は、長女を家康への人質に差し出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走した。この功績により、逆に家康から播磨国と伊勢国の所領6千石と引替に大和国竜田2万4千石を与えられた。また同じ頃、茨木城の城主となった。以降、家康の政治を幼い秀頼の代行として承認し、協力する立場となった。当初は全国の蔵入地を総監する立場から、徳川氏の所務方の大久保長安の検地などに協力。また寺社奉行として、当初は豊臣公儀の政策だった畿内を中心とした多数の寺院復興事業に取り組む。慶長9年(1604年)の秀吉7回忌と同15年(1610年)の13回忌の大祭(臨時祭礼)では総奉行を務める。また朝廷との橋渡しを務めた他、慶長14年(1609年)の後陽成天皇の寵姫と不良公家の乱行醜聞として悪名を轟かせた猪熊事件では、京都所司代の板倉勝重に協力した。慶長10年(1605年)頃からは、家康から豊臣家直轄地の摂津国・河内国・和泉国・小豆島を管轄する、国奉行のような立場に任じられる。同年までを区切りに行われた本多正純による西国33国の郷帳・国絵図作成事業では、奉行担当国の絵図作成だけではなく、家康在所の伏見城内において全般的な実務にも当たっている。慶長13年(1608年)、河内国狭山藩の所領にまたがる狭山池の治水事業に当たっている。慶長16年(1611年)、駿府城を本居としていた家康が4年ぶりに上洛。これより前に家康から秀頼に二条城での会見要請があり、秀頼の母・淀殿は「家康から大坂城へ来るべき」と難を示すが、且元が「関東と不和となり合戦起こらんこと必定」と上洛を説得をして会見を実現させた。その際に吉凶を占ったクジで大凶を引くと、吉に書き直させたという。3月28日の二条城会見では且元も同席した。同年の禁裏普請では、大坂方で3万石を負担した。既に慶長11年(1606年)には、家康らの意向に沿って管轄内にキリスト教禁止令を発布していたが、慶長19年(1614年)には、前年公布の以心崇伝が起草した禁止令に従い、教会を打ち壊して棄教政策を徹底し、53人を肥前国長崎へ送った。慶長19年(1614年)3月には、再建開始から14年目の方広寺大仏殿がほぼ完成し、秀頼の名において全国から鋳物師を集める。銘文を南禅寺長老の文英清韓に選定させていた梵鐘も4月には完成し、奉行代表として「片桐東市正豊臣且元」の名も刻まれている。棟札の書は三井寺長吏の興意法親王による。5月、家康は且元に対して方広寺の供養の導師に真言宗仁和寺門跡の覚深法親王を指名する。7月、後水尾天皇より大仏開眼法要を天台宗妙法院門跡の常胤法親王を指名する勅命が下される。家康は、開眼法要を8月3日、堂法要の日取りを秀吉の命日である8月18日という指示を出した。18日は、秀吉17回忌の大祭の日となっていたため、且元は、両法要を8月3日とし、早天(早朝)に常胤法親王を開眼、堂法要の導師を覚深法親王とし、終日天台宗僧侶を上座とする。7月末、板倉勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札、座席などに疑惑がかけられる方広寺鐘銘事件が起こる。崇伝と本多正純を中心に調査が行われ、板倉勝重により大仏開眼及び供養は延期が決定される。8月13日の夜、大坂城下が静まらない中、且元、大野治長、清韓などが駿府へ派遣される。17日に鞠子宿にて清韓が駿府奉行に囚えられる。8月18日に銘文に対して崇伝が住職を務める臨済宗の南禅寺及びその下位に属する京都五山の7人の僧侶に検証が命じられ 清韓が銘文に隠し題として「国家安康」と家康の諱を用いたことは不敬とみなされ、更に林羅山より呪詛などと批難された。19日の入府より、且元は、崇伝らへの弁明に務めたが、家康との会見も無いままだった。しかし、29日に駿府入りした大蔵卿局は家康とすんなり面会となり、鐘銘のことも話題とならずに丁寧に扱われ、家臣の山本豊久は「騙し合い」と評している。9月8日、崇伝より、大蔵卿局と共に、「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい」と伝えられ、9月12日に帰坂する。徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った且元自身によるものか、裏で崇伝らに半ば言い含められたものかは不明だが、戦争を避けるために「秀頼の駿府と江戸への参勤」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る」の中からひとつを早急に選ぶことを提案するが、大野治房や渡辺糺といった淀殿の側近たちから家康との内通を疑われるようになる。9月23日、織田信雄より薄田兼相らを討手とする暗殺計画を知らされ屋敷に篭り守りを堅める。秀頼や木村重成からこれを調停する動きがあったものの、28日に高野山に入るとして城を出ることを決め、秀頼側からも不忠者であることを理由に改易が決められる。そこで蔵米や金などの勘定の引き継ぎを済ませると、10月1日に300程の雑兵を率き連れ、弟の貞隆や石川貞政らと共に大坂城を玉造門より退去した。且元は貞隆の茨木城へ入り、勝重に援兵を要請した。この日は、既に勝重から且元の屋敷が打ち壊されたなどの報告を受けていた家康による、徳川方からの大坂の陣の宣戦布告日でもある。大坂の陣には家康に人質を送って従属し、10月10日には、且元は土佐国へ大坂への米の回送を禁じている。10月12日には家臣の多羅尾半左衛門を300の兵で堺の救援に向かわせたが既に遅く、迎撃されて半左衛門も戦死に至る。自らも本隊を率いて、海路を進むために尼崎の港を目指したが、上手くいかずに逃げ帰る。家康が二条城に到着した23日には軍議に加わり、先鋒を命じられる。11月1日には小豆島周辺3ヶ国に物資の回送と大坂城の経済封鎖を命じ、3日には絵図の制作にあたり、5日には今井宗薫ら堺衆の奮戦を賞賛するなど、徳川方に厚い全面的な協力をした。12月、徳川方は真田丸の戦いでの敗戦や兵糧不足の問題などで戦況は思わしくなかった。そこで16日より北側だけでも100門以上の大筒や石火矢での攻撃を開始し、18日には且元も家康の砲術方の数十人を率いてこれ加わり、備前島から本丸の淀殿近くへの砲撃などを行った。この戦果が大坂方を講和の席につかせる一つの契機となった。慶長20年(1615年)1月に隠居を願い出たが許されず、竜田や伏見などに転居の後、4月は駿府に屋敷が与えられた。江戸への拝謁の途上で夏の陣が起こると、4月26日の夜半には竜田城の周辺へ放火が行われた。5月6日午後、且元は道明寺に到着。7日早朝、久宝寺で将軍徳川秀忠の軍勢の弟・貞隆の隊に合流し、軍監石川貞政、蒔田広定ら諸将と会した。且元・貞隆隊は岡山口への布陣を命じられた。初陣の嫡男・片桐孝利には家臣の梅戸八右衛門を付けて送っている。大坂城の落城後、大野治長が秀頼や淀殿が山里丸にいることを、彼らの助命嘆願の依頼と共に且元に知らせてきたので秀忠に通報し、豊臣氏は助命叶わず滅亡した。前年より肺病を患い、家康より送られた片山宗哲の診察を受けていたが、大坂夏の陣から20日ほどした5月28日に京屋敷にて60歳で死亡した。 葬儀は大徳寺で行われた。且元の跡は嫡男の孝利が跡を継いだが、竜田藩1万石はその甥で4代片桐為次が早世したことで明暦元年(1655年)に無嗣断絶となった。こうして且元の系統は絶えたが、大和小泉藩1万1千石の藩主となった弟・片桐貞隆の家系は明治まで大名として存続して家名を伝え、その子孫は明治になって子爵に叙せられている。秀頼を裏切り家康に味方した且元に対して、批判的な評価を下している者もある。辻善之助の『片桐且元論』によると、秀頼に参勤交代をさせるなどの3案は、家康が死去するまでの時間稼ぎ策だったとする『難波戦記』などの逸話は、『山本日記私記』には早くも見られるが、『山本日記』自体には無いもので、後年の編者などに書き加えられたものとしている。且元の人格は平凡だったと評している。

出典:wikipedia

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