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斜里町

斜里町(しゃりちょう)は、北海道オホーツク総合振興局にある町。町名の由来は、アイヌ語の「サル」または「シャル」が転訛したもので、いずれも「アシが生えているところ」の意味がある。オホーツク総合振興局最東部に位置しており、オホーツク海に面している。幅25km、長さ65kmに及ぶ知床半島を羅臼町と二分している。半島中央部を縦走している知床連山は険しい山岳と深い原始林、オホーツク海の荒波に海蝕された断崖が続いており、世界自然遺産登録エリアのある「知床国立公園」がある。さらに、斜里岳、海別岳山麓からなる台地と斜里川・奥蘂別川水系をはさんだ平坦地からなっており、肥沃な土壌がある。斜里岳山麓台地はなだらかな山なみで、一部は「斜里岳道立自然公園」になっている。海別岳山麓は北西に広がる地域で、自然休養村の指定を受けている。また、海岸線の一部は「網走国定公園」となっている。気温はオホーツク海の海流や流氷の影響により年平均気温は7℃以下となっている。冬期の降雪量はさほど多くはないが、北西の風が強いため融雪時期が遅い。山岳部の融雪が終わる6月中旬頃までは、斜里町特有のフェーン現象による南東の強風が種苗期の農作物に影響を与える。降水量は年間800mmから1,200mmであるが、融雪期である4月、5月の降雨によっては河川の水位が高くなることがある。「町のあゆみ」参照。1977年(昭和52年)から日本国内初のナショナルトラスト運動「しれとこ100平方メートル運動」が始まった。これは、藤谷豊町長(当時)主導により乱開発の懸念があった開拓跡地の買い取りに必要な寄付を募った活動である。知床半島の開発は1914年(大正3年)の幌別・岩尾別地区の農業開拓に始まり、1925年(大正14年)には一時ほとんどが撤退するも1938年(昭和13年)に再開、1949年(昭和24年)の国家プロジェクトもあって入地者が増加したが、開墾を進めていく中で畑として使用できる面積が少ないことなどの地理的条件から開拓計画も見直しを迫られた。その後、知床の原生的な自然の価値が評価されるようになり、1964年(昭和39年)に「知床国立公園」指定となると、行政は手当や転職あっせんなどによって離農を勧め、1973年(昭和48年)まで営農していた入植者を最後に開拓の歴史に幕を閉じた。一方で、北海道内外の不動産業者による土地買い取りの手が伸びており、国立公園内とはいえ保護規制が比較的緩い地域の土地開発が行われて自然が損なわれる可能性があったため、斜里町は農地所有者に対して土地を売るという方針転換をした。また、土地を守り抜いた開拓離農者からは町議会に対して一括で土地を買い上げるよう嘆願。国や北海道による買い上げが不可能な状況などから、町の独自事業として開拓跡地の保全に努めることにした。藤谷町長はイギリスのナショナル・トラストによる活動に注目し、知床流のナショナル・トラストに向けた行動を始めた。「しれとこ100平方メートル運動」は860ヘクタールを対象とし、1口8,000円で日本全国から寄付金を募って順次土地を買い占めていった。1982年(昭和57年)には運動開始5周年を記念して、日本国内初となるナショナル・トラストを考えるシンポジウムが知床で開催。自治体がすすめるトラスト運動として国際的にも注目を集めた。1986年(昭和61年)には林野庁が「国有林大量伐採計画」を立ち上げると全国的な反対運動が起こり、伐採計画は中止となった。1997年(平成9年)には募金目標をほぼ達成し、新たに原生林回復・生物復活を目標とする「100平方メートル運動の森・トラスト」運動を展開。100年先を目指す長期全体目標、20年毎に定める中期目標、運動地内を5区画に区分して5年で一巡する5年回帰作業計画の3段階の計画に従って作業を進めている。なお、2010年(平成22年)11月9日の正式契約を以って最後に残っていた土地を取得が完了した。平成の大合併(日本の市町村の廃置分合)により斜里町でも周辺市町村との合併を模索し、2002年(平成14年)に網走市を含む9市町村で研究会を設置するも断念。その後、斜里郡3町(清里町と小清水町)での合併を検討した。結果、清里町と小清水町が合併に慎重な姿勢を示したため、実現しなかった。また、知床を共有している隣町の羅臼町も隣接する標津町、中標津町、別海町との合併を模索するも標津町と別海町が離脱し、中標津町との飛び地合併と市制施行を検討していた。新市名を募集したところ「知床」や「しれとこ」の名がつく名前が上位を占め、「新知床市」「東知床市」「南知床市」の中から最終的に「東知床市」を選び、新市役所を中標津町役場とすることも合意していた。こうした動きに斜里町は新市名に「知床」を入れることに異議を申し立てて騒動となったが、牛来町長(当時)の「自治体名にこだわらず、知床を守ることを全国にアピールすることが大切」との提案により臨時議会で「知床を守り育てるまち宣言」を全会一致で可決し、「知床市」問題の決着を図った。結局、中標津町の住民投票により合併に対する反対票が過半数を超えたため両町による協議会は解散することになり、合併は実現しなかった。農業はジャガイモ(馬鈴薯)、テンサイ、小麦が主要3作物として作付している。漁業はサケ・マスの定置網漁業が主体。観光に関して知床が脚光を浴びるようになったのは、1958年(昭和33年)の斜里 - ウトロ間道路の開通とされる。以後、映画のロケーション撮影や1962年(昭和37年)の定期観光船就航、1964年(昭和39年)の「知床国立公園」指定、1971年(昭和46年)「知床旅情」の大ヒットなどにより「知床ブーム」が起こり、ウトロが観光地として飛躍した。1980年(昭和55年)に知床横断道路が開通し、1981年(昭和56年)の観光客入込数が100万人を突破。2000年(平成12年)頃から自然案内をするガイド事業者が現れ、エコツーリズムの考えのもと景勝地観光とは違った魅力を全国に先駆けて実践した。2005年(平成17年)には知床が「世界自然遺産」に登録。2007年(平成19年)にウトロとしゃりの道の駅がオープン。2011年(平成23年)に知床五湖の高架木道が完成した。町内を通る幹線道路は、シーニックバイウェイの「東オホーツクシーニックバイウェイ」になっている。「指定文化財」参照。50音順

出典:wikipedia

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