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羌(きょう、拼音:Qiāng)は、古代より中国西北部に住んでいる民族。西羌とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。中国史において羌族は氐族とともに最も古くみえる部族の一つである。しかしながら『漢書』に氐羌の列伝は設けられておらず、西域伝に婼羌などが記されているのみであった。そして『三国志』で引用されている魚豢(ぎょかん)の『魏略』においてようやく氐羌についての記述が現れ、『後漢書』において羌族について詳細に記された「西羌伝」が設けられた。『後漢書』西羌伝では「羌の源流は三苗、姜氏の別種」とあり、とても古い時代から中国の人に知られていたようである。紀元前5世紀に戎族出身の無弋爰剣(むよくえんけん)という者が現れ、彼の一族に率いられた者たちが羌族を形成していくこととなる。漢代になると、北の匈奴が強盛であったため、初めのうちは匈奴に附いていたものの、漢の武帝により匈奴が駆逐されると、代わって漢に附くようになり、漢の護羌校尉のもとで生活することとなる。しかし、羌族はたびたび漢に背いて叛乱を起こしたため、その都度漢によって討伐された。後漢末に黄巾の乱が起きると(184年)羌族は再び勢いを盛り返し、羌族の血を引く馬騰・馬超父子や彼らと結んだ韓遂といった漢民族の軍閥と組んで独自の勢力を築いた。三国時代(220年 - 280年)においては、魏と蜀の国境地帯において勢力を保ち、その趨勢に応じて魏や蜀に附いて戦った。五胡十六国時代に入ると、南安赤亭羌の酋長である姚萇が前秦から独立して後秦を建国した(384年)。後秦は417年に東晋の劉裕(後の宋武帝)によって滅ぼされる。唐代から北宋代には、羌族の有力部族であるタングート(モンゴル化したテュルク民族とする説もあり)が強勢になり、やがて宋を圧迫して多額の歳幣を取る事に成功した。その後李元昊が西夏を建てて皇帝となる。北宋が金に滅ぼされると服属するが、チンギス・ハーンの勃興時に滅ぼされた。西夏滅亡後は表立った主導的な政治活動を見せることはなく、現在に至っている。西域において陽関を出てから一番近い国が婼羌である。婼羌国王は「去胡来王」と号す。陽関を去ること1800里、長安を去ること6300里の距離にあり、西は且末国と接し、西北には鄯善国がある。婼羌は鄯善国の東南から于闐国の南までの地域にわたって分布していた。戸数:450、人口:1750、兵数:500。婼羌は遊牧民であり、農耕をしないため、鄯善国と且末国の穀物にたよっていた。山からは鉄が産出する。武器には弓,矛,服刀,剣,甲がある。羌族の言語と氐族の言語は似ており、中国(漢語)とは違うことが『魏略』西戎伝に記されている。もし、この言語が現在のチャン語だとすれば、羌族および氐族はチベット系(チベット・ビルマ語派)に分類される。無弋爰剣から分かれた種族は約150種にのぼるとされ、そのすべてが史書に記されたわけではないが、以下に主な諸族を記す。初め敦煌付近にいた月氏族は匈奴の侵攻に遭い、その多くは中央アジアに遷って大月氏となったが、敦煌付近に残った一部は南山(崑崙山脈)の羌に依って小月氏となった。以下はその小月氏の一派だと思われる。

出典:wikipedia

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