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小林完吾

小林 完吾(こばやし かんご、1932年4月27日 - )は、日本のアナウンサー、ニュースキャスター、司会者。愛称は「完吾さん」。神奈川県鎌倉市出身。6人兄弟(兄2・姉2・弟)の三男。声質はバリトン。祖父は洋画家の小林萬吾。親戚には元九州朝日放送アナウンサーで現在の福岡市長である高島宗一郎。南日本放送、日本テレビに在職後、フリーアナウンサーとなる。1960年2月6日、ラジオ南日本に入社、放送界入り。1963年9月2日、日本テレビ放送網に移籍。1992年4月、日本テレビ放送網を定年退職。フリーとなりオフィスこばやしを立ち上げる。1 - 2歳の頃、医者に「助からない」と宣告された重い肺炎を患う。神奈川県立師範学校付属小学校の時、いじめにあったことから登校拒否となる。高校は、名門といわれる湘南高校に入学したが、勉強について行けず、すぐに登校しなくなり1年で中退、進駐軍のハウスボーイになる。その一方で、飲み屋をうろつき回る、喧嘩をするなどの不良行為を行っていた。また、高校在学中に江藤淳や辛島昇、吉野壮児らと友人となった。米軍キャンプでのアルバイト中に上司から叱責を受けたのがきっかけとなり、再起のため湘南高校の定時制課程に入学した。湘南高校定時制課程時には国立横浜病院病理研究室病理助手解剖担当、歯科医院助手、肥料問屋の丁稚として働きながら夜学に少しでも活気をと応援団を結成し自ら応援団長を務めたり、また、生徒会長も務めた。國學院大學文学部日本文学科へ進学。大学2年時に自殺未遂事件を起こしたが、立ち直ることを決意。教員資格は取得しているものの、1955年頃の教育実習先の中学校では、そろそろ学生達の教師に対する反発が始まりかけていた目を見てみると、「やるならやってやろうじゃないかという気持ちが、高まって冷静な気持ちでいられなかった。教員室の中では、先生同士の偽善的な雰囲気が我慢できなくて教頭先生が、同僚の教師にはいい顔をし、上司の校長先生に対してもいい顔をして右往左往しているのを見て、一週間同じ職員室にいたら殴り合いになると思う。」と教員にはならなかった。女子アナになった先輩から、声をほめられたことをきっかけにしてアナウンサーを志した。大学卒業時には28歳で、就職試験の年齢制限で内定にもありつけず、四苦八苦の末に、鹿児島県のラジオ南日本にアナウンサーとして採用される。その際、「これで母を喜ばせる。」と内心思ったものだった。大学卒業後、1960年2月6日に鹿児島県のラジオ南日本に入社。宮田輝、高橋圭三、藤倉修一、長島金五といったNHKスターアナウンサーの全盛時代に『サンデージュークボックス』のディスクジョッキーでアナウンサーとして放送界にデビュー、新人アナウンサーとしては破格の担当でもあった。主にニュース、音楽番組DJを担当。地方農業番組『明けゆく農村』では担当する際には地元を知る為にあえて志願したという。1962年にラジオ南日本同期入社の技術職の愛子と出会い、結婚した。1963年3月、先輩から日本テレビへの移籍話があり、結局、なかなか決まっておらず、日本テレビの話がまとまらないまま、5月に南日本放送を退社。1963年9月2日にニュースアナウンサーとして日本テレビにスカウトされて移籍する。日テレに移籍してからの最初の担当番組は相撲中継だったが、「お前がやると歌舞伎中継になる」と担当からも外された。1974年から『NNNきょうの出来事』のメインキャスターとなり、主に報道番組を担当するようになり、歯切れの良い口調とスマートさで人気を博し、日本テレビのスターアナウンサーとなる。独特の低音による「あ、さて」の名調子で知られた。同番組では、櫻井よしこと深夜の時間帯に落ち着いたニュースを伝え、地味ながらも次第に幅広い支持を受け、根強いファンを得るに至った。またTBSテレビ『クイズダービー』にはNNNきょうの出来事として櫻井と組んで出場している。1983年には徳光和夫と共に、日テレの『おもしろまじめ放送局』(おもしろ:徳光、まじめ:小林)キャンペーンキャラクターとして起用され、一躍茶の間の人気者となり、脚光を浴びる。4月には局アナでありながら『笑っていいとも!』(フジテレビ)の人気コーナー「テレフォンショッキング」にも徳光と共に出演した。『おもしろまじめ放送局』のまじめアナウンサーとして活躍した事が評価され「ゆうもあ大賞」を受賞。生真面目さが笑いを招くものでもあったが、後年、「おもしろまじめはあくまでも虚像です。」と小林は、一笑に付す。1985年にはイギリスのロック・ミュージシャン、ポール・ハードキャッスルのヒット曲「19(Nineteen)」の日本語リミックス版(Extended Japanese Mix)において「ベトナム戦争では…」という小林のナレーション音声がサンプリング音源として使用され、話題となった。『NNN日曜夕刊』、『NNN昼のニュース』、『NNN JUST NEWS』のメインキャスターとしても活躍した他、バラエティ番組『禁断!イモリ帝国』も担当した。1990年には日本テレビが提携に関わった映画『良いおっぱい悪いおっぱい』に出演。アナウンサーとしての活動のかたわら、自分の体験談をもとに、いじめや非行などに悩む少年と親を対象とした講演活動を始める。愛子との間に一女、一男。1980年1月27日に長男はダウン症を持って生まれたが、5月10日に細気管支炎によりわずか生後105日(約3ヶ月)で他界。ダウン症の長男の誕生と死は小林一家にとって非常に重要な体験となった。長女は埼玉県立豊岡高等学校から跡見学園短期大学を卒業し、会社員として過ごしていたが、一念発起し医療の道を志し、北里大学医療衛生学部に入学。言語療法士(現在の言語聴覚士)の資格を取得した。その後横浜市立大学附属市民総合医療センターに勤務し、患者の治療とカウンセリングに当たった(現在同センターは退職し別の施設に勤務)。長女が長男の死と家族の体験を医療に役立てたいという一家の夢を叶えたことは小林にとっても喜びであったらしく、講演等で度々話題にしている。その長男への思いを綴った手記『優しさをありがとう』、『愛、見つけた』を出版した。日本テレビ在職中、局舎の近所にある大野屋酒店で商品を購入する際にも解説をしながら購入していた。埼玉県入間市在住ということもあってか埼玉西武ライオンズのファンであり、「読売巨人軍」と同系列の日テレ在籍時代は周囲から浮いた存在だったと後に発言している。1992年4月27日、日本テレビアナウンサーの主催で日本テレビ定年退職記念パーティー「アナウンサー34年ご苦労さま 完吾さんの誕生日を祝う会」を開催、この日にチーフアナウンサー職を最後に日テレを定年退職し、フリーとなり個人事務所・オフィスこばやしを立ち上げる(代表・マネージャー・経理・運転手は愛子)。音楽番組の司会等でのテレビへの出演、ダウン症の長男を持った経験から医療への関心が高く、引き続き教育・福祉問題に関する講演活動で全国を回ったほか、がんばらない介護生活を考える会賛同者、広島県立保健福祉短期大学客員教授も務めた。 1996年、伝通院での講演中に脳出血で倒れるが、一命を取りとめる。小林には高血圧の持病があり、ストレスがかなり影響したとみられている。1997年6月には、自動車の運転免許を取得、厚生省脳卒中検討会委員も務めた。講演会の最初に司会者が小林を紹介し終わると、早速小林は「私は、人様が紹介してくれることには口を挟むのは嫌な方だから黙っているが、ただ小林先生というのは勘弁して下さい。小林完吾で結構です。」と話を切り出している。小林はよく教職大会で講演依頼があり、その時になぜ教職を選ばれたか問いかけていたという。2001年には、脳卒中(脳梗塞)で倒れ、リハビリ生活を送った。現在は回復し、その経験を各地で講演している。

出典:wikipedia

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