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ニホンアシカ

ニホンアシカ ("Zalophus japonicus") は、食肉目アシカ科アシカ属に分類される鰭脚類。ニホンアシカは、日本沿岸で繁殖する唯一のアシカ科動物で、アザラシやトド、オットセイのように冬に回遊してくるのではなく、周年生息していた。「ニホンアシカ」の呼称も後から呼ばれたもので、単に「アシカ」や、江戸時代には「みち」や「みちのうお」といった呼称や太平洋側の三陸以北では「トド」と呼ばれたこともあり、韓国においても、ニホンアシカはトドと混同されていたようである(海驢という漢字は「とど」とも読む)。東北地方では、「葦鹿」との表記も存在した。生息地から迷入などの要因によって出現したカリフォルニアアシカをニホンアシカと誤認する可能性が一部で指摘されているものの、現在まで明確化したカリフォルニアアシカの迷入・誤認事例は存在しない(不確定事例については後述参照)。北はカムチャツカ半島南部から、南は宮崎県大淀川河口にかけて。北海道・本州・四国・九州の沿岸域、伊豆諸島、久六島・西ノ島・竹島などの日本海の島嶼、千島列島、南樺太、大韓民国(鬱陵島)などに分布していた。繁殖地は恩馳島・久六島・式根島・竹島で確認例があり、犬吠埼・藺灘波島・大野原島・七ツ島でも繁殖していたと推定されている。太平洋側では九州沿岸から北海道、千島、カムチャツカ半島まで、日本海側では朝鮮半島沿岸から南樺太が生息域。日本沿岸や周辺の島々で繁殖、特に青森県久六島、伊豆諸島(新島。庄内平野沿岸、アシカ島(東京湾)、伊豆諸島各地(鵜渡根島周辺、恩馳島、神津島)伊良湖岬、大淀川河口(日向灘)なども生息地であった。三浦半島、伊豆半島(伊東、戸田・井田)、御前崎等にも、かつての棲息を思わせるような地名が残っている。縄文時代以降の日本各地の遺跡で骨が発見されていることから、近年までは日本近海広域に分布していたと推定されている。体長オス平均240センチメートル、メス180センチメートル。体重オス平均494キログラム、メス120キログラム。メスは体長180センチメートル、体重120キログラム。アシカ属最大種。カリフォルニアアシカよりも体長が10 %・体重が約30 %以上は大型。一方で外部形態や体色での判別は困難とされる。上顎の頬歯が1本ずつ多い傾向がある。オスは全身が暗褐色で、頭頂部が隆起し体毛が白化する。メスは灰褐色で、背筋は暗灰色。カリフォルニアアシカの亜種とされていたが、1950年に奥尻島で発掘された頭骨を用いた比較から1985年に大型であることや歯列から独立種とする説が提唱されている。遺跡から発掘された四肢の骨のDNAの分子系統解析からカリフォルニアアシカとは2,200,000年前に分岐したと推定されている。距岸20キロメートル以内の沿岸域に生息していた。竹島繁殖個体群は繁殖後に回遊もしくは季節移動を行っていたと考えられている。同所的に分布するキタオットセイやトドと比較すると大規模な回遊は行わないハダカイワシなどの魚類、ホタルイカなどの頭足類を食べていたと考えられている。生息環境として岩礁や海蝕洞があり、繁殖活動は繁殖期に限られた繁殖場でのみ行う特性であった。死因として天敵のシャチやサメ類、病原としてはフィラリア症、皮膚病、腸内寄生虫が挙げられている。婚姻様式は一夫多妻。5 - 6月に交尾を行い、竹島では4 - 5月に集合し7 - 8月に離散していた。1回に1頭の幼獣を産むと考えられている。別名としてアジカ・アシカイオ・ウミオソ・ウミヨウジ・ウミカブロ・クロアシカ・トド・トトノミチ・ミチなどがある。小野蘭山の「本草綱目啓蒙」などから日本海側では本種がトドと呼称されていた可能性もある。日本近海では106か所のアシカ(35か所)・トド(71か所)の名のつく地点が存在する、あるいは過去に存在していた。これらはアシカとつく地点は銚子市以南日南市以北の太平洋岸および瀬戸内海、トドとつく地点は北海道岸・大船渡市以北の太平洋岸・島根県までの日本海岸に分かれる。トドとつく地点に関しては種トドの繁殖地と異なる地域(トドの繁殖地は北海道以北)が含まれること、日本海側で本種がトドと呼称されることもあったことから、本種が由来となっている可能性もある。1991年の環境庁レッドデータブックでは「絶滅種」と記載された。これに対し2008年現在では1974年の捕獲例など50年以内の生存報告例(環境庁レッドデータブックでは過去50年以上信頼できる生息情報がないものを絶滅と評価する)があることから絶滅種には該当しないとする反論もある。ニホンアシカの骨は縄文時代の貝塚から頻繁に出土しており、最後の生体発見例(後述)がある礼文島においても狩猟が盛んであった。江戸時代に執筆された和漢三才図会には、肉は食用には適さず、油を煎り取っていただけであると記されている。油脂は身を煮沸して抽出し、そのまま使用する以外にも石鹸や膠などの原料にも用いられた。表皮は皮革製品として、特定の部位は漢方薬として、ひげはパイプ の掃除に使われていた記録がある。20世紀に入ってからは、必要部位を取り除いた後に残った肉と骨は肥料として販売され、昭和初期にはサーカス用途にも捕獲されていた。江戸時代に書かれた複数の文献においてニホンアシカに関する内容が記述されている。シーボルト『日本動物誌』には、ニホンアシカのメスの亜成獣が描かれている。「相模灘海魚部」(彦根城博物館所蔵)にも、不正確ではあるがニホンアシカが描かれている。20世紀初頭における生息数は、30,000 - 50,000頭と推定されている。江戸時代までは禁猟であった。例として紀伊藩では初代藩主徳川頼宣により禁令が出され、回遊期の狩猟およびアシカ島への上陸・衣奈八幡宮司である上山家を監視役に命じ報告書の提出を義務付けるなどの対策を行っていた。高崎藩では藩主により銚子での捕獲が禁止され、仮に捕獲する場合は年に1回冥加金を取った漁師1人のみを許可していた。明治時代の政治的な混乱により捕獲や駆除が野放しとなった。明治新政府により捕獲が禁止されたり保護策が江戸時代から受け継がれたところもあるものの、徹底はされなかった。1879年(明治12年)に神奈川県三浦市南下浦町松輪の海岸で捕獲されたメスのニホンアシカを描いた正確な絵図が、『博物館写生』(東京国立博物館蔵)に残されている。少なくとも1900年代までは日本各地に生息していた。しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけて、多くの生息地で漁獲や駆除が行われ、明治40年代には銚子以南から伊豆半島の地域でみられなくなり、同時期の1909年(明治42年)の記録では東京湾沿岸からも姿を消し、記録がある相模湾、三河湾周辺の篠島・伊良湖岬、瀬戸内海の鳴門海峡などの日本各地に生息していた個体群も20世紀初頭には次々と絶滅に追いやられ、その棲息域は竹島などの一部地域に狭められていった。竹島周辺のアシカ漁は、1900年代初頭から本格的に行われるようになった。乱獲が懸念されたため、1905年(明治38年)2月22日に同島の所属を島根県に決定、同年4月に同県が規則を改定してアシカ漁を許可漁業に変更、行政が許可書獲得者に対し指導して、同年6月には共同で漁を行うための企業「竹島漁猟合資会社」が設立されて組織的な漁が始まり、同年8月には当時の島根県知事である松永武吉と数人の県職員が島に渡り、漁民から譲り受けたニホンアシカ3頭を生きたまま連れて帰り、県庁の池で飼育していたがまもなく死亡し剥製(後述の各高校に所蔵されていた内の3頭)にした、と山陰新聞(当時)が同年8月22日に伝えていた。アシカ漁では平均して年に1,300-2,000頭が獲られた。1904年 - 1911年までの約8年間で14,000頭も捕獲された。明治大正年間の乱獲によって個体数・捕獲数共に減少していった。昭和初期には見世物として使用するため興行主(木下サーカス・矢野サーカスなど)から生きたままのニホンアシカを求める依頼が増えたが、その需要に応える量を確保することが難しい状況になっており、1935年(昭和10年)ごろには年間20-50頭まで落ち込んでしまった。捕獲量が最盛期のおよそ40分の1にまで激減したことや、太平洋戦争勃発の影響で、戦中アシカ漁は停止された。第二次世界大戦以降は1951年に竹島で50 - 60頭が確認されている。 などが挙げられる。朝鮮戦争中(1950-1953年)には韓国兵が射撃訓練の的として使ったとの噂もある。1950年代以降の生息報告は礼文島沖・青森県久六島・島根県西ノ島・竹島・シャコスタン島・カムチャッカ半島南部に限定される。日本国外では1949年に南樺太のモネロン島で捕獲例・1962年にシャコスタン島での目撃例、1967年にカムチャッカ半島での死骸の発見例がある。1970年代以降では1974年に礼文島沖で本種と思われる鰭脚類の幼獣の捕獲例(下毛がなくキタオットセイとは明確に異なり、トドよりも小型で繁殖期が異なる)があるが、捕獲後飼育されていたものの20日後に死亡している。1975年に竹島で2頭の目撃例があったのを最後に、本種の生息は報告されていない。WWFによると、繁殖は1972年(昭和47年)まで確認されており 、捕獲された個体が韓国の動物園で子供を出産したという記録が残されている。最後の目撃事例以降にも、日本沿岸でアシカが数度目撃されており、1981年(昭和56年)と1985年(昭和60年)には岡山県玉野市宇野で、2003年7月に鳥取県岩美町の海岸で、2016年3月に鹿児島県薩摩川内市沖の下甑島周辺で目撃情報があったが、いずれも種は不明確であった。日本の鳥獣保護法は制定された1918年から約84年間は海棲哺乳類は入っていなかった。2002年に鳥獣保護法改正により対象種とされた。 生息状況の確認が古文献や聞き取り調査に限られること、生息数減少の経緯が不明なことから、生息数減少の原因を究明することはほぼ不可能と考えられている。可能性のある主因として生息環境の変化・捕獲圧が原因と考えられている。毛皮・剥製目的の乱獲、人間の繁殖地侵入による攪乱、エルニーニョ現象による食物の分布や生息数変動による可能も考えられている。衰退・絶滅の主な原因は、皮と脂を取るために乱獲されたことである。特に竹島においては大規模なアシカ漁による乱獲で個体数が減少したことが主要因とされ、研究者の一人である島根大学医学部(当時)の井上貴央も同様の見解を示している。1950年代には日本からの大量のビニール製品やソビエト連邦の原潜や核廃棄物の投棄など、著しく日本海が汚染された時期であり、生息環境が悪化していた点も指摘されている。残った数少ない個体も保護政策は実施されず、日本の鳥獣保護法では長期間保護対象外だったことや、竹島を不法占拠してきた大韓民国でも行われなかった(後に保護対象動物には指定されている)。韓国による竹島の軍事要塞化や在日米軍の軍事演習実施などの軍事関係も要因として指摘されている。新聞による文献調査から京都市動物園・熊本動物園(現:熊本市動植物園)・神戸市諏訪山動物園(現:神戸市立王子動物園)・堺水族館・天王寺動物園・東山動物園(現:東山動植物園)・箱崎水族館・阪神パーク阪神水族館に収容されていた可能性がある。最も古い記録は京都市紀念動物園(現:京都市動物園)で1903年の開園時に隠岐産の2頭が収容された記録がある。天王寺動物園ではリャンコウ大王と呼称されたオスの成獣も含め、2005年現在6頭の剥製標本が現存している。剥製は、長年他の種類のアシカやトドと思われていたり、剥製の存在自体が忘れ去られていたが、1990年代以降に相次いで所蔵されていることや種類がニホンアシカであることが判明している。現存数は全世界で約10〜15体とみられている。1886年(明治19年)2月に島根県松江市美保関町で捕獲され、以来島根師範学校から島根大学に保管されていた剥製が、1991年(平成3年)に井上貴央による調査・鑑定でニホンアシカと判明し、それが契機になり、大阪市天王寺動物園の6体のアシカの剥製も竹島で捕獲され、戦前に同園で飼われていたニホンアシカのものであることが判明した。その中には竹島で恐れられたリャンコ大王と呼ばれる巨大な雄の個体の剥製も含まれていた。1993年(平成5年)から1998年(平成10年)にかけて島根県立三瓶自然館や井上貴央などの調査・鑑定で、島根県の出雲高校、大社高校、松江北高校でもニホンアシカの剥製(1905年竹島産)が所蔵されていることが確認された。2006年(平成18年)11月3日 - 5日に大阪市天王寺動物園で行われた「絶滅の危機にある動物展」で、保存されている剥製が初めて一般公開された。また、当時の生態を伝える10点ほどの写真があるほか、1992年(平成4年)には米子市の民家で、1940年(昭和15年)に竹島で撮影された貴重な映像(8ミリフィルム)が発見され、ニホンアシカの生き生きとした姿が収められていた。また、戦後まもない1948年のニュース映画に大阪淀川に迷入したアシカの映像が残されている。由来する事例として下記が挙げられる。日本各地に広く生息していたにもかかわらず、鯨墓が沢山存在するのに対して、ニホンアシカの供養碑は僅か二ヶ所しか存在しない。

出典:wikipedia

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