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エアグルーヴ

エアグルーヴは日本の競走馬。1997年に牝馬として26年ぶりのJRA賞年度代表馬に選出された。母ダイナカールも優駿牝馬(オークス)を制しており、母娘2代での優駿牝馬の制覇を成し遂げた。また秋の天皇賞優勝など、牡馬と互角以上に渡り合った戦績から「女帝」と称される。名前の由来は冠名のエアと、「わくわくさせる」という意味のグルーヴ(Groove)による。なお、馬齢は旧表記(数え年)で統一する。1993年社台ファーム早来(現在のノーザンファーム)で生を受ける。生まれた次の日に栗東の伊藤雄二調教師が訪問し「これで男のシンボルがついてればダービー確実だ!」と非常に衝撃を受けたと言う。興奮冷めやらぬ伊藤雄二は「エア」の冠名で有名な親交の深い馬主の吉原毎文に「良い仔馬を見つけた!」と電話をするも吉原は最初は乗り気ではなく購入を渋っていたが伊藤雄二の非常に強い説得で購入を決めた。3歳になり栗東の伊藤雄二厩舎に入厩、調教でもずば抜けた身体能力で一躍話題馬となる。入厩当初こそトニービンの仔特有の気性の悪さで厩務員を振り落としそうになったこともあったが、次第に気性の悪さは薄れ、夏の札幌でのデビューが決定した。1995年の札幌競馬場で鞍上に武豊を迎えてデビューしたが、マイネルランサムにクビ差届かず2着に敗れた。2戦目の新馬戦では7頭立てと少頭数に加え、掲示板に載ったことのある馬が本馬の他に1頭しかいなかった事もあり単勝オッズ1.1倍の1番人気となった。レースでは5馬身差を付け勝利した。勝ち時計の1分12秒0(札幌競馬場・芝1200m)は同日に開催された札幌3歳ステークスを勝ったビワハイジ(本馬と同様に武豊が騎乗)と同タイムであった。続くオープン特別のいちょうステークスでは、最後の直線で進路をカットされ鞍上の武豊が立ち上がるほどの致命的な不利を受けながらも勝利した。続く阪神3歳牝馬ステークスでは、武豊が出走予定だった数あるお手馬からイブキパーシヴを選択したため、マイケル・キネーンが騎乗した。レースはマイル戦にもかかわらず前半1000mの通過タイムが61秒1という超スローペースとなったこともあり、角田晃一が騎乗したビワハイジの逃げ切りを許し2着に敗れた。春初戦のチューリップ賞ではオリビエ・ペリエを鞍上に迎え、2着のビワハイジに5馬身差の圧勝。桜花賞の最有力候補となったが、熱発により桜花賞を回避した。この時の桜花賞馬は田原成貴鞍上のファイトガリバー。熱発休養明けで臨んだ優駿牝馬(オークス)では1番人気に支持された。鞍上は武豊。レースは2コーナーを過ぎたあたりから先頭に立ったノースサンデーが突然外に斜行し外に回されるという不利があったにも拘らずファイトガリバーを抑え勝利し、母・ダイナカールとの母娘制覇を達成した。秋は体調面の調整に苦しみ、ステップレースには出走せずに直接秋華賞に出走した。結局、本番(秋華賞)まで万全な状態でなかったこととパドックでのフラッシュ撮影でイレこんだことなどから、ファビラスラフインの10着と惨敗。さらにレース中に骨折が判明し長期離脱となった。これ以降パドックではフラッシュ撮影禁止という今では当たり前のお約束がなされた。6月、復帰戦となるマーメイドステークスを勝利で飾る。更に8月は札幌記念に出走し、ジェニュインやエリモシック相手に勝利し勢いに乗る。陣営は天皇賞(秋)に照準を合わせた。天皇賞(秋)では2番人気に支持された。1番人気は前年の優勝馬で前哨戦の毎日王冠にも優勝したバブルガムフェローであった。レースはバブルガムフェローをクビ差抑えて勝利し、1980年にプリテイキャストが制して以来となる17年ぶりの牝馬の天皇賞馬となった。ジャパンカップでは2番人気に支持された。ここでも1番人気はバブルガムフェロー。レースはピルサドスキーとの壮絶な叩き合いに負けクビ差の2着。年末の有馬記念では武豊がマーベラスサンデーに騎乗したため、オリビエ・ペリエへ乗り替わりがあった。レースではシルクジャスティス、マーベラスサンデーに次ぐ3着。同年は華々しい結果を残し、牝馬としてはトウメイ以来の年度代表馬に選出された。1998年も現役を続行、初戦の大阪杯では1歳年下の名牝メジロドーベル以下に勝利。続く鳴尾記念では道悪が堪えてサンライズフラッグに次ぐ2着。宝塚記念では調整遅れが懸念されたがサイレンススズカの3着に入った。その後、札幌記念を牝馬には過酷ともいえる58kgを背負いながらも3馬身差で勝利、グレード制導入以後初となる連覇を達成した。秋シーズンは調整の遅れやサイレンススズカと鞍上・武豊騎手の兼ね合い、サイレンススズカとレースをするリスク、複数GIタイトルの獲得を目指すという方針等が考慮され、天皇賞(秋)へは向かわずエリザベス女王杯からジャパンカップというローテーションが組まれた。しかし、エリザベス女王杯の1週前に武豊が京都競馬場の新馬戦で後のダービー馬アドマイヤベガに騎乗して1位入線したものの、進路妨害で4着に降着で実効6日間(3週間)の騎乗停止となってしまい、エリザベス女王杯とジャパンカップにおける鞍上が急遽横山典弘への乗り替わりになった。エリザベス女王杯では1番人気に支持されたがメジロドーベル、ランフォザドリームをとらえられず3着に敗れた。その後中1週で臨んだジャパンカップでは、1着馬エルコンドルパサーには敗れたもののダービー馬スペシャルウィークを抑え、2年連続で2着となった。そしてラストランとなった有馬記念では武豊が騎乗停止明けで再び手綱をとることになったが、レース中の落鉄の影響もあってグラスワンダーの5着に終わった。1999年、年明けの京都競馬場で引退式を行った。伊藤調教師は同馬の引退式後に「私はエアを初めて見た時の衝撃(前述)を忘れない。だからこそ彼女の真価を引き出せなかったのが非常に悔しい」と涙混じりに語ったという。2004年5月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「エアグルーヴメモリアル」が同年の優駿牝馬(オークス)施行日の東京競馬場第9競走に施行された。2010年10月にはJRAのインターネットの「東京ゴールデンプレミアム」のメモリアルホース投票において当馬が最多得票を獲得し、同年の天皇賞(秋)施行日の東京競馬場第12競走に「エアグルーヴメモリアル」の副名称が付与された。2013年4月23日、繋養先であった北海道勇払郡早来町の早来牧場にて死亡した。20歳(数え年だと21歳)であった。

出典:wikipedia

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