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薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇、道昭、義淵である。1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。現・管主は山田法胤である(2009年8月着任)。薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。ここでいう「天皇即位八年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて8年目という意味である。持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(かぎりなきおがみ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。ただし、平城薬師寺境内からは霊亀2年(716年)の記載のある木簡が出土していることから、造営は養老2年よりも若干早くから始まっていたとみられる。『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。本薬師寺跡には金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残っている。本薬師寺の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と称されるもので、中央に金堂、その手前に中門、背後に講堂を配し、金堂の手前東西に塔を置く。そして、中門左右から出た回廊が講堂の左右に達し、金堂、東西両塔は回廊で囲まれている。この伽藍配置は平城薬師寺においても踏襲されている。本薬師寺、平城薬師寺双方の発掘調査により、両伽藍の建物の規模、位置関係などはほぼ等しく、本薬師寺の伽藍を平城薬師寺に再現しようとしたものであることがわかる。ただし、平城薬師寺では中門の規模が拡大され、回廊も幅が広げられている。平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。天禄4年の火災では金堂、東塔、西塔は焼け残ったが、講堂、僧坊、南大門などが焼けた。発掘調査の結果、西僧坊の跡地からは僧たちが使用していたとみられる奈良時代や唐時代の陶磁器が多数出土しており、天禄4年の火災の際に棚から落ちて土中に埋もれたものとみられる。平城京の薬師寺にある東塔および本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。21世紀の現在では、東塔は平城京での新築とするのが、ほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の流記資財帳に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、足立康、町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城移転後の天平2年(730年)新築と見る説が通説となっている。ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、西塔は飛鳥からの移築だったとする説もある。発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。金堂本尊薬師三尊像については、記述の「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(かぎりなきおがみ)が行われた」との記述(『書紀』)を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある一方、主に様式や鋳造技法の面から平城移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代後期仮再建(従来は1600年再建説や1676年再建説などもあった)の金堂、講堂が建ち、創建当時の伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建された。再建にあたっては、「鉄は持って数百年程度、木材(ヒノキ)は千年持つ。鉄を使うとその部分から腐食する。」と主張する宮大工の西岡常一と、。結果、金堂の内陣は鉄筋コンクリートとし、西塔は鉄の使用を極力少なくし木材の乾燥収縮を考慮して東塔より約30センチ高くして再建された。なお、入母屋造だった旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築され、寄棟造に改造され前部の庇が取り払われるなど、外観を大きく変えて現存している。国宝。現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。総高34.1メートル(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。相輪の中心部の柱の最下部には「東塔檫銘」(さつめい、「さつ」の漢字は木扁に「察」)と称される銘文が刻まれており、薬師寺の創建と本尊造立の趣旨が漢文で記されている。塔の建築年代については飛鳥の本薬師寺から移築されたとする説(移建説)と、平城京で新たに建てられたとする説(非移建説)とがあったが、『扶桑略記』の記述のとおり、天平2年(730年)に平城京にて新築されたとする説が通説となっている。当初、東塔・西塔の初層内部には釈迦八相(釈迦の生涯の8つの主要な出来事)を表した塑像群が安置されていたが、現在は塑像の断片や木心が別途保管されるのみである。本塔は、建築様式の点では、飛鳥様式の法隆寺五重塔や法起寺三重塔よりは進んだ形式を取り入れつつ、當麻寺東塔(奈良時代末期)や醍醐寺五重塔(平安時代初期)ほどには進んでいない、過渡期的様相を示している。柱上の組物に着目すると、雲肘木と雲斗(くもと)を用いた飛鳥様式の塔と異なり、薬師寺東塔の組物は後世の仏堂や仏塔と同様の肘木と斗(ます)を用い、壁面から3段に持ち出した三手先(みてさき)である。二手目の肘木と斗の上に尾垂木が掛かり、尾垂木の先端近くに三手目の斗が乗る。垂木は地垂木と飛檐垂木(ひえんたるき)からなる二軒(ふたのき)で、地垂木を円形断面、飛檐垂木を角形断面とした、「地円飛角」と呼ばれる形式である。このように、組物を三手先とする点、垂木を二軒とする点は飛鳥様式より進んだ要素である。一方で、支輪(壁面と軒裏を斜めに繋ぐ材)を用いず、軒天井を張ること、二手目の肘木は先端に1個の斗しか乗らないこと(後世の塔では2個の斗が乗る)、丸桁(がぎょう、垂木を支える軒桁のうちもっとも外側のもの)の断面を円形でなく方形とすること、鬼斗(隅肘木上に用いる特殊形状の斗)を用いないことなどは、後世の塔とは異なる、古い要素である。奈良時代末期建立の當麻寺東塔は、支輪と鬼斗を用い、丸桁は円形断面となり、二手目の肘木には2つの斗が乗っている。一方、海龍王寺五重小塔は、支輪と鬼斗は用いないが、丸桁は円形断面となり、二手目の肘木には2つの斗が乗るなど、薬師寺東塔と當麻寺東塔との過渡期的な形式をもっている。このほか薬師寺東塔の建築様式の特色としては、尾垂木が直線形であり、先端を垂直方向に断ち切っていること、三手目の斗と丸桁の間に実肘木を用いないこと、高欄の架木(ほこぎ)や平桁に反りがなく、かつ、これらの両端を垂直に断ち切っていることなどが挙げられる。基壇は後世改修されているが、2009年から開始された東塔の解体修理工事の際に基壇の発掘調査が行われている。その結果、創建当初の版築による基壇が良好に遺存していることが確認された。また、裳階柱の礎石は明治時代に据え直された可能性があるものの、心礎、四天柱、側柱の礎石は当初位置から動いていないことも確認された。基壇の下から和同開珎4枚が出土した。前述のような特徴的な姿から、この塔を評してしばしば「凍れる音楽」という表現が用いられる。なお、「明治時代に本寺を訪れたアーネスト・フェノロサが、この塔を指して「凍れる音楽」と表現した」と説明されることが多いが、複数の文献が「凍れる音楽」をフェノロサの言葉とするのは誤りだと指摘している。佐佐木信綱と会津八一はそれぞれ東塔を題材にした短歌を残しており、両人の歌碑が薬師寺境内に建立されている。地震や台風での損傷を修理するため、幾度と修理が行われている。主な修理は、金堂に安置する、薬師寺の本尊。国宝。飛鳥時代後期(白鳳期) - 奈良時代(7 - 8世紀)の作。国宝指定名称は「銅造薬師如来及両脇侍像 3躯」。中尊は薬師如来、左脇侍(向かって右)に日光菩薩(にっこうぼさつ)、右脇侍に月光菩薩(がっこうぼさつ)を配している。像高は薬師如来254.7センチメートル、日光菩薩317.3センチメートル、月光菩薩315.3センチメートル。日本の仏像彫刻が、中国・六朝や唐の影響を受けつつ、独自の古典様式を完成した7 - 8世紀の作品のなかでも最高傑作の1つとして古来名高いものである。中尊は「東塔檫銘」に「巍巍蕩蕩(ぎぎとうとう)たり薬師如来、大いに誓願を発し、広く慈哀を運(めぐら)す」とある薬師如来である。「巍巍」とは高い峰のように大きく堂々としている様子、「蕩蕩」は大河のように広くゆったりとした様子で、この表現のとおり、中尊像は男性的な堂々たる像容を表す。両脇侍像は首と腰を軽くひねり、頭部、上半身、下半身がそれぞれ異なった角度を表す「三曲法」と呼ばれるポーズを示す。これはインド・グプタ朝の彫刻様式の影響が、唐時代の中国を経て日本へ伝わったものである。各像の面貌や体躯は、飛鳥時代前期彫刻のような観念的表現を離れ、人体の正確な把握に基づいた自然な肉付けがみられる。一方、衣文は深く明瞭に表され、鋭角に切り立った面を構成している。総じて中国・初唐様式の影響がみられる。中尊の掌には輪宝を線刻し、足裏には輪宝のほか、指に卍花を刻むなど、吉祥文が表されている。これらは仏の三十二相に基づく表現である。中尊像の台座は宣字座の上に裳を広げた裳懸座である。この宣字座にはギリシャ、ペルシャ、インド、中国などに淵源をもつ葡萄(ぶどう)唐草文、異国風の人物像、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などの意匠があしらわれており、奈良がシルクロードの終着地点と言われる所以となっている。。制作年代については、「歴史」の項で述べたように持統天皇2年(688年)無遮大会実施までには完成していたとする説、『日本書紀』に持統天皇11年(697年)、薬師寺にて公卿百寮が仏像を造り開眼法会を行った旨の記録があることから、この時に制作されたとする説、平城京移転後の新造とする説があり、決着をみていない。685年頃の制作である旧山田寺仏頭(現・興福寺蔵)と比較すると、薬師寺像は鋳造技法の点で進歩がみられる。すなわち、山田寺像では鋳造の際に中型と外型のずれを防止するための「型持」と「笄」(釘)がずれてしまっているが、薬師寺像では「型持」と「笄」を一体化してずれを防止しており、銅厚も一定である。こうした鋳造技法の進歩を制作年代の下降と見る説がある一方で、天皇発願の寺である薬師寺と、私寺である山田寺を同一視はできず、技法の違いは即年代の違いではないとする説もある。東院堂本尊。国宝指定名称は「銅造観音菩薩立像」。像高188.9センチ。飛鳥時代後期(白鳳期)または奈良時代(7 - 8世紀)。蓮華座上に直立する菩薩像で、右腕は体側に垂下し、左腕は曲げ、手は肩の辺まで上げて掌を正面に向ける。蝋型鋳造による銅像で、右手先や天衣遊離部などを別鋳とする。像表面の鍍金はほとんど剥落する。光背は木造の後補で近世の作。『薬師寺縁起』(護国寺本『諸寺縁起集』)によれば、東院堂は養老年間(721年頃)、元明太上天皇の病気平癒のために建立されたとされるが、本像の中世以前の所在は明らかでなく、当初から東院堂の本尊であったとする確証はない(現存する東院堂の建物は鎌倉時代のもの)。本像には自然な人体把握が見られ、中国の初唐末期から盛唐初期(7世紀末)の様式の影響がみられる。その一方で時代のさかのぼる様式も見られ、制作年代については飛鳥時代後期(白鳳期)から奈良時代(7 - 8世紀)まで諸説ある。薬師寺金堂の日光・月光菩薩像と比較すると、本像には様式的には古い要素が見られるが、実際の制作時期の先後については定かでない。日光・月光菩薩像が胴部に「くびれ」の線を明瞭に刻むのに対し、本像にはそれがなく、体部の抑揚は自然なカーブで表現されている。左肩から右体側にかけては、日光・月光像にはない条帛を着する。腰から下には天衣が上下3段にU字形に掛かる。さらに、両脚部の図式的に整えられた衣文、脚部左右に鰭状に広がる裳裾の表現など、全体に左右相称性が強調されている。面相部に着目すると、口元にはアルカイック・スマイルを思わせるかすかな笑みを浮かべ、人中線を鎬立てて刻み、鼻梁が鋭角的に表される点などが古様である。腰部中央や裳裾の左右に見られる「品」字状を呈する衣文、裳裾の左右端に垂れる紐や両脚の間に見られるジグザグ状の衣文などは、前述の鰭状の衣端の表現とともに、飛鳥時代前期様式を思わせる古い要素である。頭部には飛鳥時代後期(白鳳期)の菩薩像にしばしばみられる三面頭飾を付さず、髻の側面から背面にかけて唐草文を表すのは珍しい。典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。橿原市畝傍御陵前駅近くの本薬師寺跡は特別史跡に、奈良市の薬師寺旧境内が史跡に指定されている。薬師寺では、クラシック系の音楽や高校生の吹奏楽から、ポピュラー音楽まで、さまざまな機会に多様なジャンルの音楽家による奉納コンサートが開催されている。2001年には、さだまさしが「薬師寺玄奘三蔵院伽藍総供養記念さだまさし薬師寺奉納公演」を行い、その模様は『瑠璃光 薬師寺ライヴ2001』としてライブ盤となった。その後、2003年に大講堂が再建されてからは大講堂前特設舞台をステージとし、金堂との間に席を設けた屋外コンサート形式が多くとられている。これまでに奉納コンサートを行なった中には、安全地帯、AKB48、石井竜也、甲斐バンド、スターダストレビュー、堂本剛、徳永英明、南こうせつなどが含まれている。

出典:wikipedia

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