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国鉄153系電車

国鉄153系電車(こくてつ153けいでんしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流急行形電車である。1958年から1962年までに計630両が製造された。最初に使用された列車にちなみ、「東海形電車」の別名でも知られている。当初は91系電車と称したが、1959年の車両称号規定改正に伴い153系電車となった。位置づけとしては「80系電車の近代化形」ではあるが、車体や機器などは完全に一新されている。1957年に東海道本線準急「東海」(東京 - 名古屋・大垣間)「比叡」(名古屋 - 大阪・神戸間)の両列車は、従来の客車列車から新開発の80系電車300番台車に置換えられ、当時の客車急行列車を凌駕する高速運転を実現して技術面・営業面での成功を収めた。しかし80系300番台車は、在来電車に比して内装の質的向上は図られてはいたものの基本的設備は普通列車との汎用仕様であったために、長距離列車の接客設備としてはやや不十分で居住性で当時の標準的な客車(10系客車など)やキハ55系気動車を凌駕するまでには至らなかった。また先頭車両は「湘南顔」と通称される2枚窓による非貫通構造で中間に挟む増結運用の際には通り抜けができず、隔てられた編成ごとに車掌を乗務させる必要がら業務上非効率でもあった。その一方、国鉄は同年に中空軸平行カルダン駆動方式などの新技術を導入した90系通勤形電車(後の101系電車)を開発し、技術的成功を達成した。確立された新技術は、在来車に比して居住性や走行性能の向上に寄与するものであり、速やかに優等列車用電車への技術移転が図られた。その結果、準急列車用として1958年に開発されたのが本系列である。本系列は居住性において従来の客車列車を完全に凌駕し、電車による長距離列車運転の優位性を確立する役割の一翼を担うとともに、1960年代以降の国鉄急行形・近郊形電車における設計思想の基礎ともなった。80系300番台同様の全金属製セミモノコック構造であるが、車体長は中間車で19.5m(特急形は20m)、車体幅を10cm拡大して2.9mとし、車両限界に合わせ裾を絞った断面形状とした。客用扉は片側1.0m幅の片引き戸を採用。両端にデッキを設置した2ドア仕様とした。塗色は80系と同様なオレンジと緑の塗り分けによる「湘南色」であるが、前面は80系のように2色を塗分けずに高速運転のため警戒色としての役割を持たせたオレンジ1色とした。先頭車の前頭部中央に貫通路を設け、先頭車が編成中間に入った場合も通り抜け可能な構造とした。運転台前面窓は、側面まで回り込んだパノラミックウインドウとして視認性を高めた。前照灯は屋根上から窓下に移し、左右に大型白熱灯を1基ずつ計2基配置した。前照灯の下には尾灯を配置し、前照灯と貫通路の間にタイフォンを設置した左右対称のデザインとした。また貫通路上には、照明入りの大型列車種別表示器を設け、ホームで列車待ちをする利用者の利便性を図った。クハ153形の1961年度以降製造車は、踏切事故対策として乗務員の安全性を高めるため、従来の運転台(低運転台)から前面窓の縦幅を短くし運転台を300mm高くする(高運転台)設計変更が実施された。客室側窓は後に開発されたサロ152形を除き、国鉄車両としては初めて「上段下降・下段上昇式」のユニット窓を採用した。本窓は当時の西ドイツ国鉄客車を参考にした方式である。構造的に枠内で完結する方式の二段窓であるため、幕板内の窓袋や窓かまちの修正仕上げも不要となり、艤装や塗装が終わった車体に窓枠ユニットを外側から組み付け、縁部をコーキングするだけで施工が完了する。このため生産性・整備性が著しく向上した。独立したデッキを設置する。80系でもデッキは設置されたが、普通列車での使用を考慮していたため客室内の車端部をロングシートとしたのに対し、本系列では基本的に準急列車などの料金収受が発生する運用を前提にしており、座席は全席クロスシートとした。3等車は客車同様の対面型固定クロスシート(ボックスシート)としたが、車体幅が拡大されたことにより座席も横幅が広くなり、窓側の肘掛や栓抜き付きミニテーブルも設置された。通路幅は540mm。向かい合わせのシートピッチは1460mmで、中間車の定員は客用扉を客車より30cmずつ幅広としたため、標準的客車の定員88人より4人少ない定員84人となる。洗面所・トイレをサハシ153形を除く各車両の車端部に設置した。名目上は「準急形」ではあったものの、設備内容は当時の急行用客車と同等以上の水準に達するものであり、当初から急行列車での運用を視野に入れていたことが伺える。実際、本系列の後に量産された165系・451系・471系などの新性能急行形電車も接客設備は基本的に本系列を踏襲しており、153系は以後の国鉄急行形電車の原型と言える。空調については後述の#冷房化改造を参照のこと。モハ90形での開発成果を生かし、システムの多くを踏襲したうえで設計された。モハ153形に搭載されたCS12A形電動カム軸多段制御器により、モハ153形+モハ152形2両分8基のMT46A形主電動機を制御する1C8M構成のMM'ユニット方式、駆動システムは歯車比を4.21とした中空軸平行カルダン駆動を採用。営業運転時最高速度は110km/h、設計最高速度130km/hとした。DT21系の枕バネをベローズ形空気バネに置換えたスウィングハンガー式車体支持装置を備え、ボルスタアンカーを付加したDT24・24A(電動車)・TR59・59A(付随車)を装着する。新開発の高速電車用菱枠パンタグラフであるPS16形を当初より採用。モハ152形に1基搭載とした。アメリカ・ウェスティングハウス・エアブレーキ社(WABCO)が開発したHSC-D発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキを基本とするSEDブレーキを採用した。1958年から1962年にかけて製造されたが、サロ152形・サハシ153形は1961年・1962年のみの製造である。また本項解説では以下の注意をされたい。冷房化改造・改番を伴うもの・他形式や他系列への改造について記述・解説を行う。本系列での空調は、サハシ153形のビュフェ部を除き当初は全車非冷房で扇風機が設置された。しかし優等列車冷房化計画により、1964年から1等車で、1968年からは2等車で、以下の要領で施工された。なお本改造は全車に行き渡らず、非冷房のまま廃車となった車両も多い。田町電車区付属編成は、通常12号車にサハ153形が組込まれるが、湘南準急での伊豆箱根鉄道修善寺への入線運用ではMG・CP付の200番台が必要とされた。また同時に一部列車で2等車連結も要求されたことからサロ153-202・203が新造されたが、車両需給の関係上1両は基本番台に搭載改造で充当されることになり、1960年に大井工場(現・東京総合車両センター)で改造が施工された。なお後年のサロ110形格下げ改造の際にはMG・CPを撤去され、車両番号はサロ110-13とされた。上述のサロ153形200番台は、リクライニングシート化とサロ110形改造の種車として捻出されることからサロ152形へ置換えることになり、1967年に大井工場で非冷房車だった3両にMG・CPを搭載する工事が施工され200番台に区分された。1970年に1両が追加改造されることになったが、冷房改造施工済で自車給電用MG搭載済だったことからCPのみ搭載で落成した。このため新たに100番台の区分とされた。200番台車も1968年に冷房改造を施工されていたことから、100番台に統合された。1975年にサロ112形へ格下げ改造された際には100番台の車両番号が承継された。1975年に吹田工場(現・吹田総合車両所)で、サハシ153-11を種車に大阪鉄道管理局の教習車(事業用車)に改造する以下の工事を施工した。改造後は向日町運転所(→京都総合運転所→現・吹田総合車両所京都支所)に配置されたが、1987年2月15日付で廃車。編入改造先の項目も参照されたい。113系への編入改造を以下に示す。詳細は以下を参照のこと。165・169系に編入改造を受けたものとしては以下の各形式がある。東海道本線優等列車沿革・山陽本線優等列車沿革・近鉄特急史#近鉄線と並行する国鉄・JR線の優等列車・東海 (列車)・踊り子 (列車)・マリンライナー#四国連絡列車沿革も参照のこと。準急「東海」「比叡」と湘南準急(東京 - 熱海・伊東・修善寺)に投入されていた80系電車の置換え用として、それぞれの充当用車両を大垣電車区(現・大垣車両区)・宮原電車区(現・網干総合車両所宮原支所)・田町電車区(現・東京総合車両センター田町センター)に配置。1958年11月から運用を開始する予定であったが、所要車両の落成が間に合わず初日に本系列で運転が開始されたのは「東海」1往復のみで、置換え計画は以下の要領で進んだ。当初は以下の編成が組成された。1959年9月のダイヤ改正で以下の変更を実施。1960年6月ダイヤ改正では以下の変更を実施。1960年から1961年にかけては、本系列に最初の大きな変化があった時期で、宇野線電化の完成した同年10月からは大阪 - 宇野間の四国連絡準急「鷲羽」にも投入された。1961年3月にはサロ152形・サハシ153形が落成したために「せっつ」の編成変更と共に以下の変更が実施された。さらに同年5月6日から東海道本線系統以外での営業運転として、田町電車区所属車から4両編成を組成して上野 - 水上間の準急「上越いでゆ」が運転開始された。同年10月のダイヤ改正で以下の変更を実施。同年12月10日からは伊豆急行伊豆急行線開業により、田町所属車が伊豆急下田までの運用拡大と乗入れを開始した。1962年6月のダイヤ改正では以下の変更を実施。1963年4月には高崎線・上越線での運用となる「ゆきぐに」が、落成した165系に置換えられた。余剰となった車両から4両編成を組成して、同年房総地区夏ダイヤで中野 - 館山間臨時準急「汐風」に充当させた。1963年10月改正では以下の変更を実施。東海道新幹線開通以前に東京 - 大阪間に運行されていた特急「こだま」「つばめ」で運用されていた151系では、故障・事故・ダイヤの乱れによる車両運用の乱れ・予備車が少なく大阪地区に配置がないなどやむを得ず本系列での代走運転が何度かあった。1964年10月1日の東海道新幹線開通に伴うダイヤ改正で以下の変更を実施。1965年10月のダイヤ改正では以下の変更を実施。1966年3月の料金制度改定により、走行距離100km以上の準急列車は急行列車に格上げされた。また「するが」は急行格上げの際に「中伊豆」に愛称を変更された。1966年10月のダイヤ改正では以下の変更を実施。1968年10月1日のダイヤ改正で以下の変更を実施。1970年10月1日のダイヤ改正で以下の変更を実施。山陽新幹線岡山暫定開業による1972年3月15日のダイヤ改正では以下の大きな動きが実施された。1973年7月10日には、中央本線塩尻 - 中津川電化完成により中央西線・篠ノ井線・信越本線の急行「きそ」2往復と大糸線直通の「つがいけ」1往復が165系電車化されたが、編成組成ではサハ153形が必要となるため宮原電車区から7両、岡山電車区から4両の計11両が、神領電車区(現・神領車両区)に転入した。1975年3月10日ダイヤ改正では以下の変更を実施。1976年3月には「伊豆」にも自由席を設定したことから「おくいず」を廃止し「伊豆」に統一。本系列は1970年代後半に入っても冷房化改造が行われていたが、一方で老朽化が始まっていた。特に宮原区で新快速運用に投入されていた車両は、車齢と長時間の高速運転が続く過酷な運用から老朽化が進行、並行する私鉄の車両と比較した車内設備の陳腐化も否めず、1979年から新快速専用車の117系電車を製造して置換えが決定した。1980年10月1日のダイヤ改正では以下の変更を実施。1981年10月1日のダイヤ改正では田町所属車の185系による置換えを開始。1982年11月15日のダイヤ改正では以下の変更を実施。一部の大垣所属車は休車のまま暫く留置されたが、1984年1月までに廃車となった。そして同年3月6日に下関所属のクハ153-46・モハ153・152-108が、同月10日に神領区所属のサハ153-218が廃車され、本系列の営業用車両は全車廃車。1987年2月には事業用車として残存していたクヤ153-1が廃車され廃系列となった。1960年代初頭に全区間電気機関車で牽引されていた夜行寝台急行列車の電車化が計画された。本系列を寝台車電車に改造・投入するものであったが、以下の事情により計画は破棄された。後に寝台電車計画は急行用から特急用に変更され、1967年に581系電車で実現した。JTBパブリッシング「幻の国鉄車両」では計画されていた車種のうち、モハネ152とサロネ153の図面が掲載されている。165系の暖地仕様として163系が計画されたが、サロ163形のみの製造で打ち切られた。詳細は国鉄165系電車#163系を参照のこと。

出典:wikipedia

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