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東海林修

東海林 修(しょうじ おさむ、1932年9月6日 - )は、日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者。乙女座、血液型はO型。幼少より教会音楽に親しむ。中学生の頃、仲間とハワイアン・バンドを結成。手製のハワイアン・ギターで、当時の蒲郡ホテル(現・蒲郡クラシックホテル)の演奏バンドにアルバイトとして採用され、外国人観光客のため演奏する。口伝えで「可愛いフラの手」を習い、即演奏するなどした。学生時代から米軍施設のジャズピアニストとして演奏活動に入る。東京の代々木・渋谷・赤坂・六本木界隈の「Meiji Club(明治クラブ)」「クラブ88」「松涛クラブ」などでクインテットやトリオを主宰。またこの頃、ジャズ・シンガーのヘレン・メリルの指名で専属ピアニストとしてキャンプを巡った。その後、平岡精二とクインテットにテスト無しで招かれ、来日したモダン・ジャズ・カルテットとの競演などで活躍していたところ、渡辺プロダクション社長の渡辺晋自らのスカウトにより、ブレインとして同プロダクションに参入することになった。渡辺プロダクション所属歌手等のために、多数の楽曲・ステージの編曲を担当。和装のヴァイオリニスト、高珠恵が事実上プロデュース、エヴァー・グリーンの曲を石丸寛の指揮により100人の弦奏者で演奏する「ストリング・スペクタクラー」(1969年)には、編曲者として指名を受けアレンジするなど、ジャンルを問わず活躍した。この時期、主に渡辺プロダクション所属歌手のため作曲活動を開始。伊東ゆかり「愛するあした」、伊東ゆかりとグリーン・ジンジャー「Green Ginger Flying」、岡田恭子「どんなふうに」、坂本九「雨あがり」、トワ・エ・モワ「特別な望みなどないけれど」などの作品は『ソフトロック・ドライヴィン』シリーズ(1996年 - )に多数収録され、時代を越えて高く評価され、昭和ブームの火付役のひとつとなった。のちに作曲家・村井邦彦により「クリーンで緻密」(DVD HIT SONG MAKERS〜栄光のJ-POP伝説 村井邦彦編)と語られた東海林修の音楽は、アイドルからベテランまで多くのアーティストを育み、日本のポップス草創期を先導した。なお、オーケストラ作品集『Love Story』(1970年)のライナーで村井邦彦は、「東海林修の音楽には和臭がない」との讃辞を寄せている。1970年、睡眠時間15分の伝説的多忙の生活から心機一転を計り、渡辺晋の理解を得てカリフォルニア大学ロサンゼルス校に留学。当時プロデューサー業を始めていた村井邦彦の要請で、留学中にトワ・エ・モワ「時は変るとも」を作・編曲。のちに「地球は回るよ」に改題され発売(1971年)、ピチカート・ファイヴやイギリスのザ・ブロッサムズがカバーした。また、松竹芸能社長の勝忠男と上月晃がリサイタルの音楽監督を依頼のため渡米。カウント・ベイシーやスタン・ゲッツ、レイ・コニフのバンドに在籍した経験を持つ実力派ミュージシャンを引き連れ一時帰国し、東京・大阪でのリサイタルを成功させる。こうした実績もあり、日本から仕事依頼が後を断たず、沢田研二の独立後のソロ・アルバム『ジュリーII』のロンドンでの録音に立ち寄った後、1972年に帰国。沢田研二「危険なふたり」の日本歌謡大賞受賞(1973年)を機に、J-POPのルーツとなる日本のポップス作品を多数手がける。沢田研二「追憶」(編曲/1974年)は1974年度日本レコード大賞歌唱賞受賞。1986年にIZU STUDIOに拠点を移し、現在もシンセサイザー作品・楽譜制作中心に活動している。また2005年2月には、BSフジ『HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜』(村井邦彦編)に出演した(DVD化されている)。

出典:wikipedia

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