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沈没家族

沈没家族(ちんぼつかぞく)とは、シングルマザーであった写真家の加納穂子(当時23歳)が「いろいろな人と子どもを育てられたら、子どもも大人も楽しいんじゃないか」という考えで、子守を呼びかけて集まった友人と子どもたちによって、1995年4月に始めた共同保育・共同生活の実験的な生活形態。テレビで「(選択的)夫婦別姓になったら日本も終わり」と言われるのを見て、「そんなことで日本が終わるんなら沈没しちゃったほうがいいじゃん」と、「沈没」を挑発的な意味として捕らえ、また「家族なんて一度崩壊してみてもいいんじゃないの」という考えから、沈没家族という名前が出てきたと言われている。加納穂子は写真専門学校で知り合った男性との間に一子があり、シングルマザーだった。加納は「一緒に子育てをしませんか?」というビラを撒いて、当初は集まった人々で加納が夜に専門学校に行くまでの昼間にローテーションを組み、子どもと一緒にいることにした。卒業後も、加納が一人で出掛ける際には誰かが保育をするというかたちで継続。そこには子どもと付き合いたいという参加者の希望と、「自分のやりたいことをやれる時間がないと、子どもとも向き合えない」という加納の思いとがあった。また、保育者会議やいろいろなイベント(夏は海、冬は雪山での合宿。非嫡出子を巡る法・制度状況に関する学習会など)を企画して、多くの人が楽しんで子守に関わった。機関紙であるフリーペーパー『沈没家族』を発行した。沈没家族(共同保育)は、核家族などの今の家族のあり方を否定したりするのではなく、「大人(親も含めて)と子どもとの、こういう生活の仕方や在り方があってもいいかも?」という呼びかけであると同時に、より多くの人々とのつながりを広げていくための場でもあった。共同生活には、母親3人、子ども3人などが参加、その家は「沈没ハウス」と名付られた。屋上ではビアガーデンや写真展なども行われた。メンバーの中に詩人の究極Q太郎が過去に参加していて、漫画家の藤枝奈己絵も2009年頃まで在住していた。場所は東中野。参加者の中に神長恒一、ぺぺ長谷川らだめ連のメンバーがいたということで、他のストリート系の岡画郎や多摩川の川原でテント生活をしていた若者たちなどとも交流を持っていた。沈没家族は、1990年代後半、ストリート・カルチャーの実際的な生活実験として、注目を浴びた。月刊「現代思想」(青土社)の1997年5月「特集 ストリート・カルチャー」にはだめ連などと並んで取り上げられている。他に誌面に取り上げられていたのは、岡画郎、きんじハウス、メンズ・リブ東京、銭湯的労働者協会、新宿西口ダンボールアートなどである。1998年にはフジテレビが「私の子供を育てませんか?~"沈没家族"という試み~」と題してドキュメンタリーを制作し、1998年のFNSドキュメンタリー大賞の佳作に選ばれた。また1999年には、イラネナホシナ監督が、初監督作品として「Tuchi」(つち)というドキュメンタリー映画作品で2000年イメージフォーラム奨励賞を受賞した。映画では母・加納穂子(ほこ)と5歳になる子(つち)の日常生活を追い、突然家出してしまった子とそれを探し回る母親、ようやく見つかった子を置いて、今度は母親が家出してしまうといった様子を淡々と映像化した。家内制小出版◎ポポタム・発行の、『harappa03』特集・他人と暮す(2004年10月)にも、「「沈没ハウス」でカレーを食べる~居心地の悪さと、居心地のよさと」と題して取り上げられている。

出典:wikipedia

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