LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

政治学史

政治学史(せいじがくし、)は、政治学の歴史を指し示す用語である。政治学の理論の変遷、学説の歴史及びその歴史的背景を対象とする。特に政治哲学や政治思想の歴史を扱う場合は、政治思想史とも呼ばれる。ただし、両者は厳密に使い分けられない場合もある。ここでは、政治学一般の歴史を記述することとする。古代のギリシャやローマ(古典古代)においては、ポリス(polis)やキウィタス(civitas)という特異な政治社会が形成されていた。ポリスやキウィタスを当時のそれ以外の政治社会と区別する特徴としては、スパルタのリュクルゴスやアテナイのソロン、ローマにおける十二表法の成立などに見られる、政治が制度によって問題解決されるものという意識が存在したことであった。リュクルゴスやソロンは「立法者」(nomothetēs)と呼ばれ、今日で言えば憲法に当たる法律を制定し、法制を敷くことで現実の社会構造の変化に政治社会を対応させ、かつ専制を抑制する機能を果たした。一方で、ポリスやキウィタスといった政治社会は実際には特殊であるにもかかわらず、普遍性をもって捉えられ、このような社会を必然化し永続的なものであると捉える傾向も存在した。この時代を代表する哲学者としてはプラトンとアリストテレスが有名であるが、この2人の間の政治思想と方法論の相違と対立は、そのまま現代の政治学の方法論においても当てはまる。ギリシャの哲学者プラトンの著作は数多いが、その中で『国家(ポリテイア)』は政治を直接問題としている。ただし『ポリテイア』が対象とする政治社会は前述したポリス社会であり、近代的な政治社会とは異なっている。プラトンは、国の制度というものが人間を育てるものであると述べ、よい国制がよい人間を、悪い国制が悪い人間を育てるとして、よい国制について論じている。プラトンは、よい国制は各自の能力によってその階級を決め、適切な位置に適切な人材を配置することによって実現できると述べており、したがって結果的には個人を不平等に扱うものである。しかしプラトンは、性差による不平等については批判を加え、女性であっても能力さえあれば軍人になってもかまわないと述べた。またプラトンは、軍人や統治者などの支配身分に属する者は私有財産を持ってはならず、共有しなければいけないと述べた。これは支配身分が公共性を持たなければならないことを主張するもので、支配身分の者は1:1の結婚生活も許されず、支配身分の者から産まれた子供は親子関係も明らかにされずに国家の共有財産とされるべきことを主張した。このような政治社会の頂点に立って管理するのは、国家の教育者としての哲学者であるべしという哲人王思想を述べた。アリストテレスはプラトンの政治論を、きわめて非現実的であり経験に基づいていないと批判した。彼によれば、国制においては政治制度をどのように運用していくかという観点が重視されねばならず、プラトンのように理想の政治社会から現実の国制を改変するのではなく、現実の政治社会から理想の国制を展開していくべきであった。国制はその追求する目的によって決定される善悪と支配者の数によって形態が決定されると述べ、それによって国制を大きく6つに分類した。アリストテレスは人口や風土、国民性などから適合的な国制を研究していくべきだと考えていた。またアリストテレスは「政治人」(zōon politikon, homo politics)という人間観を示し、人間は必然的に政治社会を生きると述べた。共和政ローマの代表的な文人・政治家であるキケロはストア派の哲学に影響され、自然法思想を政治研究に取り入れた。また『国家論』のなかでキケロは正義を自然法に基づくものとし、人は正義のために生まれ、権利は自然に基づくと述べた。キケロはさらに自由と平等を関連づけ、すべての公民が同時にかつ平等に自由を享受できる国家でなければ、それを自由の国家ということはできないと述べている。キケロは共和政ローマの現実の国制を重視して機構論を展開し、執政官・元老院・平民会の間に権力分立が成り立っていることは自然法に合致し、それこそが自由を保障すると述べた。キケロはこのような立場から、カエサルの独裁を激しく非難した。キケロがこのように政治社会と自然法を同次元に見ていたのに対して、帝政初期のストア派を代表する政治家・思想家であるセネカは、現実の政治社会と自然法は乖離していると述べた。自然法に基づく世界共同体・普遍的な世界は精神的なものであり、現実の政治社会で自然法に基づく平等を実現することは不可能で、社会はどこまでも必要悪でしかないと述べた。イエスの死が神の自己犠牲であり、その前提として人間の原罪を設定することによって成立したキリスト教は、政治社会に特徴的な関わりをもった。キリスト教の特徴としては、まず古典古代のギリシャ・ローマの人間観が基本的に能力の調和的発展を理想としていたのに対し、キリスト教の人間観は調和が失われ、分裂的であり、原罪を背負う矛盾に満ちた存在として捉えていたことである。人間はこのような堕落から自力では逃れようがないのであるが、ただ神の慈愛を受け入れ、それを信仰する生活に入れば罪から解放されるとされた。キリスト教においては現世は信仰ほど重要なものではなく、現世の政治は信仰とは基本的に無関係であると考えられた。しかしキリスト教の教会組織は「最終的手段」(ultima ratio)としての暴力装置を持たなかったのにも関わらず、一個の政治社会であった。教会は現実社会に対して強固な統制力を持っていたが、その根拠は決定的に思想・信仰にあった。キリスト教が民族宗教としてのユダヤ教の限界を超え、普遍宗教として成立するのに貢献したのがパウロであった。パウロは現世と信仰を区別し、ローマ皇帝などの権威は神によって存在しているとしながらも、その政治権力自体に価値があるわけではないとした。キリスト教徒がこれらの権威に服するのは良心という最高の価値に従うからであると述べた。ローマ帝国においてキリスト教が国教とされると、世俗の権力と教会の関係が徐々に大きな問題となった。これを説明する理論として両剣論(theory of two swords)が現れた。剣とは権威を意味し、5世紀末の教皇ゲラシウス1世が教義の問題で皇帝と対立したときに作り出された。この考えによれば、皇帝は物質的な剣(gladius materialis)を持つが、教皇は精神的な剣(gladius spiritualis)を持っており、ともに神から別々に下されたものであり対等である。この2つの権力は相補的な性質を持っており、皇帝は永遠の生命のために司教を必要とし、司教はこの世の秩序を維持するために皇帝の力を必要とすると述べた。ここに現実社会は皇帝の支配する世俗の帝国と教皇を頂点とする教会に二分されて把握され、それぞれ固有の法(ローマ法とカノン法)を持ち、それぞれ固有の行政組織・裁判権を持つと主張された。中世の政治思想に大きく影響を与えたのが、アウグスティヌスとその著作『神の国』(413年-426年)である。この著作は、当時北方からのゲルマン民族の侵入によって危機を迎えていたローマ帝国で発生したキリスト教批判に反駁する内容である。彼は現実世界を「地の国」とし、その世界はいずれ崩壊するもので、永遠の「神の国」とは本質的には異なるとした。そのうえで「神の国」は「地の国」と重なり合って歴史を構成しているが、その地上に現れている「神の国」はキリスト教信者の共同体であって、しかも教会と同義ではないとしている。アウグスティヌスは教会も基本的には「地の国」の政治社会に過ぎないと述べるが、それを通じて「神の国」に入るという意味では教会のほかに救いはないとした。アウグスティヌスはキケロの正義論を引用しつつ、キケロのいう正義は信仰なしには存在せず、現実のローマ帝国が没落していくのは正義を欠いているためだと結論づけた。中世国家の特質としては、地域国家であることが挙げられる。中世国家を支配する国王のもとには国境も国土も国民も存在せず、その支配は契約関係に依拠するのであり、なおかつその契約関係は流動的であった。次に国王だけでなく領主も軍事力を持っており、ここでは、現代社会において国家の権力を強力ならしめている暴力の独占が行われていなかった。したがって、国王の公権力の性質と領主の私権力の性質は、暴力に関していえば本質的な区別は存在しなかった。さらに法についても、伝統や慣習が重んじられた。そこには「古き良き法」としての慣習と支配関係を規定する契約があるのみで、国王の権力もそれを改変することはできなかった。国王は契約によって支配したが、同時に契約に支配されていたのである。最後に、中世社会における教会の絶対的な精神的支配を挙げることができる。教皇は、場合によっては国王以上の権威を持っていた。皇帝としてのドイツ国王も中世国家の上位に存在する理念上の帝国(インペリウム)の統治者とされたが、実質に乏しかった上、教皇の支配する教会のほうがより実質的にヨーロッパ世界を統合していた。中世社会では、権力は世俗の国家・王権に、権威は教会に二元化されており、このことがのちのヨーロッパの政治社会を大きく規定した。中世西ヨーロッパの政治社会は、その全体を覆う世俗の権力を持たなかったが、キリスト教共同体としては教会の精神的な支配のもとに統一されていた。このことは、人々の現実生活が宗教によって制約されることにつながった。人間の精神的営みとしての文学、絵画、音楽などの芸術・文化領域は教会に従い、学問も教義の権威に服することになった。学問においてまず優越されるのは神についての学問、神学であり、哲学をはじめとする諸科学は神学に従属した。中世に成立し、近代政治原理に影響を与えたものとしては、イギリスにおいて成立したコモン・ローを挙げることができる。コモン・ロー(common law)とはイングランド王国の一般慣習法という意味で、11-12世紀ごろから地方ごとに存在していたゲルマン慣習法を統合して成立した。このコモン・ローは人為的に変更不可能とされ、13世紀には法曹院が成立し、裁判活動や法曹家の養成において支配的な役割を果たすようになり、コモン・ローは法曹院を通じて整理・体系化された。ここに君主の権力に対する「コモン・ローの優位」が確立され、コモン・ローは王権神授説に基づくステュアート朝の絶対王政に対する有力な対抗理論となり、名誉革命後の権利の宣言・権利の章典により王権神授説は否定され、議会主権の原理に結びついた。裁判所はコモン・ローに基づくのみならず、議会の制定した法律にも従うべきことが規定され、「法の支配」が確立された。以後この思想は、イギリス法体系の基本原則となった。一方で、「コモン・ローの優位」の思想は独立前後のアメリカにも大きな影響を及ぼし、しかもここではむしろ議会の制定した法律に対する有力な対抗理論となった。それは議会の立法権に対する司法権の優位の主張に結びつき、1803年には違憲立法審査権の確立という形で成果となって現れた。19世紀のフランスでは進歩史観に基づき、フランス実証主義が成立した。これは秩序・進歩・友愛によって人間知性が進化していると述べたコントを代表とする、社会を肯定的に見るものであった。一方イギリスでは、古典派経済学に影響されて功利主義思想が流行した。この思想の初期を代表するベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉に代表されるように、道徳的規範や法規範の根拠を幸福の追求に求めるもので、その根底にはアダム・スミスが論じたような予定調和的な経済観があった。続くミルはベンサムが幸福を物質的なものとして捉えていることを批判し、精神的な幸福としての道徳を政治の基礎とした。彼は『自由論』を著して言論の自由を訴えたが、その背景には人間の能力が本来的には調和的に発展するものであるという人間性に対する信頼があった。彼の『代議制統治論』は代議政体が最善の統治形態であることを主張するものであるが、同時に現実にさまざま存在する統治形態は環境的条件などにより相対的価値を持っているとし、ただ民主主義政体であればよいというわけではないと述べた。ミルは女性の解放には熱心で、婦人参政権運動などにも積極的に関わったが、反面労働者階級による「階級立法」を警戒し、労働者問題には消極的であった。イギリス功利主義もフランス実証主義も経済的自由主義、自由貿易を主張するものであった。近代的な政治学理論はドイツにおいて国家学という形で発達し、そこでは政治社会は国家として捉えられた。19世紀のイギリス・アメリカでは、功利主義・フランス実証主義・国家学の影響を受けて多元的国家論が唱えられ、国家と社会を区別し、両者を包含する形で政治社会を捉えようとする思潮がおこった。国家学は、主権概念と結びついた近世自然法思想の影響のもとに、国家有機体説とドイツ観念論の国家主義的な傾向を受けて成立した。また国家学においてはヘーゲルに基づいて社会の道徳的価値は国家に優越性が認められていた。19世紀末ドイツでは、新カント学派が登場し流行した。新カント学派は自然を対象とする自然科学と人間を対象とする人文諸科学はその方法論においても区別されるべきと述べていた。この考え方によれば、人文諸科学は対象領域において重複しているが、それぞれ独自の方法論を持っているために、それぞれの学問分野が個別に成立しうるものであるとされた。この考えは、のちに国家学から政治学を独立させる根拠となるものでもあるが、この時代の実際の研究者の間では政治学を国家学の一分野とする見方が一般的であった。国家学はジャン・ボダンの主権論やアルトジウスの自然法理論を先駆とし、ヴォルフによって基礎が整えられた。続くブルンチュリは『一般国法学および政治学の歴史』を著し、国家学を体系づけるとともに、学説史と結びつけた。19世紀ドイツを代表する国家学者であるイェリネックは、国家学は政治制度を研究する「国家社会学」と憲法・行政法・国際法などを研究する「国法学」に分け、政治学は国家の目的についての規範的研究と位置づけていた。彼は新カント学派に影響されて、国家を法的組織(形式)と社会形象(当為)の二面性を持つものとして把握すべきであると唱え、国家の形態は多様であり、類型的に把握すべきだと論じた。これに対しケルゼンは、当為と形式は関連性がない別個の領域で、国家は法秩序として一元的に捉えるべきであるといい、形式を重視した純粋法学を提唱した。彼はまた価値絶対主義が政治的絶対主義を生み、価値相対主義は政治的相対主義=寛容を生むといい、民主主義は価値相対主義に基づくと主張した。ケルゼンは、道徳と法はその存在領域が異なるためにその対立は存在せず、政治的な義務としての法規範が、倫理的な義務としての道徳規範と対立することはないと述べた。シュミットは、政治の本質は決断であると述べ、国家における決断の主体として主権を定義し、主権国家を擁護した。現実的には優柔不断な政権よりはナチスの独裁の方がよいとして、ナチスとその拡大政策の支持につながった。彼は『ヴァイマル・ジュネーヴ・ヴェルサイユとの対決』を著し、ヴァイマル体制を批判していたので、それもナチスの目的と合致するものであった。ヘラーは国家学を政治学の一分野とし、従来国家学に政治学が含まれてきたことを批判した。また、「ヴァイマル体制は敗戦の結果強要された政治体制で、ドイツの国民性に適合していない」とする見方があったのに対して、ヴァイマル体制はドイツの近代政治思想の正統を継承するものであると擁護した。しかし、新たに台頭したナチスはヴァイマル体制の打破を目的としていたので、ヴァイマル体制を擁護したヘラーは亡命を余儀なくされた。国家学が政治社会を国家とほぼ同義に見ていたのに対して、アメリカやイギリスで興った多元的国家論は、国家の役割をより限定的に見るものであった。コールは、社会を全体性に基づく柔軟なコミュニティと、その内部に存在する目的性に基づくアソシエイションに分類すべきと述べた。コミュニティは世界、国民、村落といった柔軟かつ多様な社会で、その内部に会社、結社、組織などといった目的性を持った社会としてのアソシエイションが存在しているとした。これによれば、政治社会は国家学のように国家の利害に基づいて成立するのではなく、多様なアソシエイションの利害の総合の上に成り立つものであるとされた。つまり政治学の対象を国家だけでなく、社会のさまざまな集団に向けるものであった。ラスキはコールの論に基づいて、国家はアソシエイションの1つに過ぎないのであるから道徳的優越性を持つものではないとして、政治学が国家中心に語られるのを批判した。一方で、経済的な研究から階級主義的な歴史観を提唱したマルクスは、社会を階級に基づいて把握することを提唱し、社会・国家の政治闘争を階級間の利害対立に還元する見方を示した。19世紀に入ると社会政策も本格的に学問の対象とされ、主に経済学の影響を受けて社会政策思想が成立した。まず1858年にイギリスの功利主義・自由貿易主義に影響されて、ドイツの自由主義者が「ドイツ経済者会議」(Kongress deutscher Volkswirte)を結成、それを根拠として「ドイツ・マンチェスター学派」(das deutsche Manchestertum)が形成された。彼らは貿易自由政策を重視するよう主張する一派で「ドイツ自由貿易学派」とも呼ばれ、その中心人物はプリンス・スミスである。当時、ドイツを中心とする中央ヨーロッパ諸国はドイツ関税同盟を形成していたが、この時期北東ドイツの農業地帯及び北海沿岸の港湾都市は経済上イギリスとの結びつきが強く、彼らはその経済的利害を代表していた。具体的には、ドイツ関税同盟に代表される保護関税政策を拡大することに反対し、むしろ不必要な高率の保護関税を廃止すべしと論じた。一方で、ドイツ国内の急速な工業化・先進化はとくに労働問題を先鋭化させ、労使関係の調整が必要とされていることは明らかであった。講壇社会主義は主にアカデミックな立場から、国民経済を、その崩壊を招きかねない労働問題・社会問題の激化から救出することを第一の目的としていた。この学派は「社会政策学会」という機関を持ち、代表する論者はシュモラー及びブレンターノ、ワグナーであった。彼らはまず、経済的な自由主義の道徳的価値が絶対であるとする自由貿易学派の主張に対し、社会政策に関する学問は科学的でなければならず、したがってそれはあらゆる道徳的価値を排した、客観的な学問にされるべきだとして批判した。彼らは労働者を保護すべきだと論じたが、それは倫理的な理由によるのではなく、産業社会の進展に必要不可欠な負担であると論じた。したがって講壇社会主義は労働条件の改善などの社会改良を主張しながらも、一方で労働運動にはむしろ否定的であった。イギリスでは19世紀末から20世紀初頭にかけて、工業化と都市への人口集中が進み、労使の階級対立やマスコミの発展により政治状況が急速に変化した。このような状況を受けて1867年と84年の選挙法改正が行われ、労働者階級に広汎な選挙権が与えられたにもかかわらず、労働者の議会進出は緩慢であった。選挙権の拡大に伴って投票率は低下し、政治腐敗や政治的無関心が蔓延し、候補者の当落は政治的業績や理念よりも容貌や演説の巧みさ、広報活動や運動のテクニックに影響されるようになった。ウォーラスは、民主主義が制度として確立されているのにもかかわらず、実際の状況がこのように民主主義の本質とはかけ離れていることを危惧し、1908年現代政治学の先駆的著作『政治における人間性』を発表した。同年、アメリカの社会学者ベントレーは、当時アメリカで流行していた制度論的政治学を「死せる政治学」(Dead Political Sciences)と批判し、『統治の過程』を発表した。彼は、政治とは利益を巡って形成される党派間対立と、統治機構によるその調整過程であると述べて、制度的研究よりも党派と政治の過程を重視すべしと述べた。しかし、ベントレーの主張は政治学界では当初あまり重視されず、むしろ当時個別の学問として発展し始めた社会学に影響を与えるものだった。ウォーラスの研究に依拠しつつ、心理学や政治的多元主義の影響を受け、1920年代末にシカゴ大学のメリアムとラスウェルを代表とするシカゴ学派が形成された。メリアムは経験的研究では成果をほとんど挙げることはなかったが、問題提起と後進の育成に努力し、彼の周辺では政治学の基本的目標と方法について活発な議論が行われた。メリアムは1925年に『政治学の新しい視角』を発表し、政治学の研究方法に心理学と統計学の導入を訴えた。メリアムを創始者とするシカゴ学派の目的は、政治学の科学化であった。1950年代に入ると、シカゴ学派の研究を基礎として、政治学は新しい局面を迎えた。行動科学的アプローチという新しい手法が導入され、「行動科学革命(行動論革命、"behavioralist revolution")」と呼ばれるほどのインパクトを与えた。行動科学政治学の先駆は1945年、サイモンによる『経営行動--経営組織における意志決定過程の研究』である。同書において「行動」「意志決定」「組織」といった用語が使われ、政治学に定着した。サイモンは多才で学際的な性格の研究者で、社会学や経営学など隣接諸科学とも積極的に学的交流をはかり、その結果社会学の分野でもこれらの用語が定着した上、サイモンによって現代行政学が基礎づけられ、政治学からの独立の契機となった。次に、キーは『南部の政治』を著して政党研究の先駆となり、トルーマンはベントレーの政治過程論を見直した。アーモンドは政治システム論を比較政治学の分野に導入した。彼ら行動科学政治学の開拓者達は、いずれもシカゴ学派の系譜に属する研究者であった。行動科学政治学において、政治学は行動科学の一種と看做される。すなわち政治現象を行為者としての人間及び集団の行動と考え、行動科学の方法論に従ってその科学的説明を行い人間の行動としての政治現象に関する一般法則を樹立する立場である。より具体的には次のような方法論的特徴を持つ。政治現象についての客観的データを計量的、統計学的な手法により収集する。そのデータから実証的に理論を構築する。政治行動はどんな環境にあっても統一性・共通性を持つとする観点から、理論の一般性を重視する。政治現象を人間の行動と看做す立場から、分析単位として制度を退け人間及び集団により現実に作動する政治の過程を選択する。以上が際立った方法論的特徴である。こうした特徴は価値中立的で、自然科学の方法論に類似したものと考えられた。行動科学政治学はデータに基づく実証分析を確立し、その後の行動科学的手法以外の手法をとる政治学にも大きな影響を与えた。一方でこのようなデータに基づく実証は、膨大なデータを処理することが可能なコンピュータの出現により可能なものとなった。行動科学政治学は、政治過程の分析と比較に関してこれまでにない成果を挙げた。代表的な論者であるイーストンは政治現象を捉える一般的な枠組みとして、政治システム論を構築した。これは政治現象を政治システムへの入力・政治システムからの出力・フィードバックの総体と捉えるものである。政治システム論は特定の、或いはある政治社会に固有の制度を乗り越えて政治現象のあり方を分析できる画期的な一般理論であった。こうしたアプローチは、制度が未発達なところでの政治現象の分析には特に優位性を持つ。さらにアーモンドは政治システム論を発展させ、比較政治学に適応した。すなわち、社会学者パーソンズの構造=機能分析を政治システムに応用するとともに、政治システム論を基に政治文化論を提唱した。これにより従来の制度的比較を超克し、政治過程に関してのより意義ある比較が可能となったわけである。ダールはポリアーキーなどの概念を用いて、行動科学政治学の視点からデモクラシーや政治的多元主義を説明した。国際政治学にシステム論を応用しようと試みたカプランや、ドイッチュも有力な論者である。かくして政治学における主流派の地位を占めるに至った行動科学政治学だが、1960年代には様々な角度から批判されるようになる。さらに行動科学政治学側でも、それらの批判をうけて脱行動科学の方向を模索し始めた。既に1940年代・50年代から行動科学政治学と一線を画す研究は行われていた。その代表的なものの一つは、後述する合理的選択理論である。さらにモーゲンソーは社会科学のディシプリンとしての国際政治学の確立を目指す一方で、行動科学の手法とは距離を置いた。『科学的人間 対 権力政治』("Scientific Man versus Power Politics

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。