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ドーリットル空襲

ドーリットル空襲(ドーリットルくうしゅう、英語:Doolittle Raid)は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍が航空母艦に搭載したアメリカ陸軍航空軍の爆撃機によって行った日本本土に対する初めての空襲である。名称は空襲の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来する。ドーリットル空襲とは、太平洋戦争緒戦の1942年(昭和17年)4月18日、ヨークタウン級航空母艦2隻(エンタープライズ、ホーネット)を基幹とするハルゼー提督指揮下のアメリカ海軍機動部隊が太平洋を横断して日本列島(本州)東方海域に到達、「ホーネット」よりB-25双発爆撃機ミッチェル16機が発進し、大日本帝国に対する太平洋戦争初の日本本土攻撃を実施した一連の空襲。ジミー・ドーリットル中佐を指揮官とするB-25爆撃機16機は、日本本土各地(東京、横須賀海軍工廠、横浜、名古屋、神戸、大阪等)に空襲を実施、民間人に被害があった。軍事的な戦果は潜水母艦から航空母艦へ改造中の「大鯨(龍鳳)」が直撃弾で損傷、また米軍機動部隊の掃討により漁船改造の特設監視艇隊に被害が出た程度だったが、日本軍に与えた衝撃は大きかった。作戦遂行において中華民国の国民革命軍の支援を受けており、日本本土爆撃を終えたB-25は中国大陸に不時着して放棄された。この際、搭乗員8名が日本軍の捕虜となり、その処遇を巡って問題になった。また1機はソビエト連邦支配地域に不時着して、搭乗員は抑留された。1941年(昭和16年)12月8日に行われた真珠湾攻撃以降、アメリカ軍は日本軍に対し各方面で一方的な敗退が続き、さらに開戦後には、同攻撃の援護を行っていた日本海軍の巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26。10隻との記録もある)は、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開した。その結果、翌年上旬までにアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻撃沈し、5隻大破させ、その総トン数は6万4669トンに上った。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民の目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、活発な作戦を行った。さらに1942年(昭和17年)2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を行いこれに成功するなど、一連の本土への先制攻撃を行った。これらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は、これまで殆ど本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民にも大きな衝撃を与え、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断し、ロッキー山脈でこれを阻止する作戦の立案を指示し、同時にニイハウ島事件の影響もあり日系アメリカ人の強制収容も行うこととなった。さらにアメリカ政府はこれらの日本軍の本土攻撃に対して、国民の動揺と厭戦気分を防ぐべくマスコミに対する報道管制を敷いたが、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報が相次いだ。さらには上記の砲撃作戦の翌日には、ロサンゼルスに対する日本軍機の空襲を誤認した陸軍による高射砲戦が行われた結果、6人の民間人の死者を出すなど(ロサンゼルスの戦い)、アメリカ国内は官民を問わず大きな混乱と恐怖に覆われることとなった。この様な状況を受けて、アメリカ軍は士気を高める方策として首都東京を攻撃する計画を立てた。しかし、当時アジア太平洋の各地域で敗退を続けていたアメリカ海軍の潜水艦は、警戒の厳しい日本本土を砲撃することのみならず、近付くにも大きな危険が伴うために、海軍艦船による砲撃は行えないと考えられた。なおアメリカ海軍は日本海軍のような潜水艦搭載偵察機とそれを搭載する大型潜水艦を実用化していなかった上に、アメリカ陸軍航空軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには空母を日本近海に接近させる必要があり、これは太平洋上で唯一動ける空母機動部隊が危険に晒されることを意味した。その一方、アメリカ軍空母機動部隊は1942年初頭から、マーシャル・ギルバート諸島機動空襲を皮切りに日本軍の警戒が手薄な拠点に牽制攻撃をかけている。連合艦隊参謀長宇垣纏少将は2月2日の陣中日誌『戦藻録』に「冒険性は彼の特徴なり。今や戦局南に西に火花を散らすの時機に投じたりと謂ふべく実効果と合わせ牽制の目的を達したり。今後と雖も彼として最もやりよく旦効果的なる本法を執るべし。其の最大なるものを帝都空襲なりとす。」と記した。宇垣は3月11日にも、戦勝祝賀日の最中に本土空襲があることを想定して「其の結果思ふだに戦慄を禁ずる能はず」と述べている。ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃から間もない1942年1月16日の段階で、海軍に日本本土空襲の可能性を研究させていた。1月31日、空母ホーネットを上空から視察した海軍作戦部作戦参謀フランシス・S・ロー海軍大佐は、双発爆撃機を空母から発進させるプランを思いつく。ロー大佐はこのアイデアを航空作戦参謀ドナルド・B・ダンカン海軍大佐に報告した。2月1日、ノーフォーク沖でジョン・E・フィッツラルド海軍大尉とジェームス・F・マッカーシー海軍大尉がB-25をホーネットから発進させることに成功した。そんな中、アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍航空軍の爆撃機を空母から発艦させ、爆撃後には同盟国である中華民国の領土に着陸させてはどうだろうか」とルーズベルト大統領に進言した。航空軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦の詳細はルーズベルト大統領にさえトップシークレットとされた。また、空母に着艦するのではなく、日本列島を横断して当時、日本軍と戦争中であり、連合国軍の主要構成国の1国であった中華民国東部に中華民国国軍の誘導信号の下で着陸する予定となった。アメリカ軍はウラジオストクを避難場所とすることを検討してソ連に提案したが、日本と中立条約を結んでいた同国は拒否した。B-25を搭載する空母はホーネットとされ、姉妹艦のエンタープライズが護衛に付くこととなった。B-25爆撃機の方は、第17爆撃隊(第34、第37、第95爆撃中隊、第89偵察中隊)から志願者を選別し24機を抽出した。長距離飛行が要求されるため、燃料タンクを大幅に増設したほか、任務の性格上必要ないと判断されたノルデン爆撃照準器を取り外し、代わりに簡易照準器が搭載された。4月1日、16機がサンフランシスコ・アラメダ埠頭で空母ホーネットの甲板にクレーンで搭載された。第18任務部隊(4月13日、ミッドウェー環礁北方で第16任務部隊と合同。同部隊に編入)第16任務部隊1942年(昭和17年)4月1日、16機のB-25を搭載した空母ホーネットおよび護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。途中、エンタープライズと巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流し、日本へ向かった。エンタープライズの乗組員は、ソ連にB-25を輸送する任務だと噂している。攻撃予定日前日の4月18日02:10(03:15とも。以下時刻は24時間制で表記。)、エンタープライズはレーダーに2つの光点を発見する。米艦隊はSBDドーントレス爆撃機を索敵のため発進させ、同機は80 km 先に哨戒艇を発見した。06:44、米艦隊は哨戒艇を視認。それは日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」(日東漁業、昭和10年建造、90トン)に発見されたことを意味した。底引網漁船の「第二十三日東丸」は、軽巡ナッシュビルの砲撃で07:23に撃沈され、乗員14人全員は艇と運命を共にしたが、それまでにインチ砲弾915発と30分を必要とし、「第二十三日東丸」に無線を使う時間を与えた。06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった。後日(昭和18年3月15日附)、日本海軍は「第二十三日東丸」に対し感状を授与した。アメリカ軍は付近の哨戒艇を一掃する事を決意、エンタープライズを発進したドーントレス(アメリカ軍記録ではF4Fワイルドキャット戦闘機)は周辺の哨戒艇を攻撃する。7:00に「栗田丸」、10:00に「海神丸」、11:00に「第一岩手丸」と「第二旭丸」、「長久丸」。11:30に「第一福久丸」、「興和丸」、「第二十六南進丸」。12:00には「栄吉丸」と「栗田丸」(2回目)、「第三千代丸」をそれぞれ攻撃した。「第一岩手丸」は米軍機の爆撃と機銃掃射で航行不能になり、翌日17:00に沈没した。船員は潜水艦「伊七四」に救助された。「長久丸」は機銃掃射で火災が発生し、翌日03:00に沈没した。生存者は「栗田丸」に救助された。「栄吉丸」はSBD1機と交戦し、航行不能となり、支援艦「赤城丸」に曳航されて本土に向かった。12:50、「第二一南進丸」が至近弾で航行不能となり、翌日17:00に球磨型軽巡洋艦5番艦「木曾」が砲撃処分した(乗員は「木曽」に救助)。13:00、「長渡丸」は『米空母2隻、米巡洋艦2隻を発見』したと通報する。約30分後の13:36、ナッシュビルが「長渡丸」を6インチ砲102発、5インチ砲63発と1時間を消費して沈めた。乗員9名が戦死し、5名がナッシュビルに救助されている。第二哨戒艇部隊は監視艇3隻と22名(行方不明14、戦死7、重軽傷13)を失い、第三哨戒部隊は監視艇2隻と15名を失った。アメリカ艦隊による一連の掃討により、特設監視艇隊は「第二十三日東丸」を含め5隻沈没・7隻損傷・戦死33名と戦傷者23名を出した。しかし、漁船改造の特設監視艇隊の報告は米軍機動部隊の奇襲計画を狂わせており、この点で空襲(作戦)に与えた影響は極めて大きかった。米艦隊は発艦予定海域手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたため、当初の夜間爆撃の予定をとりやめ、予定より7時間早い07:20からB-25爆撃機を発艦させ始めた。最後のB-25が08:19に発艦した後、艦隊は直ちに退避を開始した。なお、B-25の7番機(テッド・W・ローソン中尉)の搭載爆弾には、駐日米海軍武官補佐官ステファン・ユーリカ海軍中尉の所有物で、かつて日本から授与された紀元2600年祝典記念章がドーリットルの手で装着されていた。ドーリットル率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、三重県四日市市、兵庫県神戸市を爆撃した。16機中15機が爆撃に成功した。以下、特筆すべき機のみ記載する。ドーリットル機(機体番号40-2344)は茨城県から東京上空に侵入し、12:15に空襲を行った。東京第一陸軍造兵廠を目標としていたが、全く無関係の場所を爆撃してしまい、民間人に死傷者を出す。結果、早稲田中学の校庭にいた4年生の小島茂と他1名が死亡、重傷者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。ドーリットル機は日本陸軍の九七式戦闘機の追尾を振り切り、海軍厚木基地近くを通過して海上に出た。この時厚木基地に配備されていた機体は、旧式の九六式艦上攻撃機だった。相模湾を北上して東京へ侵入しようとした4番機(機体番号40-2282、機長エベレット・W・ホームストロム少尉)は、唯一爆弾を海上に捨てて離脱したB-25となった。機長は日本軍機多数に迎撃され、機銃も故障して離脱したと申告している。6番機(機体番号40-2298)は東京を目標としたのち、中国大陸沿岸の日本軍の占領区域に不時着した。爆撃手ダイター軍曹、航空機関士フィッツマーリス伍長が死亡し、機長ホールマーク中尉、副機長メダー少尉、ネルソン航空士が捕虜となった。8番機(機体番号40-2242、エドワード・J・ヨーク大尉)は鹿島灘から東京へ侵入したが、燃料消費がはやく、北上して栃木県西那須野駅、新潟県阿賀野川橋梁付近を爆撃しつつ、日本海へ抜けてウラジオストクに向かった。日本海を越えて19:35にソ連本土に不時着したが、すぐにソ連警察によって拘留されてしまう。乗員は各地を転々と移送されたのち、同盟国のイギリスの影響圏であるイラクに脱出して、1943年(昭和18年)5月29日にようやくアメリカに帰還した。他に2番機(機体番号40-2292)、3番機(機体番号40-2270)、4番機(機体番号40-2282)、5番機(機体番号40-2283)、7番機(機体番号40-2261)、9番機(機体番号40-2303)、10番機(機体番号40-2250)の計10機が東京を目標とした。また11番機(機体番号40-2249)と12番機(機体番号40-2278)が横浜を目標とした。13番機(機体番号40-2247エドワード・E・マックエロイ中尉)は、房総半島の南部を横断して横須賀に向かった。13:00頃、記念艦「三笠」の上空から爆撃を開始し、3発目の爆弾が、横須賀軍港第4ドックで潜水母艦から空母へと改装中だった「大鯨」(龍鳳)に命中する。「大鯨」では火災が発生した。13番機は日本海軍の中枢(横須賀鎮守府)を爆撃することに成功し、対空砲火の中を離脱した。16番機(機体番号40-2268ウィリアム・G・ファロウ中尉)は名古屋を目標としたのち和歌山に向かい、後に中国奥地で全員が捕虜となった。この16番機は日本領土内の各地で民間人に対する機銃掃射を行い、これが後の死刑判決に繋がった。他にも14番機(機体番号40-2297)が名古屋を、15番機(機体番号40-2267)が神戸を爆撃した。空襲を終えた16機のB-25のうち、北のウラジオストクへ向かった8番機を除く15機のB-25は日本本土南岸の洋上を飛んで中国大陸へ向かった。この時、B-25は遭遇した船舶に対して、それが民間船であろうと機銃弾のある限り攻撃を行った。15:00、室戸岬沖で漁船「高島丸」が攻撃を受け重傷1名。16:00、足摺岬沖で漁船「第二三木丸」が2機に銃撃され、2名が死傷。17:15、鹿児島県口永良部島近海で漁船「昌栄丸」が機銃掃射を受け、重傷1名が出た。4月18日06:30、「第二十三日東丸」から『空母2隻を含む機動部隊発見』という通報を受けた日本軍は警戒を厳とする。しかし日本海軍は、アメリカ軍の攻撃は航続距離の短い艦載機によるものと判断し、米軍機の発進・空襲は早朝(4月19日)と推測した。そこで連合艦隊は「対米国艦隊作戦第三法」を下令し、第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将(旗艦「愛宕」)の第二艦隊に米機動部隊の捕捉・撃滅を命じる。横須賀にいた空母「祥鳳」、高雄型重巡洋艦2隻(愛宕、高雄)、水上機母艦「瑞穂」、第4駆逐隊の陽炎型駆逐艦2隻(嵐、野分)に加え、三河湾にいた重巡洋艦「摩耶」(第四戦隊)、瀬戸内海にいた妙高型重巡洋艦2隻(羽黒、妙高)、川内型軽巡洋艦2番艦「神通」(第二水雷戦隊旗艦)、日本に帰投中の重巡洋艦「鳥海」が米艦隊迎撃任務にあたることになった。同時に第二六航空戦隊も戦闘準備を整えつつ、哨戒機を発進させた。当時無敵を誇った南雲忠一中将指揮の南雲機動部隊はインド洋で行われたセイロン沖海戦から日本への帰路についており、台湾近海を航行中だった。第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)に属する空母2隻(蒼龍、飛龍)にも迎撃命令が下ったが、関東沖合の米機動部隊を捕捉するには距離が遠すぎた。日本海軍からの通報を受けた陸軍は、万一に備えて各地の飛行部隊と防空部隊に防衛と哨戒命令を出した。さらに敵爆撃機警戒警報を出したが、「敵機の高度は高い」の通達が各地の判断を惑わせる。このため各部隊はB-25編隊を発見しつつ、日本軍機と勘違いして上級司令部へ通報してしまう。菅谷と岩屋監視哨はB-25を米軍機と断定して報告したが、電話交換手と監視隊本部との押し問答で15分を浪費し、情報は有効に生かされなかった。かろうじてB-25の通過前に迎撃を開始した高射砲部隊もあったが、旧式の八八式七糎野戦高射砲でB-25を捕捉することは出来なかった。逆に高射砲弾の破片が市民7名を負傷させた。陸軍よりも海軍の高射砲台の方が活発に射撃したが、1発の命中弾もなく終わる(また、各砲台は半分以上が工事中だった)。横須賀軍港には多数の艦艇が停泊しており、祥鳳・愛宕・高雄・嵐・野分・朝潮・荒潮・潮・漣・第二十二駆潜艇等が発砲したが、いずれも命中弾はなかった。第二艦隊(旗艦:愛宕)は外洋に出て米機動部隊を捜索したが会敵できず、21-23日にかけて各艦は母港へ戻った。なお陸海軍とも三八式歩兵銃による対空射撃が多数記録されているが、全く命中しなかった。三沢海軍航空隊第十一航空艦隊第二六航空戦隊の木更津基地からは、一式陸上攻撃機部隊が米艦隊捜索に発進した。第四索敵機(有川俊雄中尉)が09:30にB-25単機を発見したのみで、米艦隊発見には至らなかった。エンタープライズは50 km まで接近した偵察機の存在を記録している。午後12時30分、第十一航空艦隊は敵艦隊の位置がわからないまま、魚雷を装備した一式陸攻30機、偶然内地に帰還していた空母加賀所属の零戦24機(12機とも)を米艦隊発見地点に向かわせた。しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった。一式陸攻3機が墜落と不時着で失われ、零戦1機も不時着して大破した。三沢海軍航空隊は19日以降も索敵を行い、大部分は米軍機動部隊攻撃に備えて待機したが、もはや出番はなかった。B-25の大半の侵入ルートにあった水戸陸軍飛行学校は、本来航空通信と機上射手の教育を目的としていたため、航空戦力がなかった。教官の平原金治曹長が九七式戦闘機で出撃したものの、B-25には追いつけなかった。しかしながら、試作戦闘機「キ61」(のちの三式戦闘機「飛燕」)試作2・3号機に搭載したホ103 一式十二・七粍固定機関砲射撃試験のため、水戸飛校を訪れていた陸軍飛行実験部実験隊の荒蒔義次少佐、梅川亮三郎准尉がキ61で迎撃している。荒蒔機は装備の弾薬筒を代用弾(演習弾)から実弾に変更するため離陸が遅れ、会敵出来なかったものの、梅川機は代用弾のまま先行離陸、B-25の11番機(ロスグリーニング大尉)を捕捉し、白煙をふかせた。11番機は東京に侵入することができず、偶然発見した香取海軍飛行場を爆撃し、九十九里浜を抜けて離脱した。なお、これによって撃破されたB-25は4番機(ホームストロム少尉)ともされている。なお11番機は日本軍戦闘機2機の撃墜を報告したが、キ61は無事帰還した。また川崎を爆撃した9番機(ハロルド・F・ワトソン中尉)は、機関銃を4丁装備した引き込み脚の戦闘機から攻撃を受けたと報告している。さらに正午に翌日ラバウル航空隊へ送るために試験飛行をしていた海軍の十三試双発陸上戦闘機が横浜上空に高角砲の弾幕と山肌スレスレを飛行する双尾翼の双発機を目撃して操縦していた小野飛曹長は九六式陸上攻撃機かと思ったものの、当日早朝に敵空母機動部隊発見の報告から警戒警報が出されていたことから米軍機かもしれないと考え、実弾を積んでいなかったため攻撃は行わず、急いで木更津基地へ滑り込んだ。横須賀航空隊からは、宮崎勇飛行兵曹ら3機の零戦が発進し、哨戒飛行にあたっていた。零戦隊は『双発機2機が試験飛行で飛ぶので注意せよ』との通達を受けており、対空砲火の中を飛ぶB-25を通達のあった味方機と誤認した。零戦隊が敵機だと知らされたのは着陸してからだった。東海地区では、B-25到達までに時間があったことから、空襲前に迎撃機が発進した。鈴鹿海軍航空隊から九六式艦上戦闘機9機、九六式艦上攻撃機、九七式艦上攻撃機6機が出撃したが、空振りに終わった。「陸上爆撃機は高高度襲来」の思い込みから高高度で待機し、少数機が低空で飛行するB-25を見落とした結果だった。逆に洋上哨戒に出た九七式艦上攻撃機1機が不時着し、乗員は救助された。陸軍からは明野陸軍飛行学校が臨時防空戦闘機隊を編成し、一式戦闘機「隼」3機、九七式戦闘機15機に教官が搭乗して離陸した。この部隊もB-25と遭遇できずに帰還した。阪神地区では、陸軍の飛行第13戦隊が空襲にまったく対応できず、出撃記録も不明である。ただし、B-25の15番機が神戸上空で九七式戦闘機2機を目撃している。海軍は阪神地区の防空を担当しておらず、動きはなかった。岩国航空隊が所属機を横須賀に派遣したのみである。洋上では、佐伯海軍航空隊所属の九九式艦上爆撃機2機が15:47に高知県足摺岬沖でB-25を発見した。井上文刀大尉は追跡を命じたが、速度の遅い艦上爆撃機ではいかんともしがたく、振り切られた。宮崎県都井岬沖にはフィリピン方面に向け進出中の第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)が航行しており、16時17分に陽炎型3番艦「黒潮」がB-25数機を発見し、主砲と機銃で攻撃したが、損害を与えることはできなかった。日本側の被害は死者87名、重傷者151名(うち後日死亡1名)、軽傷者311名以上、家屋全壊・全焼112棟(180戸)以上、半壊・半焼53棟(106戸)以上であった。このうち9名は日本軍高射砲の破片によると認められている。国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃を故意に行った機もあり、葛飾区にある水元国民学校高等科生徒石出巳之助が機銃掃射を受け死亡した。この学童には「悲運銃撃善士」という戒名が与えられた。朝日新聞社は『鬼畜の敵、校庭を掃射』等を報じている。また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。ただし、このB-25(3番機)は学校屋上に設置されていた防空監視櫓を見て軍事施設と誤認した可能性がある。14番機は名古屋病院を爆撃したが、これは第3師団司令部を狙った攻撃がそれたためである。16番機は他のB-25に比べて積極的に機銃掃射を行った。爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュート脱出した。この結果、15機のB-25が全損となった。8番機はソ連のウラジオストクに不時着、乗員は抑留された。乗員は戦死が1名、行方不明が2名、捕虜となったのが8名で、残る隊員はアメリカへ帰還して熱烈な歓迎を受けた。昭和天皇は杉山元参謀総長からではなく東久邇宮稔彦王防衛総司令官に真相を直接報告せよと勅命した。それに対し、東久邇宮防衛総司令官は「敵機は一機も撃墜できませんでした。また今のような体制では国内防衛は不可能です」と答申する。なお、大本営は「敵機9機を撃墜。損害軽微」「わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり」と発表した。中部軍に至っては、空襲直後に「東京防空隊ノ撃墜セシ機数7」を報告している。しかし当日は晴天であり、墜落した航空機など市民からは一機も確認されなかった。このため、大本営の発表に対し、『皇軍は空機(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜したのだ』と揶揄するものもいた。そのため陸軍は中国大陸に不時着したB-25の残骸を回収し、4月25日から靖国神社で展示して、国民の疑念を晴らそうとした。4月26日の朝日新聞は『まさしく大東亜戦下の靖国神社臨時大祭にふさわしい景観』と評している。陸軍報道部は「指揮官はドゥ・リトルだが、実際(被害)はドゥ・ナッシング」と発表した。この空襲のため東京六大学野球の開会式が中止となった。朝日新聞は4月19日朝刊で『バケツ、火叩きの殊勲、我家まもる女子、街々に健気な隣組』『初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散。"必消"の民防空に凱歌』『われに必勝不敗の国土防衛陣あり』等を報じ、日本国民の冷静さを強調した。一方、日本軍は空襲に対して疑心暗鬼となっていた。空襲前日の4月17日、伊豆諸島沖を航行していたソ連商船「セルゲイ・キロフ」が駆逐艦「澤風」の臨検を無視して逃走し、「澤風」が拿捕する。ソ連船は4月22日まで拘留された。足摺岬沖のソ連商船「バンゼッチ」も、九九式艦爆2機から威嚇射撃を受けた。これはソ連商船がB-25の行動を本国に報告しており、空襲と関係があるものと疑ったためである。空襲後は各地の監視哨から存在しない敵大編隊発見の報告が入り、上級司令部を混乱させた。カモメの大群を「敵味方不明の大編隊」とする報告や、存在しない米軍機との交戦報告が多数寄せられている。一例として、大阪警備府は「ブリストル ブレニム爆撃機と目下大阪上空にて防空隊と交戦中」と4月19日に報告した。また陸海軍機に対する誤認と誤射が18日から21日にかけて多数発生し、鹿島空の九六式陸上攻撃機が陸軍戦闘機から誤射され、高橋光夫電信員が戦死した。一方、日本軍に逮捕された爆撃機搭乗員8人は、都市の無差別爆撃と非戦闘員に対する機銃掃射を実施した戦時国際法違反であるとして、捕虜ではなく戦争犯罪人として扱われた。アメリカは爆撃機搭乗員が捕虜になったことを知ると、「彼らは軍事目標のみを攻撃した」と事実とは異なる主張を展開した。5月6日、昭和天皇は蓮沼蕃侍従武官長に以下の希望を述べた。その後、上海市で開廷された軍事裁判の結果、8名全員に死刑が言い渡された。1942年(昭和17年)10月15日に上海競馬場で操縦士2名と銃手1名が処刑された(ディーン・E・ハルマーク(ホールマーク)中尉、ウィリアム・ファロー中尉、ハロルド・スパッツ軍曹)。捕虜の処刑を受けてアメリカは日本の行為を『野蛮人の蛮行』として非難し、大々的にプロパガンダに利用した。また日本の指導者であった東條英機を「血に飢えた独裁者」であると宣伝し、現在もアメリカ国内ではそのように認識されている。1944年(昭和19年)にこれら捕虜を描いた映画『パープル・ハート』が20世紀フォックスによって製作された。3人の遺体は火葬ののち国際赤十字を通じてアメリカ側に引き渡された。残り5人の死刑執行は猶予された。ロバート・J・メダー少尉は1943年(昭和18年)12月1日に南京で栄養失調による赤痢と脚気で死亡した。1人は1945年(昭和20年)当時重慶で療養していたと報道された。1945年(昭和20年)8月20日に捕虜が解放された。16番機爆撃手ジェイコブ・ディシェイザーは1945年(昭和20年)8月20日に北京で解放されたあとキリスト教の伝道者となり、日本で布教活動をおこなった。真珠湾攻撃の飛行隊総隊長を務めた淵田美津雄中佐は戦後ディシェイザーの冊子を読んでキリスト教に興味を持ち、1949年(昭和24年)に改宗した。淵田はアメリカ伝道活動中、ジミー・ドーリットルと対面している。開戦以来日本軍に対し各地で敗退続きだったアメリカ国内はこの空襲によって沸き立ったが、この東京初空襲に対抗して、ただちに日本軍もアメリカ本土に対する攻撃を活発化させた。6月20日には日本海軍の潜水艦「伊26」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を砲撃し、翌6月21日には日本海軍の潜水艦が、オレゴン州アストリアにあるフォート・スティーブンス陸軍基地を砲撃した。その後9月9日と同月29日に日本海軍の潜水艦の艦載機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度に渡り空襲した(アメリカ本土空襲)。この空襲による日米両陣営の被害はなかったものの、「ドーリットル空襲」後も敗退を続けたアメリカ政府及び軍は、国民への精神的ダメージを配慮してこの日本海軍機による空襲の事実を公表しなかった。なおこの空襲は、現在に至るまでアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。空母「エンタープライズ」と「ホーネット」はこの作戦に参加したため、5月8日の珊瑚海海戦に参加することが出来なくなった(同海戦に参加した米軍空母はヨークタウンとレキシントンの2隻)。この攻撃の報に、本土防空を受け持っていた陸軍はもとより海軍の連合艦隊司令長官山本五十六大将は衝撃を受けた。「ドーリットル空襲」が純軍事作戦というよりむしろ戦意高揚を狙った宣伝的作戦であることを見抜きつつ、次回の空襲は本格的な大規模攻撃になると想定し、各部署に警告を発した部隊もある。真珠湾攻撃の影響を免れたアメリカの空母機動部隊によるいやがらせ的な攻撃は1942年前半から既に島嶼部で始まっていたが、「本土空襲を受けて山本長官は日本本土の安全確保のため、敵空母殲滅を視野に入れたミッドウェー島攻略作戦の実行を急がせた」とされる説も見受けられるが、ミッドウェー作戦自体は本空襲以前に4月16日付の大本営海軍部指示にて裁可されている。一方で、ドーリットル空襲を受けて、軍令部と日本陸軍がミッドウェー作戦に俄然本気となったのも事実である。5月5日の大海令第18号にて永野修身軍令部総長は山本長官にミッドウェー島とアリューシャン諸島占領作戦を認可し、陸軍も同作戦に一木支隊を提供した。このアリューシャン作戦には、日本軍にとって貴重な空母隼鷹、龍驤が投入された。また南雲機動部隊司令部は乗組員の休養、疲弊した艦の修理、人事異動によって低下した航空隊の技量向上のため作戦延期を求めたが、山本以下連合艦隊司令部は却下している。陸軍はドーリットル空襲の再発を防ぐため、作戦に利用された浙江省以南の国民革命軍の飛行場を利用できなくすることを目的として、支那派遣軍に命じて浙贛作戦を実施した。作戦は1942年5月中旬から6月にかけて実施され、動員兵力約18万、3個飛行戦隊により、目的の飛行場の破壊と同地を守る顧祝同の率いる第三戦区軍34個師団を打ち破ることに成功する。同作戦は1942年9月30日に終了が発表された。連合国側は中国大陸から日本本土を空襲する作戦を立て、投入予定のB-24爆撃部隊が移動中であった。しかし浙贛作戦によって使用予定の飛行場が攻撃占領されたこともあり、この部隊はルーマニアの油田への空爆作戦であるタイダルウェーブ作戦に転用された。本空襲は、帝都防衛のあり方を問う大きなきっかけとなった。東部軍司令官の中村孝太郎大将は、陸軍防空学校および高射砲第7連隊の高射機関砲を皇居周辺の日劇や国技館の屋上へ配備し、1942年4月20日に、独立飛行第47中隊を防衛司令官の指揮下に入れ、帝都防空の任に当たらせた。軍では、この目的にかなう飛行場として、成増飛行場を建設した。政府は空襲をうけて東京が木造家屋が多いことと道路が狭いために火災による延焼が懸念された。このため都心部で大久保通りの拡幅工事などで強制的に立ち退きを要求され木造の民家の取り壊しが各地で行われた。日本ニュース映画社に映像記録が残されている。首相であった東條英機は、この日の午前中に宇都宮市内を視察した後に次の目的地である水戸に大臣専用機(一〇〇式輸送機ないし三菱MC-20旅客機、首相専用機か陸相専用機かは不明)で向かった。正午、専用機は水戸上空でドーリットル機と約20kmの距離ですれ違った。東條は同乗した秘書官に「あれはアメリカ(の飛行機)だぞ」と叫んだ。秘書官によれば双方の顔が見える距離まで接近していたという。アメリカ側も専用機を銃撃せずそのまま西へ向かった。専用機が飛行場に着陸してすぐ、東條は東京が空襲されたことを初めて知った。東條は「すぐ飛行機で(東京に)帰る」と言い出したが、周囲が「東京の警戒を混乱させる」という理由で、水戸発午後3時の列車で帰京させた。この列車は午後5時45分上野駅に着いた。東條は途中、天機奉伺の記帳のため皇居に寄り、首相官邸に各閣僚からの情報をまとめた後、午後8時に皇居に参内し、天皇に空襲に関する報告をした。なお、海軍の山本五十六連合艦隊司令長官は、軽い腹痛のため勤務を休んでいた。「ドーリットル空襲」の成功はすぐにアメリカ本国でも宣伝されたが、作戦の全容は長く秘匿された。空母ホーネットの名も例外ではなく、日本軍の捕虜となったB-25搭乗員達も「陸地から発進した」等、情報の秘匿につとめたが、4月21日にホーネットの名前を明らかにしている。記者会見で空襲の成功を発表したルーズベルト大統領は記者団からの「爆撃機はどこから発進したのか?」という質問に対し、「発進地はシャングリラ」と答え、煙に巻いた。淵田美津雄中佐は、空母赤城艦上でルーズベルトの声明を聞き、実際に海図を広げてシャングリラの位置を探したという。シャングリラとは当時の小説で映画化もされた『失われた地平線』に出てくる架空の地名で、ヒマラヤ付近にあるとされる神聖な都である。それを知らない記者には冗談が通じず「爆撃機は空母シャングリラから発進」と一部で誤って報道された。このエピソードが元になったものか、後日、本当に空母シャングリラ(CV-38 エセックス級航空母艦の1隻)が就役し、さらにその空母を用いて着艦フックなどの装備を搭載するなどの改修をしたPBJ(B-25の海兵隊仕様機)で発着艦試験が行われた。1943年12月10日、ビルマ戦線(ビルマ航空戦)にて陸軍航空部隊飛行第50戦隊の一式戦「隼」25機は、中国へ補給物資を空中輸送している輸送機4機とともにアメリカ陸軍航空軍のB-25 1機(捜索救助飛行隊ポーター大尉機)を確実撃墜したが、このB-25協同撃墜者の一人である前川美雄伍長はドーリットル空襲で姉を亡くした人物であり、この撃墜は「姉の仇」となっている。

出典:wikipedia

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