山梨 勝之進(やまなし かつのしん、1877年(明治10年)7月26日 - 1967年(昭和42年)12月17日)は、日本の海軍の軍人。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。主だった軍歴を軍政部門に歩み、山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐと目されていた、所謂条約派の1人。また帝国海軍の77名の大将のうち、艦隊司令長官職を経験していない9名のうちの1人である。宮城県宮城郡仙台出身。旧仙台藩士の長男として生まれ、宮城英学校より海軍兵学校(25期)に進んだ。席次は入校時36名中5番、卒業時は32名中2番の恩賜である。松岡静雄、鳥巣玉樹、四竈孝輔らが同期生である。山本権兵衛の副官などを務め、ワシントン軍縮会議では全権随員として加藤友三郎を補佐。人事局長在任中は軍縮条約を日本国内で反映させるべく尽力し、また海軍大臣・財部彪に鹿児島優遇人事をやめるよう進言している。海軍次官在任中はロンドン海軍軍縮条約の締結に奔走した。反対勢力から暗殺される危険があったが、軍務局長・堀悌吉、海軍省先任副官・古賀峯一と暗殺される覚悟で所信を貫く。海軍大臣が不在の海軍省を預かり、岡田啓介の助力を得て、艦隊派の軍令部次長・末次信正をして「山梨のごとき知恵ある人物にはかなわず」と言わしめる活躍であった。このため伏見宮博恭王や東郷平八郎を頂点とする艦隊派から忌避され、大角人事により予備役に編入される。ロンドン軍縮会議の際に反対派が持ち出した理論が統帥権干犯であるが、山梨は「憲法解釈は枢密院の権限で、軍人が憲法を論ずるなど論外である」と書き残している。その後6年間船橋に閑居していたが、昭和天皇の信任が厚かった。山梨は、当時の皇太子・明仁親王の教育を任せられる適材適所の人材として学習院長を拝命する。その際に山梨を訪問し内意を問うたのは、ロンドン軍縮会議の全権の一人である宮内大臣・松平恒雄であった。戦後は宮城育英会五城寮舎監、水交会初代会長を務めつつ、軍人恩給の復活に尽力し、海上自衛隊の創建にあたっては吉田茂ら政財界の説得にあたる。1965年(昭和40年)にはかつて副官を務めた山本権兵衛を偲ぶ会を催した。また中山定義、杉江一三、内田一臣ら旧海軍出身の海上自衛隊幹部の依頼で、海上自衛隊幹部学校において戦史学の特別講師となり、講義内容は『歴史と名将』と題され刊行された。温厚な性格ながら粘り強さを備えた人物であり、およそ人の批判をするようなことはなかった。予備役編入が内定した際に、ロンドン軍縮会議全権であった若槻禮次郎が「貴方はこんな会議さえ無ければ海軍大臣でも連合艦隊司令長官にもなり得たのに誠に申し訳ない」と発言した際、山梨は「誰かが犠牲になって会議が成功したのだから気にするに及びません」と答えた。出身地の宮城の自宅は幼稚園に寄付されている。なお井上成美の山梨に対する評価は高い。海軍部内でも卓越した軍政家であった。海軍次官在任当時、内務大臣であった安達謙蔵が、海軍部外者の立場から「山梨は頭もよく誠実で、機を見るに敏、しかも、将来の国防問題に対する的確な見通しを持ち、部内を統制する識見を持っていた」と評している(安達の自叙伝より)。しかし、艦長としての操艦はすこぶるつきの下手で、特に入港時の操艦では、そばにいる者をハラハラさせどおしであった、と富岡定俊少将が回想している。1919年(大正8年)までは、「軍艦職員勤務令」で、航海中の艦長の役目として「艦長は其の出入港、狭小なる水路の通過及艦隊陣形変換等の時は必ず自ら其の艦の運用を掌るべし」と規定されていた。1919年(大正8年)に新たに「艦船職員服務規定」が制定され、駆逐艦・潜水艦のような小艦艇を除き、出入港など注意を要する状況においても、航海長に操艦させることが許された。山梨が大佐で「香取」艦長を務めたのは1917年(大正6年)12月1日から1年間であり、艦長に「出入港時の操艦義務」が課せられていた。永野修身と同様、小原國芳の良き理解者であり、小原流教育の支援者だった。
出典:wikipedia
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