松本重雄(まつもと しげお 1908年4月15日 - 1992年11月14日)は、日本銀行の理事。東京府立一中、一高を経て、1932年、東京帝大経済学部卒業。同年、日本銀行入行。秘書役、静岡支店長、ニューヨーク駐在参事、総務部長、事務改善調査室長、特別審議室長。名古屋支店長のまま理事(1960年5月14日~1966年4月16日在任)、大阪支店長を経て本店へ。全国銀行協会・東京銀行協会各理事、1969年、東銀協専務理事兼副会長。1978年、顧問就任。1980年、国民政治協会会長。1978年勲二等瑞宝章を受章。1992年11月14日死去。享年84。戦後、“法王”として君臨してきた一万田尚登総裁下の日銀において、金融制度見直しの為の特別審議室長に就任。当時のGHQにより、大蔵からも日銀からも独立させることを念頭に、“民主化”のために設けられた政策委員会(1949年発足)は、一万田の強力な政治力によって日銀総裁を政策委員会議長とした形で、日銀に属することとなった。一方で日本銀行法に関しては、、戦時立法的色彩は薄められながら、日銀法43条のように大蔵大臣の業務施行命令権は依然残り、権限の帰属先が不明で宙ぶらりん状態の法規だとされていた。この日銀法改正を巡って、時の池田勇人蔵相、大蔵次官から日銀総裁に就任した山際正道総裁らの下、更なる大蔵省の金融行政における統制を強めるよう立法強化の論陣を張る下村治に対して、下村に対峙した当時の日銀側の代表的論客として鳴らした。結局日銀は、その後も民間出身の宇佐美洵総裁の下、高度経済成長の下、日銀の意向とは別のところで公定歩合引き下げ、積極財政路線を執っていたが、さらに佐々木直日銀総裁下、田中角栄内閣時代の狂乱物価へと続くこととなった。父の松本常(つね)三郎は、わが国の蓄音機業の元祖とも言われる人の一人である。明治32年(1899年)に父の兄 松本武(たけ)一郎と、社会主義者として後年有名になった片山潜と、輸入商の人との3人の共同発起で、蓄音機の輸入と普及を図るため「三光堂」を創設した。最初、浅草で開業したが、後には銀座にも進出した。また新宿に「三光堂松本蓄音機製作所」を建設し、そこで蓄音機の製造も行った。武一郎は創業数年で物故し、当時、横須賀海軍工廠(こうしょう)の技術者であった父 常三郎が後を継いだ。三光堂
出典:wikipedia
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