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荒井注

荒井 注(あらい ちゅう、1928年〈昭和3年〉7月30日 - 2000年〈平成12年〉2月9日)は、日本の俳優、コメディアン。本名、荒井 安雄(あらい やすお)。東京都出身。ドリフでの呼び名は「ハゲ」「ハゲ注」。立教大学文学部宗教学科中退後、二松學舍大学文学部国文学科卒業。卒業後は脚本家を目指しながら、クレージーウエストのバンドマンを務めていた。二松學舍大学卒業後に教師を務めた事があるとの文献もあるが、真偽は不明である。ただし、教員免許を持っていたのは事実である。芥川龍之介や太宰治を愛読する文学青年という一面ももっていた。1964年、「トリスのおじさんみたいな面白い顔をした奴がいる」との評判を聞きつけたいかりや長介がスカウトして、ザ・ドリフターズに参加。担当楽器はピアノだが、ロカビリーのスリーコードしか弾けなかったという話がある。その一方で、「速弾きを得意とした」(居作昌果)や「一応弾けたが、指が短いために時々半音ずれた」(加藤茶)とも言われている。いかりや長介の著書には、荒井の背の低さとピアノの演奏力をチェックしなかった事が、失敗だったとある。が、この人選の失敗が、「ふてぶてしい」荒井のキャラクターと相まって、ドリフの人気に繋がっていった。ドリフの正メンバーになった直後、事務所の先輩ハナ肇に、芸人は水に関係する名前が良いと言う事で、「~を注ぐ」から採って「注」と言う芸名を名付けられた。加藤茶曰く「要注意人物」だからだと言う説もある。いかりやよりも3歳年上だったが、デビューからしばらくの間、年齢を6歳若くごまかして公表しており、なおかつドリフのメンバー達も彼の実際の年齢を知らなかった。年齢をごまかしていた理由は、ドリフのメンバー達には「リーダーの長さん(いかりやの愛称)より俺が年上だと具合が悪いから」と説明していたが、本当のところは女性にもてたかったのではないかと、いかりやは自伝『だめだこりゃ』の中でコメントしている。初期のドリフメンバーとして活躍し、「This is a pen!」のギャグは大ヒットとなった。コントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、無視をし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」と言うパターンが受けた。学校コントでは、「先生役のいかりやと同級生の落第し続けた生徒」と言う設定であった。中でも代表的なギャグ「何だ、バカヤロウ!」、「文句あるか!」、「何見てんだよ!」は流行語となり、ソロ活動でも頻繁に使用された。このうち「何だ、バカヤロウ!」は、ピアノ担当なのに鍵盤が弾けない事を加藤茶にからかわれたときに言い返した言葉が発端である(いわゆる“逆ギレ芸”の先駆けとも言える)。メンバー後半は「ハゲキャラ」としていじられることが多く、当時『8時だョ!全員集合』のコーナー『少年少女合唱隊』で共演した由紀さおりからは、数え歌まで披露されている。1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフターズを脱退。脱退に関して『8時だョ!全員集合』のプロデューサーだった居作昌果によれば、いかりやのワンマンが気に入らなかった事の他、ギャラの配分をめぐる不平なども関係していたとされる。ただし、いかりやの著書では、荒井からは多くを学んだ等、好印象で語られている。なお、全員集合でのいかりやのコメントは、「(荒井は)暫くお休みをいただく」というものであり、脱退ではなく「休養中」という位置付けの公表だった。一般発表したのは『8時だョ!全員集合』の生本番中だった。交代で新人・志村けんが加入した。「芸能界を引退する」と言ってドリフを脱退したにも拘わらず、引退の半年後に芸能界に復帰したため、いかりやを始めとしたドリフに残されたメンバーと衝突し、和解に3年を要した。和解後はドリフの番組にゲスト出演するようになり、番組でいかりやなどに「仕事が減ったからまたドリフターズに入ろうかなっと思って来た」「たまに来たんだからお茶くらい出せ!」と言ったり、1981年放送のドリフ大爆笑「保存版・ドリフの隠された秘密」のコント内では、いかりやに「陰険な性格とふてぶてしい態度がメンバー全員の反感を買い、ザ・ドリフターズより永久追放の憂き目となる」と、脱退のことをネタにされたりした。芸能界復帰後は主に俳優として活躍した。土曜ワイド劇場の人気シリーズである井上梅次監督、天知茂主演『明智小五郎シリーズ』に1978年の第2話より明智の盟友、波越警部役で出演、天知の死去により最終作となった1985年の第25話まで演じ続けた。「8時だョ!全員集合」の裏番組である萩本欽一の『欽ちゃんのドンとやってみよう』(欽ドン)のレギュラーだったこともある。1991年には38歳年下の元信用金庫職員の女性と再婚した。1992年、嘉門達夫の替え歌メドレー3(完結編)に、ゲスト・ボーカルとして登場。これが荒井最後のシングル曲となった。伊豆に移住してからカラオケボックス経営を考えたが、完成した建物の入口が狭すぎて機器を入れることができず、経営を断念した事がある。この模様はテレビのワイドショーでも取り上げられ、レポーターのインタビューに対し「何だ、バカヤロウ!」とコメントしていた。2000年の正月放送の富士フイルム「お正月を写そう」のCM撮影(撮影自体は、1999年の12月初旬)に、ドリフの現役メンバー(及び田中麗奈)と一緒に出演し、これが荒井を含めたドリフのメンバーが全員集合した最後の映像となった。当初は荒井はそのCMの出演メンバーに含まれていなかったが、七福神役をやるのに人数が1人足りなかった(ジャンボマックスを出演させるという案もあった)のでダメ元で声をかけた所、承諾されて出演が決まった。荒井が一人だけ早く撮影を終え現場を去る際に、いかりやと堅い握手と抱擁を交わし、その姿にドリフのメンバー・スタッフ一同は、いたく感じ入っていたという。2000年2月9日、静岡県伊東市の自宅(『荒井注事務所』という所属事務所を併設していた)で入浴中に肝不全のため急逝。弔辞を読んだのはいかりやであった。遺骨はオーストラリア・ケアンズに散骨された。以下はいかりやによる弔辞である。この後、いかりやが「じゃあ、いずれ」の言葉通り他界したのは、4年後の2004年3月20日であった。荒井の死後、いかりやは荒井を追悼する意味合いも込めて、荒井との思い出を書き綴った自伝『だめだこりゃ』を出版。この『だめだこりゃ』は、いかりやの存命中に文庫化もされた。出棺時、霊柩車のクラクションと同時に参列者全員が、荒井の持ちギャグのひとつ「何だバカヤロウ!」を叫んで見送った。ザ・ドリフターズとしての出演は、「ザ・ドリフターズ」を参照。

出典:wikipedia

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