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忠節橋

忠節橋(ちゅうせつばし)は、岐阜県岐阜市の長良川に架かる、国道157号(国道303号重複)の鋼製アーチ橋である。補強工事や欄干の取替えなどが行われているが、その姿は1948年(昭和23年)の架設当時とほとんど変わっていない。下記は1948年(昭和23年)の竣功時のデータである。明治の初め頃まで長良川には橋が架かっておらず、現在の忠節橋付近は「忠節の渡し」と呼ばれる渡し舟で右岸と左岸が結ばれていた。長良川には1874年(明治7年)に明七橋(長良橋)が、1881年(明治14年)5月に河渡橋が架けられたが、岐阜町(当時)と周辺農村の往来が多くなると、新たな橋の架橋が求められるようになった。出資者約10人により資本金1万5000円の株式会社が設立され、1884年(明治17年)5月に現在の忠節橋より270mほど上流に総工費6,500円で忠節橋(初代)が架けられた。通行料を取る賃取橋で、一人5厘、馬・人力車は2銭が徴収された。1898年(明治31年)には、初代の下流(現在の忠節橋より150mほど上流)に架け替えられた。この橋梁も賃取橋で、他の橋が県費で架け替えられて無料化されるなか、岐阜市で最後まで残った賃取橋だったが、老朽化が激しくなり無料化による利便性向上も望まれたため、県費で架け替えられる事となり2,917円で買い上げられた。1912年(明治45年)、県費51,543円が投じられ、忠節橋(2代目)と同じ場所に木鉄混合平行弦プラットトラス橋の忠節橋(3代目)が完成し、無料で通行可能となった。1936年(昭和11年)12月に着工された長良川上流改修工事で、長良古川(現在の早田川)・古々川(現在の正木川)が締め切られ、併せて長良川本流(井川)の川幅も拡げられる事となり、忠節橋付近も右岸堤防が北に約100m拡げられたため、1937年(昭和12年)に忠節橋(3代目)の北側に約100mの土橋を架けて延伸した。この忠節橋(3代目)も老朽化が著しく、荷重や交通量に耐えられなくなり、鋼鉄製の永久橋に架け替えられる事となった。当初計画(第一次計画)では鈑桁部分を鉄筋コンクリート桁としたもので、1939年(昭和14年)1月に着工したが、太平洋戦争の勃発で鋼・セメント等の主要資材の入手が困難となり、1942年(昭和17年)9月に橋台・橋脚などの下部工が完成した状態で工事は一時中止となった。その後、竣功した橋脚間に新たに木造橋脚(下部鉄筋コンクリート井筒)10基を設置して軌道橋(木造ハウ)と公道橋(木造ラチス)を並列架設する設計(第二次計画)に変更し、1944年(昭和19年)7月に着工したが、翌1945年(昭和20年)7月9日の岐阜空襲で橋梁用材の大部分が焼失して工事は再度中断した。この間、旧橋は幾度かの修繕を重ねて戦時中の酷使に耐えてきた。第二次世界大戦後、将来の自動車交通量の増加を見越して再度設計を変更。1947年(昭和22年)6月に取付道路、同年11月22日に上部工の工事を再開し、1948年(昭和23年)7月31日に諸般の工事が終了。翌8月1日に竣功式を挙行して供用開始した。鋼材の調達が難しかった第二次世界大戦後、日本で初めて架設された大規模鋼橋である。4車線のうち中央2車線に路面電車(名古屋鉄道岐阜市内線)の鉄道用複線軌道が敷設された鉄道道路併用橋だったが、自動車の普及に伴って路面電車の利用客が減少。2005年(平成17年)4月1日に岐阜市内線が廃止されてから、自動車・歩行者用橋梁となっている。長良川の流路(低水敷)を跨ぐ部分の橋梁形式に、ブレースト・リブ・バランスト(カンチレバー)・タイドアーチ橋を採用。日本に現存するこの形式の橋は、北海道旭川市の旭橋、岩手県一関市の北上大橋、東京都荒川区/墨田区の白鬚橋、および忠節橋の4例のみである。路面電車との併用橋であったため、軌道法に準拠する最後の鉄道道路併用橋となっていた。また、列車通行時には片側2車線の道路が実質1車線となり、朝夕のラッシュ時には橋のたもとの交差点で混雑が見られた。また、自動車のタイヤがレールをスリップして他の車と衝突する交通事故も絶えなかった。岐阜市内線の廃止に伴い、以前ほどの渋滞はなくなった。軌道は2007年(平成19年)3月までに撤去されている。なお、忠節橋北端の忠節橋北交差点は、2011年(平成23年)時点で岐阜北警察署管内の交通事故多発場所ワースト3となっている。

出典:wikipedia

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