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サハリンの鉄道

サハリンの鉄道は、ソビエト連邦(ソ連)による南サハリン(南樺太)の実効支配にともないソ連運輸通信人民委員会()および同人民委員会を改組したソ連運輸通信省()が編入し、現在はロシア鉄道公開株式会社()線であるサハリン島内の鉄道について述べる。ソ連軍侵攻前については、樺太の鉄道の項目を参照のこと。1945年8月のソ連侵攻によりソ連軍に接収された樺太鉄道局線を母体とし、軌間は日本国鉄標準の1067mmだが、2003年から広軌(1520mm)に全面改軌中。全線非電化で、営業キロは1992年には1072kmだったが、1990年代に閑散線区の運行休止が相次ぎ、現在は804.9km(2012年現在)である。線区は旧樺太東線を母体とするサハリン島東岸のコルサコフ(大泊)─ノグリキ線およびその支線と、旧樺太西線および南樺太炭鉱鉄道線を母体とするサハリン島西岸および東西連絡線のシャフタ=サハリンスカヤ(内幌炭山)─アルセンチェフカ(真縫)線(シャフタ=サハリンスカヤ─ホルムスク=ソルチローヴォチヌイ間は旅客列車運転休止中)で構成されている。全線で列車集中制御が行われており、指令所はユジノサハリンスク(コルサコフ─ノグリキ線コルサコフ─ドリンスク間およびザオジョールノエ─ノグリキ間)とホルムスク(シャフタ=サハリンスカヤ─アルセンチェフカ線の全線およびコルサコフ─ノグリキ線ドリンスク─ザオジョールノエ間)の2か所にある。2012年には東海岸のユジノサハリンスク─ソコル間とユジノサハリンスク─ノヴォデレヴェンスカヤ間、ソコル─ブイコフ間で運行されるディーゼル旅客列車内での公衆無線LAN(Wi-Fi)サービスが始まった。サハリン島内にはこのほか、1934年運行開始のオハ─モスカルヴォ鉄道線(、軌間1520mm)および1925年運行開始、1953年全通のオハ─ノグリキ狭軌鉄道線(、総延長233キロ、軌間750mm)が存在したが、自動車交通への転移でオハ─モスカルヴォ鉄道線は1980年代に、オハ─ノグリキ狭軌鉄道線は2007年にそれぞれ廃止されている。機関区は支区を含め4か所にあり、担当区間は次の通り。ディーゼル機関車は形、形、形、形、形がユジノサハリンスク区、ホルムスク区、ポロナイスク支区に所属。ディーゼル動車は形がユジノサハリンスク区およびホルムスク区に所属している。90年代に使用されたキハ58形(形)ディーゼル動車はユジノサハリンスク区およびホルムスク区に所属していた。貨物列車最大重量はホルムスク=ソルチローヴォチヌイ(ホルムスク操車場)─ユジノサハリンスク・ザオジョールノエ発着列車が900トン、コルサコフ─ウズモーリエ発着およびユジノサハリンスク─ポロナイスク─ティモウスク発着、ティモウスク─ノグリキ発着が3000トンと規定されている。ユジノサハリンスク駅に併設するロシア鉄道サハリン鉄道歴史博物館()は、日本統治時代に由来するサハリン狭軌鉄道線の歴史をテーマに2004年7月30日に開館した。樺太庁鉄道時代の1939年に新製された雪かき車(愛称:ワジマ)や2軸長物車のほか、戦後日本から輸出されたD51形蒸気機関車、島内無煙化を実現させた形ディーゼル機関車、1993年から2000年まで使用された形ディーゼル動車(元JR東日本キハ58形気動車)など、歴史的車両車籍を持つユジノサハリンスク機関区所属の車両を保存展示している。ユジノサハリンスク子供鉄道()は、ユジノサハリンスク市都市公園「ガガーリン公園」内に1954年6月6日に開設された運輸通信省南サハリン鉄道局の子供鉄道(総延長2.2km)で軌間は750mm。現在はロシア鉄道極東鉄道支社が運営し、車両や施設はサハリン島内の鉄道を模したものを使用している。毎年月・火曜日を除く5月1日から10月30日まで運行され、20校の児童約200人が3人の指導員の指導を受けて鉄道の運営にあたっている。1945年当時、日本運輸省鉄道総局樺太鉄道局管内であった国鉄線および私鉄線・専用鉄道線を含む南樺太・千島の施設および資産について、ソ連最高会議幹部会は同年9月20日に国有化を命令し、翌1946年2月2日に公表した。これを受けて同日決議されたソ連人民委員会議令263号「南サハリンにおけるソ連行政システム及び法令の導入」()に基づき、ソ連国鉄を運営するソ連運輸通信人民委員会は1946年2月10日、豊原(1946年6月、ユジノサハリンスクに改称)に南サハリン鉄道局()の設置を指示した。南サハリン鉄道局は運輸通信人民委員会がソ連運輸通信省に改組された1946年4月1日に発足し、ユジノサハリンスク、ホルムスク(真岡)、ポロナイスク(敷香)に鉄道地区部()が設置された。戦後もサハリンにおいては、1948年末の引き揚げ完了まで日本人の居住が認められたため、この間、日本人が引き続き南サハリン鉄道局管内の国鉄線運営に従事し、ソ連側に業務を引き継いだ。運輸通信人民委員会および運輸通信省は終戦当時から、サハリン北部のネヴェリスコイ海峡に海底トンネルを建設して南サハリン鉄道局管内の鉄道路線を大陸側と直結し、軌間を日本時代の狭軌(3フィート6インチ、1067mm)からシベリア鉄道と同等の広軌(5フィート、1524mm)に改軌する計画を立てていた。計画は後に1520mm改軌に改められたが着工されることはなく、1953年に海底トンネル計画の中止が決定されると、改軌計画も消滅した。南サハリン鉄道局では一部にソ連製の機関車および貨車の投入例があったものの、戦後も約20年間にわたって戦前の日本時代の車両や設備が引き続き使用された。また1948年に新製輸出された日本製のD51形蒸気機関車が主力機関車として投入されたほか、1961年には日本製の形ディーゼル動車8両が投入された。南サハリン鉄道局は1963年、ハバロフスクの運輸通信省極東鉄道局()の南サハリン支局()に編入改組され、鉄道近代化が本格的に進められた。1967年には鉄道用機関車の生産を目的にモスクワに近いカルーガ州に開設されたリュジノウスキー技術工場(, 現・レンプチュムシュ株式公開会社リュジノウスキー技術工場)において、狭軌用の形液体式ディーゼル機関車(のち同一形式で広軌用も登場)の新製が始まり、翌1968年までに30両が投入されてD51形蒸気機関車を置き換え、1971年に無煙化がほぼ達成された。信号通信設備の更新も進められた。1966年にユジノサハリンスク─ホルムスク線(旧豊真線)のノヴォデレヴェンスカヤ(奥鈴谷)付近の峠区間から自動信号機の導入を開始。第九次および第十次五カ年計画において各線の信号自動化やCTC化、鉄道無線網を整備。全動力車に列車無線が装備された。当時、東西を結ぶ唯一の路線だったユジノサハリンスクーホルムスク線は、急峻な山岳路線で輸送上の隘路となっていたため、極東鉄道局では同線に代わる東西連絡幹線として、日本時代に未成線(真久線)だったサハリン島最狭部のアルセンチェフカ(真縫)─イリインスク(久春内)間を結ぶ新線建設を進め、1971年に開通。輸送の主力は新線に移行した。1973年にはバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)ターミナルのワニノとホルムスクを結ぶ鉄道連絡船が就航し、車両航走を介して大陸の鉄道網と接続された。これ以降、サハリン州内の鉄道では日本製の狭軌用客貨車に代わり、広軌用の車体を使用した客貨車が一般的に用いられるようになり、劇的に輸送状況が改善された。本線(旧樺太東線)ポペジノ(古屯)以北の北サハリン域内への延伸工事も進められ、1977年には南サハリン支局をサハリン支局()に改称。1979年にはサハリン北部のノグリキまで開通した。1980年代に入ると、主要駅のユジノサハリンスク、コルサコフ(大泊)、ドリンスク(落合)で、老朽化した駅舎に代わる新駅舎への改築が行われた。また日本時代からのスイッチバック式の駅だったポロナイスク駅は新設移転され、方向転換せずに列車が通過できるよう改められた。島内運用のみの気動車については、老朽化した形の置き換え用として、広軌用の形ディーゼル動車の軌間を変更して導入する計画を立てたものの実現せず、1985年に富士重工業製のステンレス製ディーゼル動車形を輸入して投入した。1991年のソ連崩壊にともなって1992年1月20日、ソ連運輸通信省はロシア連邦運輸通信省()に改組され、極東鉄道局サハリン支局はユジノサハリンスクに設けられたサハリン鉄道局()に再編された。1992年にはリュジノウスキー技術工場製形ディーゼル機関車が形機関車の置き換え用として3両新製投入され、1995年にも2両が追加配備されてユジノサハリンスク、ホルムスク、ポロナイスクの各機関区に配備された。しかし1990年代のロシア国内における経済混乱にともない、高インフレーションによる予算不足とサハリン州内の人口減少による輸送需要減少が影響し、鉄道運営は困難な状況に置かれた。機器の信頼性の問題から形ディーゼル機関車のほとんどが休車に追い込まれ、部品不足から形ディーゼル動車も休車となった。悪化する経営環境に対処し鉄道を維持するため、サハリン鉄道局は1993年5月の理事会技術経営拡大会議で、運営の効率化と大規模な経費削減の方針を決定し、燃料や車両、機械、施設、人員、財務の各面で抜本的な見直しを行った。同年10月にはJR東日本で廃車となったキハ58系ディーゼル動車29両を無償譲受して部品取り用車などを除く17両を形ディーゼル動車として編入、1994年4月から通勤旅客輸送に使用した。また1995年にかけてダチノエ(新場)─アニワ(留多加)支線(旧南樺鉄道線)を廃止したほか、ドリンスク─スタロドゥープスコエ(栄浜)支線(旧樺太東線栄浜支線)、ホルムスク─ネベリスク(本斗)間(旧樺太西線の一部)およびネベリスク─シャフタ=サハリンスカヤ(内幌炭山)間(旧南樺太炭鉱鉄道線)など輸送需要が小さい閑散線区の旅客列車や貨物列車の運行を休止するなど、大規模な合理化を進めた。このほか、1994年にはトンネル施設損壊で、往年の東西連絡幹線だったユジノサハリンスク─ホルムスク線ノヴォデレヴェンスカヤ─ニコライチュク(池ノ端)間が不通となった。同区間の開通にはトンネル12か所(総延長5087メートル)の修復が必要で多額の経費を要することが判明したため、同線の運行休止と不通区間の廃止を決めた。一方、旧樺太西線時代から存在するホルムスク─イリインスク間のトンネル老朽化も深刻化したが、本土と東岸を結ぶ幹線であることから、迂回する新線を建設して1996年に開通させた。国内経済が安定した2000年代に入ると予算・部品不足状態も解消し、形は役割を終えて2000年に運用を終了。2001年には光ファイバー通信網「サハリン=トランステレコム」()の整備に着手し、2002年にかけてホルムスク─ネベリスク間に総延長454.4kmの光ファイバーケーブルを敷設した。さらに2002年7月、運輸通信省はサハリン鉄道局管内の狭軌路線について、ソ連編入当初の計画であった路線の広軌(1520mm)に全面的に改軌する「路線再建」()方針を決めた。ロシア連邦運輸通信省が運営する国鉄事業は2003年、国有企業のロシア鉄道公開株式会社に改組承継され、サハリン鉄道局は同社のサハリン鉄道支社となった。同年、サハリン鉄道支社管内の改軌工事が着工した。改軌工事はノヴォアレクサンドロフカ(小沼)にある第188土木機械局()が所管。狭軌車両による現在の列車運行を支障しないように線路外方に広軌用のレールを敷設する三線軌条方式とし、橋梁の掛け替え、排水構造物の建設、軌道やトンネルの強化などの施設更新を同時に進め、2010年までに37橋梁、75排水施設と新線迂回トンネル2区間を建設した。またサハリン=トランステレコムの光ファイバー通信網整備も、2006年に北部ティモウスク─ノグリキ間121.4kmの敷設終了によって完成した。ロシア鉄道は2010年10月1日、サハリン鉄道支社を廃止して運輸通信省極東鉄道局を前身とする極東鉄道支社(ハバロフスク)に編入し、極東鉄道支社サハリン地域部()となった。サハリン鉄道支社時代から開始した改軌・鉄道施設改良工事は、2011年1月1日時点で328kmで完成した。同年度は前年を10km以上上回る55.3kmの改軌工事を施工して改軌総延長は2012年春に383kmに到達。同年7月に路線総延長804.9kmの5割を超え、同年10月には438kmに達した。極東鉄道支社では本線部分については早くて2016年の改軌・改良工事終了を見込んでいるが、駅構内などの改軌工事が残っているため、広軌による実際の運行は2020年以降になる見通しである。ソ連国鉄編入当時のネベリスコイ海峡海底トンネル計画は、その後も構想として残り、1992年に新設された運輸通信省サハリン鉄道局のB・ワシリエフ局長(当時)がサハリントンネル()として公式の場で計画を再公表した。1999年にはニコライ・アクショーネンコ運輸通信相が重要計画と宣言し、翌2000年には計画立案担当部局が現地調査を実施した。2012年現在も計画は破棄されておらず、ロシア政府は2013年予算で基本設計費を計上する方針を示している。さらに宗谷海峡を経由して日本から欧州までの鉄道を直結する「サハリン=北海道トンネル」(宗谷トンネル、)構想もあり、2011年12月15日にはロシアのプーチン首相が大統領選挙を控えたテレビ会見において、間宮海峡に架橋して沿海州から樺太に鉄道を通す計画に関して、「日本までトンネルを建設することも可能であり検討中だ」と語った上で、「シベリア鉄道を日本の貨物で満載することにつながる」と期待を表明したが、外交筋は「日露政府間で検討している事実はない」としている。

出典:wikipedia

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