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湯口事件

湯口事件(ゆぐちじけん)は、読売ジャイアンツに投手として所属した湯口敏彦が1973年3月22日に急死したことをきっかけに、監督の川上哲治はもとより、球団全体へのバッシングに発展した事件。巨人は1965年に川上哲治監督のもと2年ぶりの日本一となり、以降1973年まで連覇を続けV9を達成した。当時の連覇新記録である4連覇を達成した1968年からドラフト1位指名を即戦力から将来性重視の方針に切り替え、1970年のドラフトでは岐阜短期大学附属高等学校の湯口敏彦を指名し獲得した。湯口は島本講平(箕島高等学校)・佐伯和司(広陵高等学校)と共にこの年の「高校三羽烏」に数えられ、プロでの活躍も期待されていた。入団後はチームの方針から二軍での育成が続いた。1年目は肘の故障もあり二軍戦に17試合登板して5勝6敗、2年目は1年目に記録した76四死球を問題視され、フォーム改造を受けたが(後に中村稔2軍投手コーチにより、フォームは元に戻された)、2勝3敗という結果だった。数字は残せなかったものの、同シーズン後半からは球団首脳陣から評価され、年俸は上昇した。この頃から湯口にはうつ病の発作が見られるようになった。2年目のシーズン終了後の1972年11月23日、湯口はファン感謝デーの紅白戦に出場した。前日に無礼講の例会があったこともあり体調が万全でない中での登板で、打者一巡・2ホームランの滅多打ちに遭い、川上監督や二軍監督の中尾碩志から激しく叱責された。さらにこの夜湯口が寮に戻らなかったことで中尾は湯口を拳で殴り、湯口はうつ病を悪化させた。11月27日の納会では誰が話し掛けても無言で、視点も定まらなかったという。11月28日チームドクターからうつ病と診断され、11月29日には、都内の病院に緊急入院をする。1973年1月10日には東京都新宿区の晴和病院(元日本野球機構コミッショナーの内村祐之が当時院長を務めていた)に移される。うつ病に回復の兆しが見え始めたが、マスコミの追及を恐れた球団側の意向で2月15日には多摩川グラウンドに復帰、2月19日には宮崎県宮崎市での春季キャンプに合流した。ところが湯口は同日、同室の淡口憲治から話し掛けられても反応しなかったり、真夜中に奇声を発したりし、異常に気付いた淡口が藤本健作マネージャーに報告した。事態を重く見たチーム首脳陣は翌2月20日、湯口のキャンプ参加を差し止め、強制的に送還した(藤本マネージャーも同行)。湯口は羽田空港到着後もロビーで奇声を発したり暴れたりしたため空港警備隊に取り押さえられ、再び晴和病院に緊急入院させられた。なお、球団は3月、内規により湯口への入院費支給を打ち切った。そして3月22日夕、湯口は病院のベッドで変死体となって見つかった。球団・病院は「湯口敏彦投手の死因は心臓麻痺」と発表したが、湯口の死因を巡り、マスコミからは「湯口の死は自殺で、その原因は球団にあるのではないか」と非難されることとなる。川上監督は湯口が死去した際に声明を発表したが、この時「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手なんですから。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかった事です」と発言した。この発言が決定打となり、巨人はマスコミから激しいバッシング報道を受けた。週刊ポストは湯口の急死を「事件」と報じ、死から約2週間後「巨人軍・湯口敏彦投手の死は自殺だった」という特集記事を掲載。湯口の父親の手記を登場させるなどバッシング報道を展開した。これに報知新聞以外のスポーツ新聞・週刊誌も追随したため、スポーツマスコミのほぼ全体から非難を受けることになった。巨人は1973年のドラフト会議で7人の選手を指名するが、1位の小林秀一、2位の黒坂幸夫、3位の中村裕二、5位の尾西和夫の4人が入団拒否し、入団したのは3人だけだった(3人のうち2人は、既に練習生として所属していた)。拒否した4人のうち3人がドラフトの上位指名1位から3位であった事からマスコミは本件と関連付けて「天罰だ」と報じた。小林は2014年現在、巨人のドラフト1位指名を拒否した唯一の選手となっている。ただし、小林の指名拒否は本人が希望するアマチュア野球の指導者への道が、プロとアマチュアの関係が冷え込んでいた当時の状況下ではプロ入りすると事実上絶たれてしまうという要因が大きかった(詳しくは本人の項を参照)。また、3位指名を拒否した中村も当時所属していた住友金属が将来の監督候補としていたため、企業及び本人がプロ入りに消極的だった。一方、2位指名を拒否した黒坂は「自信もなかったですが、湯口選手の件もありましたしね・・」と拒否の理由にこの一件があったことをはっきりと語っている(なお黒坂は1976年にヤクルトにドラフト4位で、尾西も同年に近鉄にドラフト2位で入団)。なお、この年に入団した4人(ドラフト外入団の1人を含む)のうち、一軍公式戦に出場した選手は4位の迫丸金次郎(のちに迫丸公勝と改名して広島に移籍)のみだった。迫丸はこの中で唯一引退後もコーチとして長くプロ野球界に残った人物でもあった。また巨人への入団を拒否し、後に他球団に入団した黒坂と尾西(共に投手)は、いずれも公式戦出場は果たしたものの、通算0勝に終わっている。湯口の急死は「自殺」でその原因は球団の湯口に対する態度にあるというバッシング報道が加熱したように、湯口事件のバッシング報道の先導役は男性向け総合週刊誌の業界だった。当時の球界の盟主たる巨人へのバッシングが、むしろ発行部数の増加や売上増に繋がるという事を示した事件となった。「鬼寮長」と呼ばれた武宮敏明も、自著「巨人軍底力の秘密」(ABC出版・1983年)で、「生真面目すぎて相手の性格に合わせる指導をせず、常に湯口を緊張状態においていた二軍監督(中尾)と繊細な湯口との取り合わせは最悪だった」と長年の寮長としての若手指導経験から中尾を批判しており、球団内部でも、自分たち(球団)に落ち度があることを認めている人間も少なくなかった。武宮自身は、当時コーチ兼任のスカウト部長に転出していた関係で寮長職を離れていたため、湯口を直接指導する機会は少なく、詳しい経緯を把握できなかったという。

出典:wikipedia

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